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緑青

ラジオ【2025/5/13】

 島生まれ、島育ちの祖父ちゃんが亡くなったのは、コロナ禍の秋頃だった。

 爺ちゃんの長女の子どもとして生まれた私は、5人の孫の一番上だったので、単純に他の孫より祖父ちゃんや祖母ちゃんに可愛がってもらう時間は長かった。

 仕事がうまくいかず精神的に落ち込む状況が続く日々で、家に閉じこもりながらいつか祖父ちゃんがいなくなったら(亡くなったら)顔向けが出来ない、その前に自死してしまおうと思っていた。

 今こうしてこの文章を公開しているということは、自死はしないまま人生を送っていることになる。

 私の精神的落ち込みは一旦脇に置いて、祖父ちゃんの話だ。

 前述の通り、祖父ちゃんは島生まれだった。九州の南の島で生まれ育ち、のちの妻となる祖母ちゃんを娶り、4人の子どもに恵まれた。公務員と農業で生計を立てていたらしく、祖母ちゃんも農作業をするのが当たり前の生活だった。

 歳をとって病気がちになった祖父ちゃんと、見守っていた祖母ちゃんは、島を離れて本土(九州某県)に移り住み、一軒家から2人暮らしができるアパートの一室で過ごした。

 その家に母と顔を見せに行くと、祖母ちゃんが「◯◯(母の名前)ね」と確かめて玄関を開ける。

 母は普段は温厚で娘の私から見ても優しい人だが、祖母には語調が強くなり「◯◯(母の名前)よ。母ちゃん、父ちゃんは?」とたずねながら靴を脱ぐのがお決まりの流れだった。

 広いダイニングスペースを進むと、テレビのある居間で祖父ちゃんは体育座りをしている。

 私たち親子が来る前はベッドで横になっている(島では日が長く暑いので、家で涼むのが祖父ちゃんの家の習慣だった)ので、起き出して出迎えてくれたのだろう。

 祖母ちゃんの愚痴とも近況ともとれる話を母がききながら、私は居間の空いているスペースに座る。

 ソファは洗濯物などの物置と化していて、祖父ちゃんも祖母ちゃんも座っているのを見たことがなかった。

 島から引っ越す前に、一時期祖父ちゃんを母の家で預かっていたことがあるのだが、精神的不調が続いた私が話し相手になることはなく、祖父ちゃんの相手はもっぱらラジオだった。

『♪ふるさとたっぷり』から始まる地方ラジオがお気に入りで、たんぽぽ倶楽部なるローカル番組の園児の元気な声につられて「たんぽぽ倶楽部」と繰り返すのが祖父ちゃんの癖だった。

 母の家のラジオは大きなラジカセで、CDを聴く機能はパソコンに取って代わられたが、ラジオは祖父ちゃんによって活用されていた。

 祖母ちゃんとふたり暮らしの家では、コンパクトなラジオが祖父ちゃんのお供だった。

 祖母ちゃんと話す時は島言葉(方言)で内容はわからなかったが、共通語で"私"にあたる一人称は "わん"であること、驚きや理不尽を表す言葉は"あげ〜"というのは覚えている。

 母の世代も聞き取りは出来ても喋るのはできないので、九州某県育ちの私には魔法の言葉だった。

 祖父ちゃんは福祉サービスを利用しながら家で過ごしていたが、体調を崩して入院していた。母のきょうだいが都合をつけて見舞ったり、様子を共有していたが、私は母から聞くだけでろくに見舞うこともできなかった。

 亡くなったと連絡を受けて葬祭場に行くと、祖母ちゃんは子どもたちと一緒にお通やと葬式の打ち合わせをしていた。いとこのなかで唯一の参加だった私は、遠い距離を車で運転してきた母が職場に事情を伝えるために、必要な情報(葬祭場の住所など)を控えたメモを渡すくらいの役割しかなかったが、母を含めたきょうだいは悲しみを表に出さず、大人の対応をしていた。

 祖父ちゃんが寝かされた部屋に案内されると、目を閉じた祖父ちゃんがいた。

 眠っているようだったが、もう二度と目を開けないのはわかっていたので、母が泣きそうな声で父ちゃんと呼ぶのを黙ってきいていた。

 翌日がお通やと決まり、私と母が祖父ちゃんの部屋で寝泊まりすることになった。

 遺体と寝るのは母もいたので怖くはなかったが、祖父ちゃんは不出来な孫が顔も見せないで、がっかりしたかもしれないと保身に走った考えしか浮かばなかった。

 通やは出席できず、葬式には出た。

 以前、友人のお爺さんが亡くなった時に火葬の場にいたことがあり(今思えば友人に誘われても遠慮すべきことだった)祖父ちゃんの骨も多くは残らないだろうと思っていたが、親族全員が骨上げできるほどの骨は残っていた。

 参加した親族で一番年下のいとこが、私に気遣いながら火葬後の昼食の手伝いをしてくれた。明るく振る舞う余裕があれば、いとこを必要以上に気遣わせることはなかったが、黙っていることが私が唯一できる弔いの方法だった。

 その後、祖母ちゃんは老人ホームに入り、祖父ちゃんと過ごしたアパートは退居した。

 この間、面会に行った時に、小学生の頃以来の初めて書いた絵葉書を贈った。

 動物園のパンダを見たいという希望(居住地域の動物園にはパンダはいない)を思い出して、パンダの写真の絵葉書を選んだが、ホーム暮らしが退屈な祖母ちゃんは諸々の手続きをしてほしいと母に訴えるので忙しく、目を通してくれたのかはわからない。

 祖父ちゃんが亡くなって数年後にようやくできた祖母ちゃん孝行が、絵葉書や面会くらいなのが情けないが、祖母ちゃんが生きているうちにできることをするつもりだ。

 体が弱りながらもラジオを聴きながら古き良き時代の思い出を振り返っていた祖父ちゃんが、明るい笑顔を見せてくれていたように、祖母ちゃんも衣服のおしゃれを忘れず、母たちきょうだいの近況を抜かりなくたずねるアンテナの持ち主なので、大きな不安はない。

 精神的不調が落ち着いてラジオを楽しむ余裕が出てきた私には、働く生き方が残されている。母や祖父ちゃんたち親戚のような働き者とは言えないが、祖父ちゃんたちは島の裕福とは言えない暮らしに、足るを知るを実践していた。

 その知恵は確かに、島の血が流れている私にも息づいている。

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