第2話

 一人になり、しばらくリュティスは机の上に肘をつき頭を乗せるように俯いたまま、押し黙っていた。

 十分ほどそうしてから彼は不意に立ち上がり本棚の方へ歩いて行く。

 メリクの見つけたコインを指先で取った。

 どこへやっていたのか、探そうともしなかったから忘れていたのだ。


 ……このコインは珍しくて当然だ。

 世に一つしかないものなのだから。


 もともと父であるメルドラン王が戦場で使う剣と、鞘とを繋ぎ止める鎖につけられていた装飾品なのである。

 つまり王の為に特別に作られたものなのだ。


 光と闇の神を両面一対に描いているコイン。

 これを手にして、父王が言ったことがある。


『まるで光と闇のようだな。

 グインエルとリュティス……。姿も性格も、持っている才すらも違う』


 あれは父王の誕生を祝う夜会が華やかに、王宮で催されたその夜のこと。

 リュティスはいつものように奥館に籠ったまま、本城の夜会には姿を見せなかった。


 もうすでに自分の【魔眼】をサンゴールの誰もが……母や父さえもが疎んでいるという事実を、自分で把握したあとのことだったから。


 リュティスは自分の意志で行かなかったのに、夜会が終わった後、兄のグインエルが奥館に呼びに来たのである。

 共に父上に祝いの言葉を言いに行こうと。

 リュティスは強く嫌がったのだがこんな時、兄は忌々しいほど強情で、リュティスの腕を引っぱり無理矢理本城へと連れて行く。


 先にグインエルが部屋に入り、メルドラン王にリュティスが来ることを伝えて来ることになった。

 大きな扉が開かれリュティスがその前でじっと憂鬱な気持ちで待っていると、奥からそんな言葉が聞こえて来たのだ。



『お前は光り輝く王子だ、グインエル』



 自分が聞いた事も無いひどく優しい声で父王がそう言った。

 それを聞いた時、リュティスはすぐに身を翻して、元来た道を駆け足で暗い奥館へと戻ったのである。


 その夜はやけに心がざわめいて、上手く眠ることが出来なかった。


 兄であるグインエルはいつもそうだった。

 来てほしいと口に出して願ったことなどリュティスは一度も無いのに、こういう日は必ず姿を見せる。

 まるでこの日だけは温かな家族を演じるのは当然だと言ってるように、当時のリュティスには感じられて、そんなことを言って来る兄が大嫌いだった。


 美しいアイスブルーの瞳に、

 寒気がするほどの優しい光を宿して、

 父に会いに行こうと言う兄のことが。


 ひどく憎くて大嫌いなのに、リュティスはいつもその目を拒めず父の側に寄っては、父が自分を少しも見ていないことを思い知らされるのである。


 今では、自分と同じ闇の属性の魔力を持つリュティスを何故父が疎んだのか……そのことは理解出来るのだが、当時は分からずわざわざそれを思い知らせようとするグインエルをただ子供の感情で恨んだのだ。


