地上の星

浅井照

地上の星

 大切なものは失ってから気づく。


 これが誰の残した言葉か僕は知らない。

 ただ、この言葉が伝えたかった意味を、今の僕なら少しは理解できるかもしれなかった。

 

 よわい12歳の年、人生で初めて人の死というものを経験した。

 家族の死、それも僕が大好きだった祖父の死だ。

 死装束を着せられ、棺桶の中で眠る祖父の顔が忘れられない。

 火葬の直前、うつむき目に涙を浮かべる母の顔を今でも覚えている。

 当時小学生だった僕にも、二度と祖父の――その骨ばった胸に抱き着くことができないと、わかっていたはずだ。

 それなのに、なぜか母と同じように目に涙を浮かべることが出来なかった。

 なぜだろうか。

 この時の僕には、祖父と今生の別れになるという発想自体が浮かばなかった。


 それから16年。

 僕は実家を飛び出し、今ではしがないサラリーマンをしている。

 高校卒業と同時に上京し、適当な会社に入社した。

 上京の理由は、取り敢えず都会で暮らしてみたいという田舎っ子特有の有り触れたものだ。

 明確な夢や目標も無く、懇意こんいにしている友人も、親密な間柄の異性もいない。

 年々貯まっていく預金と、処理しても溜まり続ける仕事だけが、今の僕の生きがいだった。

 死にたいと口にしたことは一度もない。

 だが、生きている意味を見出せない。

 今の僕は、果たして生きていると言えるのだろうか。

 俯瞰して見る自身の顔は、あの時、棺桶で眠る祖父と同じような顔に見えた。


 今年は祖父の十七回忌である。

 そのことに気づいたのは、母からの久々の電話だった。

 実家には、ここ三年ほど帰っていない。

 仕事が忙しかったのもあるが、理由の大部分は、ただめんどくさかったという月並みなものだ。

 母には「お盆には帰る」とだけ残し、すぐに切電した。

 あの頃は大好きだった祖父も、僕の中では既に過去の人となってしまっている。

 仮に僕が今死んだとして、祖父のように、節目にはこうやって集まってくれるのだろうか。

 感情豊かな母なら、線香の一本くらい上げてくれるかもしれない。

 でも、それ以上はどうしても自信が持てなかった。

 今死んだら、親族随一の親不孝者になる。

 そのことを重々承知していたからだ。


 実家へは、新幹線で1時間半ほどで着く。

 何度も長いトンネルを潜る為、スマホゲームなんかはもってのほか、暇つぶしに動画を見ることも難しい。

 その為、僕は実家に帰るときは、毎回アイマスクをして仮眠をとることにしている。

 新幹線の微弱な振動が心地良い。

 普段の通勤で疲れ切っていた僕の体は、ここぞとばかりに僕を夢の世界へといざなっていった。


 夢とは不思議なもので、僕が既に忘れてしまった過去の思い出を見させてくれる。

 あれは小さい時の僕だろうか。

 手を繋いでいるのは、亡くなった祖父だ。

 夏祭りの帰り道、二人は河川敷を歩いている。

 二人とも浴衣に着替えていて、僕は右手に水風船を持っていた。

 祭りの余韻が収まらずしきりに話しかける僕を、祖父は笑顔で見つめている。

 その日は星が綺麗な夜だった。

 周りに明かりの少ない、田舎特有の満天の星が広がっている。

 ふと、小さな僕の傍らに、星が一つ落ちてきた。

 いや、それは星ではない。

 一匹の蛍だった。

 「それは、蛍というんだよ」

 祖父の優しい穏やかな声が聞こえる。

 「ホタル?」

 当時の僕には、蛍と星の区別が付かなかった。

 だからこそ、蛍を見れば、また祖父に会えると考えたのだ。

 だって、よく亡くなった人はお星様になるというじゃないか。

 僕の祖父は、夜空に浮かぶ星となった。

 そして、蛍になってまた僕の隣に来てくれる。

 だからあの時、僕は泣くことが出来なかったのだ。

 なぜ、今まで忘れてしまっていたのか。

 これは、僕にとって最も大切な思い出の一つだ。


 新幹線を降りた僕は、一目散に駆け出していた。

 時刻は黄昏時。

 日が落ちるにはまだ少し時間があったが、そんなのは関係ない。

 久しぶりにやりたいことが見つかった。

 今の僕はその高揚感でいっぱいだった。

 あの河川敷へは、駅から最短で走っても一時間弱はかかる。

 運動不足の僕は、横腹が痛くなっていた。

 でも、その痛みも今は心地良く感じる。


 河川敷に着いた頃には、日はすっかり落ち切っていた。

 最短距離で走ってきたはずなのに、予定時刻の倍近くの時間がかかっている。

 河川敷には、蛍は一匹のいなかった。

 あるのは静寂と、夜空に浮かぶ黄金のお月様だけだった。

 「……帰ろう」

 今の時代は、田舎でも蛍を見るのは難しいのだ。

 時代と共に、川の汚染は進んでしまった。

 もしかしたらと思ったが、思い出は思い出の中にあるからこそ輝くものだ。

 僕は実家へ帰るためにきびすを返した。

 その時、僕の目の前に星が一つ落ちてくる。

 一匹の蛍が、あの時と同じシチュエーションで僕の目の前を飛んでいる。

 「おじいちゃん……」

 僕の目から、自然と涙が溢れた。

 今になって、祖父が亡くなったという実感が溢れて止まらなかった。

 

 大切なものは失ってから気づく。

 

 僕は二度と取り戻せない祖父との思い出を胸に、その場で声を殺して泣いていた。

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地上の星 浅井照 @teru-asai

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