第2話 一日目②
コンビニから戻ってきた直樹は、ドアを開けた瞬間、陽葵とは別の女性が部屋の中にいてギョッとした。
女性が振り返ってこちらを見る。女性はわなわなと震えていて、号泣していた。
ミドリ不動産の人で、俺にこの物件を紹介してくれた人だ。そういえば、死体を発見してもらうためにメールを送っていた。
「な、ななな、なんじょーさーんっ!」
「あ、えーと、松島さんでしたっけ?」
「松下ですぅー。なんですかあのメールッ!」
部屋を借りて早々、自殺しようとしたなどと言えるわけがない。警察を呼ばれたら厄介だ。なんとか誤魔化すしか。
「えーと、エイプリルフールだったので、ちょっとジョークを」
自分がついた嘘に、心が痛む。
「今日、成人の日ですぅ。それに、ロープ用意しといてジョークなわけないですよねぇっ」
松下が天井を指差す。証拠を押さえられては誤魔化しようがなかった。
「はい。すみません。死のうとしました」
直樹は素直に認めることにした。
「困りますぅ。本当に困るんですぅ」
「いや、でもこの部屋、事故物件で借り手が全然いないって言ってたじゃないですか。その延長だと思えば」
「私がクビになっちゃうんですぅ!」
松下はさらに泣きじゃくった。
「いや、まさかそんなことで。別に松下さんが責任を取るようなことじゃ」
部屋の奥を見ると、キッチンの方で陽葵が松下の様子を伺っていた。
直樹は靴を脱ぐと、陽葵の元へ向かう。
「なんで松下さん泣いてるの?」
小声で陽葵に尋ねる。
「知らないよっ。部屋に入ってきた時には、もう泣いてたし」
陽葵も小声で答える。
直樹は後頭部を掻くと、松下の近くに座った。
「私、私、ドジで。仕事もミスばっかりでぇ。南條さんが契約する直前に、これ以上ミスしたらクビだって言われてたんですぅ。南條さんがこの物件に住んでくれたおかげで、私は首の皮一枚繋がっててぇ。だから、南條さんがここで自殺したら、絶対クビですぅ」
人はここまで泣けるのか。直樹は変なところに感心した。
「南條さん、死なないでくださいぃ。私のためにもぉ」
「松下さん、安心してください。とりあえず、すぐに死ぬのは止めたので」
「すぐっていつまでですかぁ」
「えーと……」
「いつかは死ぬんじゃないですかぁ。そもそもなんで死にたいんですかぁ? 私をクビにしてまで死にたい理由ってなんですかぁ?」
別に、松下をクビにするために自殺するわけではない。だが、ここまで追い詰めてしまって、何も言わないのは流石に申し訳ない。
「その、恥ずかしい話なんですが……。マッチングアプリで知り合った女性に、お金を騙し取られまして……。人を信じられなくなったといいますか」
「ぶっ!」
キッチンの方から笑い声が聞こえるが、無視することにする。
「だから、申し訳ないんですけど、死なせてください」
直樹は、松下に頭を下げた。
「じゃ、じゃあ。彼女が出来たら死なないんですね?」
「はっ?」
何故そうなる。俺は彼女が出来なかったから死ぬわけじゃない。
「いえ、そういうことじゃ」
「わた、私が南條さんの彼女になりますっ! 私と付き合ってくださいっ!」
「ぶぼっ!」
キッチンから盛大な笑い声が響く。
「松下さん、落ち着いてください。俺は別に誰かと付き合いたいわけじゃ……」
「わ、私じゃ、南條さんの好みに合わないですか?」
泣きじゃくる松下を見る。
黒髪のショートボブ。小柄な体躯と話し方も相まって、小動物系の可愛さを持ち合わせている。こんな状況での告白でなければ、舞い上がっただろう。
「松下さんは可愛いと思いますよ」
「じゃあ、告白はOKってことですねぇ。今日から私たち恋人同士ですねぇ」
松下は頬を赤らめながら、両手の人差し指を繋げる
直樹は、松下の肩を強く掴んだ。
「松下さんっ!」
すると松下は両目を閉じた。
「こ、恋人ですもんね。ばっちこいです」
「違うっ! 好きでもない男と、付き合っちゃダメです。松下さんに迷惑はかけませんから。だから俺と付き合うなんてやめてくださいっ」
「いやですぅ。死なないって思ってもらえるまで、私は彼女ですぅ」
「でも――」
「諦めたら?」
振り返ると、陽葵が笑いを堪えながら、こちらを見ていた。
「この子、本気だよ。直樹が死ぬのを諦めるまで、諦めてくれないよ」
直樹は松下を見る。キスを受け入れると言っておきながら、肩が震えているじゃないか。
物件を紹介してもらった時や契約の時は、おどおどしている女性と言った印象だった。そんな女性がよく知りもしない男のために恋人になるという。どれだけ勇気を振り絞ってくれているのだろう。
それを無碍にするほど、直樹は人でなしではいられなかった。
「……わかりました」
「私、頑張りますからっ」
笑顔になる松下を、不覚にも可愛いと思ってしまった。
「じゃ、じゃあ、恋人ということで、キスの続きを……」
「松下さん。その前にお互い自己紹介しませんか?」
松下はハッとした顔をする。まるで完全に彼女のつもりでいたかのように。
