第6話 希望
季節が少し進んだ。吐いた息が白い水蒸気にはならないほどに。相変わらず仕事は忙しい。ドラマはあのまま好調な評判で続いており、もうすぐ最終回になる。懸念していた官能描写も、深夜枠だからか、大胆かつ綺麗で、思わず息を飲むほどだった。そのシーンが、縦型の動画SNSで切り抜きされていて、それに女の子が黄色いコメントを残しているのを見て、何度もうれしく思った。恵まれている、あの時に比べてずっと。朝起きて、ジッポで煙草に火をつけて煙草を吸うところから一日が始まり、革製のゲーミングチェアで執筆をして、双方向性通信アプリで打ち合わせをして、一日を終える。頭を酷使した夜には、お酒を飲みながらSNSでの私の書いた作品の評価を見たり、マサさんの投稿を見て、夜が更けていく。対面して人と会わない日も多いが、通販サイトでほしいと思った本を好きにカートに入れることも、コーヒーメーカーのポーションを定期購入したりさえできる。
明日は意図的に作った休暇だ。ただ、好きな映画を見て好きな本を読むだけで、誰からも連絡される事のない日が時折ほしくなり、定期的に休暇を設けている。結局は執筆を始めたりする日もあるが、打ち合わせや資料の確認の連絡などに縛られない一日というのは、やはり気分がいい。
アイスペールに氷を盛って、強炭酸のボトルとお気に入りのウイスキーを持って、ソファーの前のコーヒーテーブルに置いた。ハイボールを作って、一口飲んで。先日、漫画の打ち合わせの時に行ったチームの誰かがお土産でくれたチョコレートをかじって、また一口。豊かな香りと甘みが口いっぱいに広がって、一日の疲れがほぐれていく感覚がする。
完全にソファーに身を預けながらSNSをのぞくと、相変わらずマサさんは定期的にライブをしているらしかった。頻繁に連絡することはないし、あの夜以来性的な話は一度もしていない。ただ、一方的にSNSの投稿で、以前よりも大きなライブハウスでやっているらしいという事と、他のアーティストが主催するイベントに出る機会が多くなったという事が見て取れた。
あの食事以降も、行けるライブには行くようにしていて、終わってから短く今日も楽しかったですと短く打って、社交辞令の返事が返ってくる程度の距離感は続いている。まるでこっちが男をキープしているかのような自分の所作に、そんな価値も度胸もない癖にと自分で自分を嘲笑してしまう時がある。
相変わらず、彼に抱かれる答えは出ていない。
彼の誘いに乗れば、恋が進むのかもしれない。恋と性ばかりにスポットライトを当てた文章ばかり書いている身でありながら、もう恋愛市場からずっとご無沙汰であるというのは、もどかしさもさみしさも、人一倍募る。人の欲は底なし沼だ。それも生ぬるくて、ぬかるんでいていて、居心地が良いのに苦しい気がする沼だ。ここまで来て、まだ愛とやらを手に入れようとしている。
ハイボールの炭酸のボトルがあいた。キッチンに行って、ストックしてある炭酸のペットボトルを一つもって、ついでにほとんど溶けてしまったしまったアイスペールの中身を補充する。ソファーに座りなおす途中で、街中でふらりと入った個展ののあの絵が、壁から私を見下ろしていた。この絵を私は時折、富の象徴のように眺めている。娯楽のための絵を、何の躊躇もなく買える程になれたんだぞ、と誇らしい気持ちで。
ぐにゃりとその絵の唇が歪んで、開いた気がした。アルコールがまわって、変な妄想にとりつかれているのかもしれない。そうとわかりながらも、その絵がしゃべりだすのを私は受け入れるように見ながら、絵の前に立ち尽くした。
「贅沢ものめ。お前は普通じゃない生き方を望んだのだ。願うだけでなりたいものになれるのなら、この世界はお花屋さんとケーキ屋さんばかりになる。努力するだけでなりたいものになれるなら、街はブランドバッグを持って、毎食ウニといくらを食べるような奴だらけだ。夢を叶えるには、願いも努力も、運だっている。そんなシビアな世の中で、お前はなりたかった作家で食っていけているのだ。夢を叶えたのだ。恋人だとか、結婚だとか、子供だとか。そういう世間が作った幸福の指標みたいなものに従って、今更そっちでも結果をだそうだなんて、あまりにも贅沢だ。」
わかっている、と叫びそうになった。だが、絵の女の人を圧倒される雰囲気と声色に私は何も言えなくなっていた。
女は続けた。
