1章 オートマチック・ディダクション・ペイメント・プラン
1
トランペットを置いて、ソファに座った。
私こと中兼由麻は、大学に入りたての純朴な一年生で、授業やサークル活動よりも、大学という場所に対して、身体を順応させる方を優先している時期だった。それに加えて私は、入ったジャズ研究部の顧問に、知り合いのやっている個人の音楽教室に通わないか、と唐突な打診をされたのが、二、三ヶ月ほど前のことだった。
初めは不審だったが、こんな暇つぶしで始めたトランペットを認めてくれるのだろうか、と思って、私はあまり深く考えずに、教室に通うことを承諾した。そうしているうちに、私は大学やうちのサークルよりも、銀川せれな先生の家の方が、本当の自分の居場所なんじゃないか、という思い込みを強めていった。そのくらい、私は漬物みたいに、どっぷりと先生の家に入り浸っていた。
分譲マンション(それがどういうものなのかはよくわからないが、その言葉が適していた)の一室。一人で住むには、かなり広い部屋だと思ったが、先生に旦那がいただとか、恋人がいただとか、そういう話は一切聞いたことがなかった。
せれな先生は美人で、信じられないほど音楽に詳しくて、そして私が絶対に他人と共有することはないと思っていた、古いテレビゲームについても、相当の理解があった。私は彼女とそういう二人だけの秘密みたいな話を、ここに来て何時間でも交わすことが、たまらなく好きだった。
この世の春。そう思った。
恋愛に対して興味はないし、他人にだって、そこまで関心があるわけではないけれど、私はせれな先生と出会ってから、ずっと麻薬を頭に注射したみたいに、意味がわからないくらいに満たされていた。
この日もレッスンを終えて、古いテレビゲームの話を、先生と二人でしていた。さっきまでやっていた、音楽レッスンの内容すら、頭から追い出してしまったほどだった。そもそも、せれな先生の得意な楽器はギターであり、その副産物としてピアノが多少弾ける程度だったから、彼女にとってトランペットなんて言う楽器は、知識としてしか知らない未知のものでしか無い。そうなると、私たちができる共通の話題となると、ジャズかレトロゲームに限定された。
楽しい。その感情が、サスティーンみたいに続けば良いのに、途中で話をぶった切って、先生は突然に思いついたように口にした。
「ねえ由麻ちゃん、ちょっと手伝って欲しいことがあるんだけど」
「良いですけど」内容を聞く前に、私は頷いた。というより、ある程度予想がついていた。「もしかして、家庭教師の件ですか?」
「そうそう。受けてから、もう一ヶ月くらいになるんだけど、音楽ってやっぱり一人じゃ限界があるでしょ? 人と合わせないと、と思って」
ここ最近せれな先生は、やや遠くて辺鄙な場所にある金持ちの屋敷で、音楽の家庭教師をしている、と私に話していた。教えている相手はガキで、ピアノがとりあえず弾けるようにして欲しい、と両親や本人からは頼まれているようだった。
その影響は、私の方にも出ていた。屋敷の立地から、私のレッスンをいくつか削らなければ、向こうの授業時間を満足に捻出できないらしく、この一ヶ月ほど、私の中でせれな先生との時間が、以前に比べて明らかに目減りしていた。
不満だ。納得いかない。そんな授業なんかやめて、私と一緒にいて欲しい、なんて本音を本人にぶつけても良かったけれど、わかっている。私のレッスン料だけで、先生の生活を賄えるわけはないんだって。
その証拠に、彼女はずっと、家計の計算をしている。テーブルの上には電卓があり、難しい数字の書かれた紙があり、インクの少なくなったボールペンがあった。この謎の美人女教師が、個人の音楽教室の講師以外に、仕事は何をやっているのか、私は知らないけれど、いつ訪ねても彼女は暇そうにしており、特に裕福というわけでもないその暮らしの様子は、家に上がり込んでいる私が一番良く知っていた。
「少しね」先生は、テーブルから離れたソファにいる、私に話す。弁明するような口調で。「一週間後ぐらいなんだけど、その屋敷から、泊りがけで授業をして欲しい、っていう珍しい頼みがあってね。夏休みだから、だとかなんとか、そんな理由らしいんだけど、とにかくね、ほかの教科の家庭教師も全員呼んで、みんなに食事もご馳走するっていう話になってるんだけど、よかったら由麻ちゃんもどうかなって」
「パーティみたいなもんですか」
