プロローグ

デコイ1

 散歩をする趣味なんか、別に無かった。

 それでも晴れた日の太陽の下で、私は歩いていた。昼下がりの、大した面白みもない近所の公園だった。ベンチと、ブランコと、少量の健康器具があって、その他には、芝生ともつかない荒れ地が、面積の大半を占めていた。公園には、子どもが数人と、その親が子どもと同じ数だけ揃っていた。この関係は、靴みたいなものだと思う。二つは常にセットだった。なにか、決定的な断絶が起きるまでは、の話だけれど。

 私は、隣で鼻歌を歌いながら、ふらふらと歩いている恩師、銀川せれなに話しかけた。

「いい天気ですね」当たり障りのない、つまらない会話だと思ったが、私は本当に、心の底から、今この瞬間が良い天気だと思った。

「こうやって」せれな先生は、微笑んで答える。「外に出てきて正解だったわね。家でレッスンしてるだけじゃ、きっともったいないわよ」

「日光に当たると、ビタミンDが生成されるから、ですか?」

「そうそう。あとセロトニン」

 ビタミン生成が目的だったかのように言うが、きっとこの人は、仕事でずっと家に引き籠もっていて、気晴らしがしたかったんだ、と私は思った。まあ、無理もない。近頃彼女は、とても忙しそうにしているし、私のギターレッスンに対しても、今までとは違って、かなりの労力を費やしていた。

 銀川せれな先生は、一言で言えば相当な美人だったが、その美貌を完全にドブに捨てたんじゃないかと疑ってしまうくらいに、本人は自分の外見をあまり気にかけていなかった。

 身長は私よりも低いが、そのやや無骨な眼鏡も似合っていて、長い髪もこれ以外には考えられないくらい彼女には適合していた。だというのに、寝癖をそのままで出かけることがあるのは異常だろう、と私は不満を抱えることがよくあった。

 ベンチに座って、私達は一息をついた。別に、弁当があるわけでも、お菓子があるわけでも、ましてやギターがあるわけでもなかった。こんなところで時間を無駄にするくらいなら、さっさと帰ってギターの練習をしたい、と思ったけれど、この空みたいに晴れた顔を見せたせれな先生を見ていると、私はなにか、とても無粋なことを考えているんじゃないかと思って、口を手で押さえたくなった。

 そうして私達は雑談、主に音楽の話をした。レッスンや、将来のことをまったく見据えない、ただの趣味としての音楽の話だった。私はジャズ研究部だが、プログレッシブ・ロックが好きで、せれな先生には、よくおすすめのバンドを教えてもらっていた。きっと、ジャズのスタンダードを教えてもらった数よりも、そっちのほうが多いと思う。

 数分が経った頃だった。公園に人が現れたかと思うと、まっすぐに私達の方に向かいながら、SOSでも発してるんじゃないかというくらいに、大きく手を振っていた。

 近寄るまでもなくわかる。ジャズ研究部の部長で、私の友人、中兼由麻だった。

「奇遇ですね、奈津乃、それから、銀川先生」

 由麻は買い物の帰りだったのか、ビニール袋を片手に下げて、私達に挨拶をした。

「こんにちは、中兼由麻さん」由麻に、『銀川先生』と他人行儀に呼ばれた時、彼女はこうやってナイフを刺し返すように、フルネームに敬称をつけて由麻を呼ぶ。「買い物?」

「ええ。天気も良くて、ちょうど暇だったもので」

 由麻は、長い髪の毛先の方を要所要所で、くるくると巻いていた。上品と言えば上品に見えるが、漫画っぽいような下世話な印象も受けた。一体過去の何が、彼女をそういうヘアスタイルに固定させたのかは、推測では割り出せなかった。その上、彼女の私服はやや趣味がアメリカの六十年代的だった。ハッキリといってしまえば、懐古主義だと言えた。

 彼女はトランペット吹きで、その情熱は並大抵のものではなく、部活でそれを部員に振りかざすところあったし、その押し付けを面倒だと感じて彼女を嫌う部員も一定数存在する。現に、口では言わないが、私自身も、そう思っている時の方が多かった。

 あまり詳しく尋ねたことはないが、由麻は私の前に、せれな先生の個人音楽教室に通う生徒だった、と聞いたことがある。さっきみたいに『銀川先生』、とわざと距離を取って呼ぶのも、そのあたりのケジメだろうか。気にはなっているが、本人があまり話してくれなかった。