「私は、松下柚です。二十四歳。百四十六センチ。スリーサイズは、上から八十、六十二、八十一。可愛いものが好きで、怖いものが嫌いです」
直樹は、自己紹介でスリーサイズを明かす文化に触れるのは初めてだった。
「南條直樹。二十五歳。身長は百七十六。好きなものは特になくて、嫌いなものは……その人が傷つくこととか」
マッチングアプリの女が脳裏をよぎり、顔をしかめる。
「陽葵。二十三歳。身長は百六十センチ。スリーサイズは、八十八、五十九、八十五。面白いことが好きで、つまらないことが嫌い。人生のモットーは『生きてれば、きっと楽しいことがある』よろしくっ」
「いや、聞いてないからっ! それに、『生きてれば』ってもう死んでるじゃねーかっ!」
自分の後ろにいる陽葵の方を向いてツッコむ。
すると、柚がビクリと跳ねた。
「な、南條さん。誰と話してるんですか?」
「松下さんには見えないんですか?」
「な、ななな、何がですか? さっき言いましたよね。怖いものが嫌いだって。早速デートDVですか?」
「いや、違くてっ。いるんですよ、この部屋」
「どうもー、陽葵ちゃんでーすっ」
「いるってなんですかっ。何もいないですよっ」
柚の顔がどんどん青くなる。マズイ。
「いや、松下さんが可愛いから、ちょっとからかってみたくて。悪気はなかったんです。本当にすみません」
直樹は頭を下げた。
柚が何も言わないので、不安になって顔を上げると、柚は右手を後頭部に手を当てながら、頬を染めてぐにゃぐにゃと捩れていた。
「可愛いとか、そんな。褒めても何も出ないですから」
誤魔化したことで、心臓に針が刺さったかのように痛む。もっとも柚を可愛いと思っているのは本心だが。
「じゃあ、私、そろそろお暇しますね。仕事ほっぽり出しちゃったんで」
「すみません」
「謝らないでください。怒られるのはいつものことなんで」
えへへ、と小さく笑い。柚は出て行った。
柚を見送ると、壁にもたれてずるずると床に座り込む。
「はぁ……」
ジェットコースターのように感情が乱高下して、直樹はフルマラソンを走り切った後のようにげっそりとしていた。
「彼女ゲットおめでとうっ!」
ニコニコする陽葵。
「松下さんだって、冷静になれば間違いだって気づくだろ」
「ふーん。そういうこと言っちゃうんだ。きっとすごい覚悟で決めたことなのになぁ」
「ぐっ」
「直樹は女の子が告白する時に、どれくらい緊張するかわかってないよねー」
「騙すために好意を匂わせる奴だっているだろ」
「マッチングアプリの話?」
直樹は口をつぐむ。
「まぁ、騙されたのは確かにショックだったろうけどさ。そんな女のために死ぬこと――」
「騙されたから死ぬんじゃないっ!」
騙されたのは別にいい。俺がバカだっただけだから。許せないのは。
「いや、この話はよそう。……今日は疲れた。風呂入って寝る」
「覗いてあげようか?」
「普通逆だろっ」
「直樹のえっち。じゃあ、特別だぞ?」
陽葵は、その場で一回転してみせる。すると、先ほどまで着ていたノースリーブのワンピースから下着姿へと一瞬で切り替わった。
白のレースの下着に、下半身はガーターベルトまで着けている。
「ほれほれ。眼福でしょ? 瞳の奥に焼き付けていいよ」
「痴女っ!」
「減るもんじゃないし、好きなだけ見なよ」
「だから痴女っ!」
陽葵の行動に振り回されるのは癪に障る。必死で目を瞑ろうとするが、悲しき男の性。うっすらと瞳を開けてしまう。
ワンピース姿の時から思っていたが、本当にデカい。何がとは言わないが。
美しき華を飾り立てる壺のように、白のレースが陽葵の体の魅力を最大限に引き立てる。
「自分で言うのもなんだけど、良い体してると思うんだよねぇ」
そう言って、陽葵は、グラビアアイドルのようなポーズを次々と取る。
「もう一度言う。痴女かっ!」
「瞳の奥に焼き付けた?」
陽葵がケラケラと笑う。
「うるさいっ」
それだけ言うと、直樹は着替えとバスタオルを持って、ユニットバスへと入っていった。
*
直樹の寝顔を見ながら、陽葵は聖母のような慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。
この部屋に引っ越して早々に、自殺をしようとした時は、どうしようかと思った。だが、ひとまず一日は生きることを選んでくれた。
陽葵が地縛霊になってから十年。直樹は四人目の借り手になるが、陽葵を見ることが出来たのは、直樹が初めてだった。
自分の存在を他者に認識してもらえる。これ以上、幸せなことがあるだろうか。
嬉しすぎて、暴走してしまった感は否めないが。
下着を見せたのは、流石にやりすぎだったと反省する。思い返すと、ものすごく恥ずかしい。
「生きることを選んで欲しいなぁ」
陽葵はポツリとつぶやいた。
*
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