「そうそう。金持ちは時々そういうことをして、きちんと庶民に還元してるって実感したいのよ」せれな先生は、嘲るほどではないが笑った。「で、授業もちょっと行き詰まりそうだし、折角の機会だから、最近ちょっとレッスンが少なくなっちゃた埋め合わせって言ったらなんだけど、由麻ちゃんにも来て欲しいな、って思っただけよ。ああ、嫌なら良いのよ、別に」
「嫌じゃないですけど……」
なにか、怯えるようなせれな先生の様子。
それには心当たりがあった。このリビングには、ホワイトボードが置いてある。大した大きさではなく、百四十文字程度の文章でも書けば、もういっぱいになってしまいそうな、授業にしては小規模だけど、家庭に置くには邪魔なサイズだった。
そこには、辞めた一人の生徒の名前が、まだ残されている。消すのが面倒なのか、それとも、その悲しみが抜けきっていないのか、私にはわからないけれど、この辞めた女は奇しくも同じジャズ研究部にいて、彼女の方には何も変わった様子がないことから、私の苛立ちを増幅させた。
また生徒に辞められることを、先生は恐れているのだろう。自分の授業が、面白くないんじゃないかって、常に思っているんだろう。そんなことない。そんなことないですよ、って言ってあげる機会があるなら、私は何度でも口にしてもいいが、私と彼女の間にある主な会話は、純粋な趣味としての音楽談義と、レトロゲームのことだけだった。
「泊まり込みって言ってましたけど」私は、とりあえず、自分の考えを投げて捨てるように尋ねた。「何日くらいなんですか?」
「とりあえずは二日って言ってたわね。ある程度の着替えなら向こうが用意するって言ってたけど、流石にそんなに入り浸るのも悪いから、二日分の着替えがあれば良いわよ。でも由麻ちゃん、本当に来てくれるの?」
「当然ですよ。授業料もその分払います」
「今回は無料でいいわよ。旅行みたいなもんだもの。それより、夏休みの予定は無いの?」
「あのやる気のない上級生が仕切るジャズ研究部ですよ? しかも一年生がやることなんて、なんにもないです。個人練習の予定しかありませんでした」
「練習は立派だけど、友達とも遊んだほうが良いわよ、由麻ちゃん」
「そこは、バランス取ってるので」私は嘘を言う。本当は、大学の外で友達付き合いをするような趣味はない。もちろん、友達がいないという意味ではないが。「それに、負けたくない人間が部内にいるので、もっと練習したいって思ってるんです」
「なら良いけど、遊べるときに遊んだほうが、将来的に心の豊かさが違うわよ」
「先生といる今が、私の豊かさですよ」
彼女の方を向いて、ハッキリとそう口にしたっていうのに、なんだかこの女教師には、どうも私の真意が通じていないらしく、あははは、と笑ってからせれな先生は、また家計の計算を始めた。
「はあ。もっと生徒を取ったほうが良いのかしらね」先生が呟く。「そうしたら由麻ちゃんのレッスンにも幅が出ると思うし……でも、上手くいくかしら」
「良いんですよ、先生。私は、今が幸せですから」
もう一度、念を押して同じようなことを私は言ったのに、やっぱり彼女には通じないらしかった。
私には、あなたといる時間だけあれば良い。
同時に、あなたもそうであって欲しい。
そういう意味でしか無い。
数日後、八月の四日だった。
その日、私は早朝から気合を入れて髪をセットし、一昨日のうちに買ってあった新しいワンピースを身に着けて、それから気に入っているやや排他的なサングラスを掛けて、スーツケースを持って家を出た。もちろん、トランペットも忘れていない。これは、私にとっては、スマートフォンよりも優先順位が高い、私の手足や凶器とも言える代物だった。
日差しがきつく、暑い。その眩しさは、サングラスがなければ何も見えないくらいだった。道路も、森も、田んぼも、駅も、人も、学校も、全部光の波だか粒子だかに、飲み込まれてしまったみたいだ。
むき出しの殺人的な夏を我慢して、私はいそいそと先生の家へ向かった。先生はマンションの前に車を止めて、出迎えるように私を待っていた。私は挨拶をしてから、車の後ろにスーツケースを積んで、助手席に座った。せれな先生は、髪こそ暑いのかポニーテール気味に纏めていたけれど、服装はびっくりするくらいに、いつも通りの格好だったし、着替えも適当なリュックに詰め込んでいるようだった。ギターすら、車には積んでいなかった。