「お二人は? サボりです?」由麻は、私の隣に腰掛けながら尋ねた。その言い方は、どう考えても、私をからかっていた。「その気持もわかりますよ。私も家で窓を見ながらトランペットを吹いてたら、天気が良すぎて嫌になってきたんですよ。だから出てきました」

「残念だけど」すかさず私が答える。「サボりじゃなくて、気晴らしよ」

「似たようなもんよ」由麻は面白いらしく、笑う。「あんたみたいな、練習し始めたら壊れた暴走車両みたいになる女には、無理矢理に休憩も必要よね」

「釈然としない喩えね……」

「褒めてるのよ。私は、そうはなれないから」

「そうかしら……」

 由麻は、私と話しながら遠くを見つめていた。その視線の先にあるのは、カスみたいな遊具と、そこで集まって笑い話をしている、女子中学生数人だった。

 由麻が、そんな木っ端みたいな集まりを、まじまじと眺める理由が、私にはわからなかった。時々、この女はよくわからないことを考えるな、と思ってから、諦めて私はせれな先生の方を見ると、彼女も同じように、その中学生たちをぼーっと見ていた。

 なんだか、私だけが、その異常に気づいていないような孤立感と、私だけが頭が悪いんじゃないかという劣等感を覚えて、脇に嫌な汗をかいてしまいそうだった。

 若干の焦りを覚えていると、由麻が口を開いた。

「せれな先生、懐かしいですね」いつの間にか、昔そうしていたのだろう呼び方で、せれな先生を呼ぶ由麻。「覚えてますか」

「あら由麻ちゃん。私が、あんな事件を忘れるほど、薄情な大人に見える?」

「……奈津乃、言ってやりなさい」

「先生は、そういう適当な人ですよね」促されて、私は言った。

 せれな先生が項垂れたので、私と由麻は笑った。昔は彼女とは不仲だったことを、私はこうして笑い合うたびに、いつも、罪の意識と同じように、パッシブ的に思い出す。

「それで」私は、気になって尋ねた。「その、事件っていうのは……?」

「あら、奈津乃、知らないの」驚きながら、由麻が答えた。「私とせれな先生が、まだ教師と生徒の関係だった頃、二人で遠出したことあるのよ。そこで遭遇した……まあ、事件よ」

 由麻とせれな先生は、視線を中学生たちにまた向けた。釣られて、私も上澄みをなぞるように凝視した。

「……こう見てると、思い出すわね」せれな先生が呟く。「あの子のこと」

 その言い方が、冬の無粋な風みたいに、妙な寂しさを孕んでいた。

「『るの』ちゃん、でしたね」由麻が、腕を組んで答える。「えっと……二年前でしたよね」

「もうそんなになるわね」言いながら、せれな先生はじっと私の顔を見て、にやにやと口元を歪める。「奈津乃ちゃん、気になる?」

「そりゃそうですよ」私は、これみよがしに眉をひそめる。「由麻って、先生の生徒だったときのことも教えてくれないし、せれな先生も全然話してくれないじゃないですか。どんな事件だったんですか?」

「まあ…………そんな大した事件じゃないわよ」せれな先生は頭を掻いた。「二年前に、金持ちの家に雇われて、時々音楽の家庭教師をしてた頃の話しなんだけど、そこの当主がね、私を見込んで、ある面倒な依頼をしてきたのよ」

「……依頼って、音楽関係?」

「いえ、家庭教師としてじゃなくて、人を探してほしいって」

「人……?」私は首を傾げる。いくら先生が、妙なほどの察しの良さがあるからと言って、そんなタイプの話を持っていくような相手でないことは、小学生でもわかる。「それって、どういうことですか?」

「そこの、私を雇っていた屋敷の当主がね、その昔に、大変世話になった恩人がいたって言うんだけど……その恩人、もしくはその恩人の子孫を、私に探してくれっていう話だったの。遺産も、全部恩人にあげるつもりらしくてね」

「い、遺産……」私は、話の方向を理解する。「え、じゃあその当主の家族は?」

「当然」由麻が答えた。当時のことを思い出して、心底呆れかえるようなため息も、吐いた。「不満爆発よ」

「そういう場での遺産相続問題って……もしかしてせれな先生、殺人事件でも解決したんですか?」

「もう、奈津乃ちゃん」せれな先生は、私の本気の疑問を、冗談だと受け取った。「現実で殺人事件に巻き込まれるなんて、殆どないわよ。本当に……ただの人探し」

 先生はもう一度、中学生たちを眺める。

「ただの、人探しだったのよ」

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