丑三つ時の酔いどれたち
@anekaiko
第1話
ワインバー「ヴィンテージ」は駅から5分、住宅街の中にひっそりある。この引き戸を開けるのは、初めてだと少し勇気がいる装いだ。
深夜2時、他のお客が帰ったあとも、ダラダラと飲む二人の常連。そして、人の酒を飲みべろべろになっているマスターが一人。この三人になってから、いつも事は起きる。
マスターの伊藤がふと、カウンターの奥から古びた懐中時計を取り出したのだ。
それは銀色に鈍く光り、文字盤には見慣れない模様が刻まれている。
「伊藤さん、それなんですか?」
小岩が興味津々に尋ねると、伊藤は微笑みながら時計を軽く回した。
「これはですねぇ、実は、時間を止められる時計でして」
「…また冗談を」
北村が眉をひそめる。
だが、伊藤はその時計を手に取り、軽くボタンを押した。
その瞬間、店内のジャズの音が途切れ、ワイングラスの液面がピタリと静止した。
外の車の音も、人の足音も、すべてが完全に止まっている。
「え、ちょっと待って、本当に止まってるじゃないですか!?」
小岩が驚いて立ち上がるが、音もなく、その動きも妙に滑らかだ。
「いやいや、これ、本当に時間止まってるんですか?」
北村がグラスを持ち上げてみるが、中の液体はぴくりとも揺れない。
伊藤は口元だけ微笑み、時計をカウンターに置いた。
「二人は時間を止めてやりたい事ありますか?」
【小岩の場合】
小岩はしばらく考え込んでから、急に顔を輝かせた。
「あ、これ、使いようによってはめちゃくちゃ便利じゃないですか!」
彼女はそのまま店の外に飛び出し、近くのコンビニに向かった。
店内には夜勤の無表情の店員と、立ち止まった客たちが並んでいる。
「いや、これタダでお菓子もお酒も取り放題じゃないですか!アイスも絶対溶けないし!!」
小岩はウキウキしながらワインボトルを一本手に取り、チーズやおつまみもポケットに詰め込んで戻ってきた。
「いや、小岩さん、それはただの万引きですよ…。通報しますよ」
北村が呆れた顔でつぶやくが小岩はまったく気にしていない。
「いやいや、時間止まってるんだからセーフでしょ!」
「倫理観がアウトです、戻してきなさい」
「ちっ、じゃあやること道路に寝るのと、あそこの犬触ることしかないじゃん」
「舌打ちしない」
【北村の場合】
一方、北村はもっと冷静だった。
「…せっかく時間が止まっているなら、少し散歩してみようかな」
彼は店を出て、大通りに向かった。
車もバイクも、人々もすべて止まっている。
その中で、北村は一人、悠々と歩き始めた。
「…こうして見ると、街って意外とキレイだな」
彼は公園に立ち寄り、風で舞った落ち葉が空中で貼りついたように止まっているのを見つけた。
その光景に少しだけ感動しながら、ベンチに腰を下ろす。
だが、ふといたずら心が湧き上がり、通りを歩く人々のポケットにチラシや落ち葉を詰め込んだり、
信号待ちをしている自転車のサドルにその辺の花を差し込んだり、
自動販売機の釣り銭返却口にガムを押し込んだりと、次第に悪ノリし始める。
「…いや、これ、絶対バレるだろうな」
彼は苦笑しながら店に戻った。
【伊藤の場合】
一方、伊藤は店内で一人、静かにグラスを拭いていた。
「…さて、私も少し遊んでみますか」
彼は時計をポケットにしまい、街に出た。
立ち止まった人々に軽くいたずらを仕掛けていく。
駅前で酔い潰れているサラリーマンの靴を左右逆にしてみたり、犬を散歩しているおじさんの犬のリードを木に巻きつけてみたり。
さらには、交差点で信号待ちをしている人たちの帽子を入れ替えたり、
いつもいく牛丼屋の店員にサングラスをかけてみたり。
「いやあ、たまにはこういうのも悪くないですね」
そして、伊藤はふと立ち止まり、空を見上げた。
星が静止したまま、凍りついたように輝いている。
その光景に、彼は一瞬だけ寂しさを覚えた。止まった世界に、一人。
店に近付くと、もう二人は戻ってるようで、静かな世界に二人の賑やかな笑い声が響いていた。伊藤の足が、少し早くなる。
店に戻ると、伊藤は静かに時計を机の上に置いた。
「良い経験になりましたね、楽しかったですか?」
「ていうかシンプルに寝ればよかった。明日6時起きなんですが」
「ぼくは8時までにリモートすれば良いので」
「は?働けし」
失敗したと頭を抱える小岩、ご愁傷様ですと手を合わせる北村。伊藤はそっと時計のボタンを押した。
その瞬間、店内のジャズが再び流れ始め、グラスのワインも微かに揺れた。
「…あ、戻った」
小岩は手元の赤ワインを、くるくると回す。
「次はもっと計画的に使いましょう」
北村がぼそりとつぶやき、三人は最後の一杯と静かにグラスを合わせた。
北村:起床7時30分 無事リモート出社
小岩:起床6時45分 ノーメイク出社
伊藤:起床11時 寝起きでラーメン
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