準備に対して過不足がないかを確認すると、せれな先生は車を発進させた。軽自動車だったが、流石に音楽教師なりのこだわりなのか、カーステレオは良いものを積んでいるらしく、音の品質は良かった。流れているのは、どういうチョイスなのかシューゲイザーが多かった。マイブラやライドや、ラッシュやスワーヴドライバーが大半を占めた。そこから少しそれてコクトー・ツインズやデッド・カン・ダンスやディア・ハンターなんかも流れた。知ったふうに私はそれらに耳を傾けたが、実際には名前すら聞いたことのないバンドが多かった。
それにしたって、夏の緩慢な高気温の中で聴くような音楽ではない。陰鬱で、厭世的で、背中に毛布を覆い被せられているような感覚にすらなった。もちろんエアコンは効いているのだけれど、私は片手に持っていた紅茶のペットボトルを、すぐに飲み干してしまったくらいに、聴いていると何処か喉の渇きを覚えた。
車窓から見えるのは、全く知らない景色。別に、先生の家、もとい私の通う大学の近辺が栄えているという認識はなかったのだけれど、そこが都会に思えるくらいに、どんどんと世界が滅びそうな勢いで、建造物が少なくなり、草と森の割合が増えていった。子供の頃、こういった遠くにあるラーメン屋に連れて行ってもらったことを、私は何故か思い出した。
隣の、また隣の市だと言っていた。そんな場所の金持ちに、どういう経緯で雇われたのだろう。気になって尋ねると、先生は「知り合いの知り合いの知り合いくらいのコネクション」だと答えた。
けれど、今から向かう屋敷には、実は私にも縁があった。後から聞いて驚いたのだけれど、私の親戚がその近くに住んでおり、ちょうどその屋敷で家庭教師をしている、と言った。それを知った時、世間なんて、大した広さじゃないんだって私は感じた。
「その人は」親戚のことを教えると、興味があるのか先生は私に訊いた。「仲良くしてたの?」
「そうですね。歳が近くて、よく面倒を見てもらってました。向こうが、何年か前に引っ越してからは、ほとんど会ってないですけど、まさか先生と同じ所で家庭教師をしてるなんて思いませんでした。美術だって言ったっけ。その人、確かに絵が好きだったから、不思議でも無いですけど」
「美術の人か。会ったことは無いわね。担当の子供と、両親と、それから使用人くらいしか顔を合わせたことはないわ」
「その子供って、どういう感じですか」自分でも、妙な尋ね方になったと思った。
「どうって……うーん、暗いっていうか、感情が薄いわね」こうやってはっきりと言う先生が、私は好きだった。「可愛いけど、ピアノとか音楽をやるのに、なんだか表現したい感情が無いのはネックっていうか」
「ふうん……」
「シンセサイザーで言うと、全部の音のベロシティが同じなのよ。ロボットみたい」
「そんな子、ピアノに向いてないでしょう」私は続けた。「私、今回のこと、嫌では無いですけど、気に入ってはいません」
「そうだと思った」
「私は……せれな先生の授業をもっと受けたいって言うか……その邪魔をされてるように感じるんですよ。しかもそんな……ピアノに向いてないガキに」
「まあ……お試しみたいな意味合いもあるから、いつまでも続くわけじゃ無いと思うけど、向こうが私を気に入ったら、どうしようかしら。信じられないくらいの大金を積まれたら、毎日来いって言われても断れないわよ」
「……私のレッスンはどうなるんですか?」
「続けたいけど、屋敷が遠いとなると少し考えないといけないわね……」
「私が、毎日レッスンに来るんじゃダメですか」
「ダメよ。由麻ちゃん、学校の授業もあるんでしょ?」
「でも、私だけで先生は満足して欲しいんです。私のレッスン料だけで生活してください」
「あはは。無理難題よ、それは。マヨネーズでも舐めないと無理よ」
「レッスン料を上げても良いですよ」
「それは、あなたが困るだけ。大丈夫だって、心配しないでよ。なるべく屋敷専属の家庭教師にはならないように、丁寧に断るから」
そうは言うけれど、もし屋敷の出すお金だけで、せれな先生が生活出来るって言うなら……。
私は所詮、せれな先生の知り合いである、ジャズ研究部の顧問の紹介でしか無い。いわば、義理と人情と友達付き合いで、私を見てくれているに過ぎない。
私は焦っていた。
私の春が、終わってしまうんじゃ無いかという危惧。
せれな先生無しの生活。
そんな未来を、今考えたくは無かったし、その原因となっている顔も知らないガキに対して、私はライフルの照準を合わせる気持ちになる。
ガキに、せれな先生は勿体無いのに。
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