第十三章 糸の先のマリオネット

無音の歌姫との狂騒曲が終わりを告げてから、アンティーク冴島には、まるで嵐の後のような、どこか虚脱した静けさが漂っていた。あたしはといえば、消耗した体力を回復させつつも、懐の観劇者の双眼鏡の存在を常に意識し、人間という生き物の複雑怪奇な内面と、それを演じきる自身の「芸」について、新たな思索を巡らせる日々を送っていた。


そんなある雨の日の午後、店の古びたドアベルが、錆びついた音を立てて鳴った。冴島が珍しく不在にしている時間帯だった。あたしがカウンターの奥から顔を出すと、そこには小柄な老婆が、年代物の大きな革のトランクを抱えるようにして立っていた。顔には深い皺が刻まれ、その瞳は何かにおびえるように、絶えず左右に動いている。


「……あの、こちらは、曰く付きの品物を引き取ってくださるとお聞きしたのですが」


老婆の声は、雨音に消え入りそうなほどか細く、震えていた。


「ええ、まあ……そういうことも、たまには。店主はあいにく留守にしていますが、どのようなお品で?」


あたしは、内心の好奇心を隠して、事務的な口調を装った。この老婆、そして彼女が抱えるトランクからは、明らかに「普通ではない」気配が漂っている。観劇者の双眼鏡を取り出すまでもなく、彼女の頭上には『恐怖』『後悔』『解放されたい』といった言葉が、雨の日の陽炎(かげろう)のように揺らめいて見えた。


老婆は、あたしの言葉に少しだけ安堵したように息をつくと、震える手でトランクの錠を開けた。そして、中から取り出したのは――数体の、精巧な作りのマリオネットだった。


騎士、貴婦人、道化師、そして美しい踊り子。どれも全長五十センチほどの大きさで、その衣装や表情は、まるで生きているかのようにリアルだ。しかし、そのリアルさが、逆に不気味な印象を与えていた。特に、そのガラス玉の瞳は、どこか虚ろで、あたかも持ち主の魂を吸い取ってしまったかのようだ。


「この子たちは……夫が遺したものでして。夫は人形師で、若い頃は小さな劇団を率いて、この子たちと旅をしていたそうです」

老婆は、マリオネットたちを慈しむような、それでいて恐れるような複雑な目で見つめながら語り始めた。

「でも、ある時から、この子たちは……まるで自分の意志を持っているかのように動き出すようになったのです。誰も触れていないのに、夜中にカタカタと音を立てたり、部屋の隅でポーズが変わっていたり……」


その言葉に、あたしは眉をひそめた。よくある怪談話のようだが、老婆の恐怖は本物のように感じられる。


「それだけではありません。この子たちが家に来てから、夫は次第に無口になり、まるで何かに操られているかのように、一日中この子たちの手入ればかりするようになりました。そして、最期は……この子たちの糸に首を巻いて……」


老婆の声が、嗚咽(おえつ)に変わった。彼女の頭上の『後悔』の文字が、一層濃くなった気がした。


(……なるほど。これはまた、随分と業(ごう)の深い品ね)


あたしは、マリオネットたちを観察した。確かに、その糸は不自然にピンと張っているものもあれば、だらりと垂れ下がっているものもある。そして、一体一体が、まるで独自の「役」を演じているかのような、固定された表情とポーズをとっている。


「それで、あたしたちにどうしろと? お祓(はら)いでもしてほしいわけ?」

「いえ……ただ、この子たちを、どこか遠くへ……もう誰も、この子たちの悲劇に巻き込まれないような場所へ、引き取っていただきたいのです。お代は、いくらでもお支払いしますから」


老婆は、懇願するようにあたしに頭を下げた。


あたしはしばらく考えた。冴島なら、こういう品を面白がって引き取るだろう。そして、あたしにその「謎解き」を丸投げするに違いない。正直、面倒なことこの上ない。だが、同時に、このマリオネットたちが持つ、歪んだ「物語」に対する興味も抑えきれなかった。


女優として、操り人形(マリオネット)というのは、ある意味で究極の存在だ。完全に他者の意志によって動かされ、演じさせられる。だが、もし、その人形が自らの意志を持ち、操る者と操られる者の境界が曖昧になったとしたら……? それは、あたし自身のあり方にも通じる、根源的な問いを突きつけてくるような気がした。


「……分かりました。店主が戻り次第、相談してみます。とりあえず、その子たちは、こちらでお預かりしましょう」


あたしは、そう言ってマリオネットたちを収めたトランクを受け取った。ずしりとした重み。それは、人形そのものの重さだけではない、そこに込められた人間の情念や、悲劇の記憶の重さなのだろう。


老婆は何度も頭を下げ、雨の中へと去っていった。彼女の背中は、重荷を下ろした安堵感と、それでも拭いきれない罪悪感とがない交ぜになっているように見えた。


あたしは、トランクを店の奥のテーブルに置き、蓋を開けた。マリオネットたちは、先ほどと変わらぬ姿で、静かに横たわっている。しかし、そのガラスの瞳は、あたかもあたしの心の奥底を覗き込もうとしているかのように、不気味な光をたたえていた。


シャノワールが、警戒するように低い唸り声を上げながら、トランクの周りをゆっくりと歩いている。


「あなたも感じる? この子たちの『意志』を」


あたしがそう呟くと、シャノワールは短く「にゃっ」と鳴いた。それは、肯定とも否定ともつかない、曖昧な返事だった。


あたしは、懐から観劇者の双眼鏡を取り出した。そして、マリオネットの一体、道化師の人形にレンズを向けてみる。


その瞬間、あたしの脳裏に、断片的なイメージが流れ込んできた。薄暗い舞台袖、観客のまばらな拍手、人形師の男の焦燥と絶望、そして……糸が軋(きし)む音と共に、道化師の人形が、まるで生きているかのように、ゆっくりと首を動かす光景。


その首の動きは、誰かに操られているものではなかった。明らかに、自らの意志で動いている。そして、そのガラスの瞳には、冷たい嘲りの色が浮かんでいた。


(……面白いじゃない。この子たち、本当に自分で考えて動いているってわけね)


あたしは、唇の端に、歪んだ笑みを浮かべた。


これは、あたしに対する挑戦だ。操る者と操られる者、演じる者と観る者。その境界線を曖昧にし、観客をも舞台装置の一部にしてしまうような、危険な遊戯。


「いいわ。あなたたちのその『舞台』、あたしが最高の演出で、観客を熱狂させてあげる。ただし……最後に糸を引いているのは、このあたし、天音メルだということを、忘れさせないようにね」


あたしは、マリオネットたちに向かって、宣戦布告するように言った。このアンティーク冴島という名の劇場で、新たな、そして最も厄介な「共演者」との、奇妙な舞台が幕を開けようとしていた。

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