「その恋というものが、結婚という軌道に乗る形で上手くいったとして。これだけ進歩した時代でも、まだ沢山の事をあきらめなければいけないのは女のお前だ。家庭に収まって、晩飯のニンジンを切りながら、私の人生はこうじゃなかったとお前は思うだろう。それがセックスだけの関係にとどまって、そのセックスが自分の想っていたセックスじゃなかったとして。または、純粋に恋愛関係として上手くいかなかったとして、今まで書けていたものが書けなくなって。そうなっても、手なんて出さなければよかったとキャリアへの不安でいっぱいになるだろう。抱かれたら幸せになる、ならない、そんな簡単な話じゃない。人生はおとぎ話じゃない。めでたしめでたし、で締めくくられて、ENDという文字が最後に来てそこではい終わり、とはならないんだ。それが人生だ。だからお前は踏みとどまっている。それをわかっていて、見ないふりをして、問題を先送りにしている」
饒舌な女はそういうと、ほくそえんで言い捨てた。
「人生には時間が無い。思っているよりも、あっという間に時間は過ぎて、人は老いていく」
そう言うと、彼女は、またモノクロの絵画へと戻った。
頭が痛い。昨日は飲みすぎて、それで絵がしゃべった。いや、しゃべったように酔いすぎてその時はおもっていたのだ。私は霊感というものもなければ、描かれた絵はいわくつきでもなんでもなく、駆け出しの現代アート作家のものである。
あれは私だったのだ。私の心の内で、本当は思っていたことなのだから。
私の好きなマサさんは、私の中の想像しているマサさんであって、実物とは違う。肩とつま先の冷えるセックスをする人の可能性だってある。いや、セックスへの期待が高まりすぎている分、多分その可能性が高い。
恋で腹は膨れない。私の些細な生活の不便も救ってはくれない。時間になったら勝手に部屋を掃除してくれる機械も、何時間座っても腰が痛くならない椅子も、恋だけじゃ降ってこない。想像上の彼をなくして、書けなくなったとしたら、私の懐は急冷されるだろう。私は通信販売のカートに本を入れる度に値段とにらめっこして、そのたびに自分は不幸になってしまったと思うだろう。運よく家庭に入れたとしても、きっと幸福な日常の中でこうじゃなかった、私の居場所はここではないのだという感情が頭をもたげ、日に日に大きくなって押しつぶしていく。
あの絵に言われて、自覚した。私はその日々を、何度も見た映画のように鮮明に想像することができる。私の目の前にある選択肢は、抱かれるか抱かれないか。今はこれしかないように見えて、抱かれるを選んだあとの選択肢が、ほぼすべて薄暗いのだ。確率で考えれば、さけるべき事なのだ。
キッチンへと向かい、ウォーターサーバーのスイッチを押して冷たい水を汲み、一気に飲み干す。乾いて口蓋にくっついた舌がはがれて、食道から一気に腹までが冷たくなる。
次第にすっきりとしていく頭を引き連れて、昨夜酔って充電をし忘れたスマートフォンを開いた。
通知が一件来ていた。
マサさんからだった。
開いてみると、今月食事でもどうですか、という内容だった。その一つ前は、私が送ったスタンプで締めくくられている。なんの脈絡もない、食事の誘いだった。
私の腹は決まった。いや、決まっていたのだろう。
全てを投げ出す覚悟を持てるほど人を愛する事が恋だとしたら、私は恋を捨てる。
世間の幸福のものさしで幸福を測れない日々に悩んだとしても、人生はどうせ、思っているよりも短いのだ。悩んでいるうちにどうせ命は尽きる。今際の際に後悔しても、残した作品の増えた棚を見れば、きっとそれは後悔じゃないと思える。彼を好きだった時間より、官能小説を愛して、ささげた時間の方が圧倒的に多いのだから。
私は、官能小説作家なのだから。触れられない恋も、官能だと思って書ける作家になればいいのだ。作品の中のキャラクターが私の代わりに幸福のものさしで測れる幸福をかなえてくれればいい。作品のキャラクターは、私の敵ではなく、私から生まれた、私の分身なのだから。そう思えば、作家というのはなんといい仕事なのだろう。一度しか経験できない初恋も、情熱も、幸福な人生も、何度となく経験できるのだから。
ああ、作家になってよかった。
お金や名声で満たされていなかった心の壺が、急速に満たされていく感覚がした。
私はマサさんのメッセージに返信をせずに画面を落とした。聡い彼ならこれ以上もう送ってこないだろう。そして私も、彼に連絡することはないだろう。たとえ、彼のライブに行ったとしても、もう二度と。
私は、作家でいたい。この肉体が燃え尽きるまで、官能作家として。
ミューズ 思慕 藍伽 @shibo_aika
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