 ある日リュティスはそんな兄に言ったことがある。


『自分が【光の王子】と呼ばれていることを知っているから、時折くらいその光のおこぼれでも私にくれてやろうと思っているわけか、グイン』


 そう憎しみの言葉を向ければ、兄は傷ついたような表情でリュティスを見た。

 その顔も嫌いだった。

 傷ついたことを傷ついたと素直に表現出来る兄が、まだ幼かったリュティスにはひどく羨ましく、卑怯なことに思えたのである。



 魔術大国として、魔術と神儀を重んじるサンゴールにあって、

 高い魔力を持っていても病弱でそれを行使出来ないグインエルなど、並の魔術師にも劣る役立たずではないかと、何度心に思っただろう。


 なのに何故、父はそんなグインエルを尊重するのか。

 何故【光の王子】などと呼ぶのだ。

 力を持たぬ王などが何を光に導けるというのか。


 ……何故無力なはずのグインエルはあんなに幸せそうに日々を過ごせるのか。


 自分を恥じることも無く、臆することも無く、迷いが何故無いのか。



 何故、――あんなに光を思わせるのだろう。



『父上は私を闇の術師だと。疎んでおられるのだ。だから私は行かない』



 その日、リュティスは父と会うことを初めて明解に拒んだ。



◇   ◇   ◇



 数日後何の変哲も無い夜に、ふらりとグインエルが奥館にやって来た。

 彼は何も言わずに手を差し出して来て、弟の手に何かを持たせた。


 ……それがあの光と闇のコインだったのだ。


 グインエルが願い、父から譲り受けて来たものだということは明らかだった。

 怪訝そうに兄を見ると、グインエルはいつものように澄んだアイスブルーの瞳で、リュティスを真っすぐに見つめて来た。


『父上は私よりお前に似ているんだよ、リュティス』


 グインエルは言った。


『……あの方は闇の魔術師だ』


 目を僅かに伏せてグインエルは、リュティスの手の中にあるコインを、光に照らしてみせる。


『しかしサンゴールにとって父上は太陽の光にも等しい偉大な王だ。

 あの方がいなくては国は成り立たない』


 兄が一体何を言いに来たのか、真意を探るような目で見返す。


『お前は闇を恐れぬ。それはお前の内にこそ海のように深い闇があるからだ』


 蔑みも、少しの傲慢も無い目でグインエルはリュティスを【闇】と呼んだ。

 その言葉はリュティスにとっては自分に対する侮辱だった。

 幼い頃からサンゴールの者たちが、その言葉で自分を貶めて来た。


 ――闇の魔術師だ、と。


 それでもグインエルが口にした【闇】という言葉は、

 何故これほど美しく響くのか。


『私の中には同じように光がある。……だから私は光を恐れることは無い』

『何の話だ、グインエル』

 険しい顔で斬り込もうとしたリュティスの問いには答えず、グインエルは微笑みかけて来た。

『……だから私は闇を恐れるし、お前も光当たることを恐れている』

『私が光を恐れているだと? お前に私の何が分かる』


 光を恐れているのではない。

 憧れ、触れたいと望んでも得られないものだから拒絶するのだ。

 決して得られないものを想い続けるなど、ただひたすらに苦しむだけだから。


『お前は光の人間だ。だから闇が恐ろしいのは当然だ。だが私は……闇に生まれ育った。だから例えこの先にどんな深い闇が訪れようとも、お前のように無様に恐れ怯えたりはしない!』


 言葉で通じない代わりに、グインエルは両の腕でしっかりと胸に弟を抱き寄せて来た。


『リュティス。

 人の光と闇とは本質ではなく、

 運命の神に背負わされた宿業のことを指すのだ。

 ……だから闇が愛されぬ者でも、光が愛される者でもない』


 兄の指がリュティスの黒髪を優しく撫でる。


 それは、本当は誰よりも父に言ってほしい言葉だった。

 

 自分とはこれほどに分け隔った所に生きるグインエルが何故、

 そんなことを言う気になるのか、

【魔眼】を見つめて来れるのか、

 触れて来れるのか、

 リュティスは不思議でならなかった。


 リュティスはいつも、グインエルの隣に立つだけで自分が惨めになる。

 心がざわめいて、憎しみの火種が生まれる。

 自分がもし光の中で生きているのなら、

 わざわざ闇の底をのぞきこむような真似は決してしない。


 だがグインエルはいつもそうだった。


 光のある方から、

 高い所から、

 暖かい所からこちらの方へと手を伸ばして来る。


 それは間違いなくただ一人の弟がそこにいるのを知っているからだった。

 だから手を伸ばして来る。


 ……共に生きようとして。


『サンゴールが闇の属性たる父上を偉大なる王に戴き、

 必要とし、求めるように……私もお前の持つ強さが光のように眩しく、愛しい。

 闇に生まれ闇を恐れぬその強い心が』


 グインエルはリュティスの頭を優しく撫でた。

『光ゆえに闇を愛する、そういうものだよ。

 そのひたむきな深さと静かさに心惹かれるのかな』


『……』


『……父上を許してさしあげてくれ、リュティス』


 兄は全てを分かっていたのだ。

 同類故にリュティスを疎み遠ざける父の心を。


 父親として大きな欠落を持つメルドランが見出した唯一の光が、母妃への愛だった。


 だがそれは拒絶された。リュティスを産み落とした為にだ。

 それを叱ることも、憎むことも出来なかった。

 だからメルドランはグインエルを心から求め、リュティスを遠ざける。

 それは愛が無いからではないのだということを。


 本当の意味でメルドランの虚無感を理解出来るのは、

 自分ではなくリュティスしかいないのだということを、

 兄は知っていたから。


 愛しさなど抱いたことは無かった。

 誰にも、一度もだ。


 父がグインエルを【光】と呼び、リュティスを【闇】と呼ぶ限り、

 リュティスは決してグインエルを生涯許すことは出来ないだろうと思っていた。

 だがグインエルは、リュティスを愛しいと言うことに何の躊躇いも無いのだ。


 ……それが光の人間の強さなのだとリュティスは思い知る。


 心の中は完全に打ちのめされたリュティスに、グインエルはぽつりと言った。


『闇の術師ゆえに、お前もやがて光の人間を愛するだろう……』


 兄の腕に抱かれたまま、

 そんな日は決して来ないとリュティスはせめてもの抵抗に言ってやった。

 グインエルはそんな弟を笑いながら見つめている。





 悔しかった。

 居たたまれない気持ちにさせられた。


 ……だが手の中のコインを捨てる気にはならなかったのだ。


 光と闇が同価であり、どちらが優れているわけでも劣っているわけでもない。

 闇は光を求め、そして光もまた闇を求めるものなのだと。

 魔力を行使出来ない王子なのに、グインエルの双眸は最初から偏った所を持たず、世界の本質を見抜いていた。


 光と闇を一対に見る、そんな風に自分もなりたいと願ったからか。

 

 光と闇をその双眸で捉える者。

 それこそ完全なる世界を視る、真理の使徒だった。


 リュティスはコインを窓の方へと翳した。

 日に反射させても色褪せたコインは、もはや輝くことは無く鈍色に沈むだけだ。

 リュティスは側の棚の引き出しを開けると、その中にコインを落として棚を閉じた。


 もう必要は無いのだ。


 色褪せることも無い『完全なる瞳』を自分は得ることは無かったが、


 それを自分に教えてくれた者は得られたのだ。

 美しいアイスブルーの双眸は、確かに今も鮮明にこの胸に刻まれているのだから。


【終】

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その翡翠き彷徨い【第14話 光と闇の】 七海ポルカ @reeeeeen13

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