第十二章 終演(カーテンコール)は喝采か、沈黙か
屋根裏部屋の闇は、あたしと「無音の歌姫」の魂が織りなす、狂おしい二重奏(デュエット)で満たされていた。彼女の絶望、狂気、そして届かなかった愛の叫びが、あたしの喉を通して奔流のように溢れ出す。同時に、あたしの意識は、その激流に飲み込まれまいと必死で抵抗していた。主導権は、渡さない。この舞台の演出家は、あくまであたしだ。
『もっと……もっと……!』
あたしの頭の中に、歌姫の渇望が直接響く。もっと深く、もっと強く、彼女の魂の叫びを体現しろと、彼女は要求している。それは、あたかもあたしの感情を乗っ取り、その歌声を通じて永遠に存在し続けようとするかのようだ。
(いいでしょう……望むなら、見せてあげるわ。あなたの絶望の、その先を!)
あたしは、もはや楽譜の旋律をなぞるだけではなかった。あたし自身の解釈、あたし自身の感情――それは、観劇者の双眼鏡が暴き出した、あたし自身の虚栄心や欺瞞性(ぎまんせい)すらも含めて――全てを歌声に乗せた。
それは、無音の歌姫が遺したオリジナルの楽曲とは、もはや別物になっていたかもしれない。より激しく、より歪(いびつ)で、そして、どこか冷徹な美しさを湛(たた)えた旋律。彼女の純粋な絶望に、あたしの計算された演技力が加わることで、それは一種の芸術へと昇華されようとしていた。
歌声がクライマックスに達する。不協和音が嵐のように吹き荒れ、あたしの声は、人間が発し得るとは思えないほどの高音と低音の間を、狂ったように行き交う。部屋の中の超常現象もピークに達し、壁が唸り、床が震え、ランプの灯りは今にも消えそうだ。
シャノワールは、ベッドの隅で全身の毛を逆立て、低い唸り声を上げている。
そして――あたしは、最後のフレーズを歌い上げた。それは、全ての感情が燃え尽きた後の、虚無のような静寂を表す、長く、長く引き伸ばされた一つの音。
その音が、屋根裏部屋の闇に完全に溶けきった瞬間。
あたしのすぐそばに感じていた、あの冷たく、濃密な気配が、ふっと霧散した。まるで、張り詰めていた糸が、ぷつりと切れたかのように。頭の中に直接響いていた彼女の声も、ぴたりと止んだ。
部屋の中には、あたしの荒い息遣いと、心臓の鼓動だけが響いていた。ランプの揺らめきも、壁の軋みも、全てが嘘のように収まっている。
あたしは、その場に膝から崩れ落ちた。全身が鉛のように重く、喉は焼けつくように痛い。魂を削り取るような、凄まじい消耗感。
(……終わった……?)
あたしは、呆然と床を見つめた。無音の歌姫の魂は、どうなったのだろう。成仏した? それとも、あたしに「負けて」消滅した?
どちらでも、いい。 المهم (ムヒム - アラビア語で「重要」の意だが、ここでは投げやりなニュアンスで)、あたしは、この危険な二重奏を、あたしのやり方で「演じきった」のだ。
シャノワールが、おずおずとあたしに近づいてきた。そして、あたしの頬を、ざらりとした舌でぺろりと舐めた。その仕草に、あたしは少しだけ、現実に引き戻された気がした。
「……ありがと、シャノワール」
かすれた声で礼を言うと、彼は満足そうに喉を鳴らした。
しばらくして、階段を上ってくる足音が聞こえた。冴島だ。彼は、部屋に入ってくるなり、まず静かになった譜面台と楽譜集に目をやり、次にあたしの消耗しきった様子を見て、全てを察したようだった。
「……どうやら、『終演(カーテンコール)』を迎えたようだね。見事な舞台だったと見える」
彼の声には、感嘆と、そしてほんの少しの畏敬(いけい)のような響きが混じっていた。
「ええ……まあね。随分と、骨の折れる『共演者』だったけど」
あたしは、壁にもたれかかったまま、虚勢を張って答えた。
「彼女は……あの歌姫の魂は、どうなったと思う?」
「さあね。君があまりにも見事に彼女の『歌』を完成させてしまったから、満足して消えたのかもしれない。あるいは……君という役者に魂を喰われて、その一部になってしまったのかも」
冴島は、いつものように核心をはぐらかすような言い方をした。
「どちらにしても、この譜面台と楽譜は、もう沈黙を守るだろう。君というプリマドンナが、彼女の物語に終止符を打ったのだから」
「……そう。なら、約束のギャラ、きっちり請求させてもらうわよ。特別手当込みでね」
あたしは、わざと事務的な口調で言った。感傷に浸るつもりも、達成感に酔うつもりもない。これは、あたしの「仕事」なのだから。
冴島は、くつくつと喉を鳴らして笑った。
「もちろんだとも。君の働きには、それだけの価値がある」
彼はあたしに肩を貸し、立ち上がらせてくれた。その手は、以前よりも少しだけ、温かく感じられた。魂の欠片を取り込んだ影響なのか、それとも、あたし自身の感覚が変わったのか。
部屋を出る間際、あたしはふと、静まり返った楽譜集に目をやった。あの複雑怪奇な音符たちが、今はただのインクの染みにしか見えない。しかし、あたしの耳の奥には、まだあの狂おしい旋律が、そして無音の歌姫のかすかな溜息が、微かに響いているような気がした。
彼女の魂の一部が、あたしの中に残っているのだろうか。それとも、これもまた、あたしの作り出した幻聴(イリュージョン)?
どちらでもいい。あたしは、手に入れたものも、失ったものも、全て自分の「演技」の糧にするだけだ。
アンティーク冴島の薄暗い舞台で、また一つ、曰く付きの物語が幕を下ろした。しかし、それは決して完全な終わりではない。終演の静寂は、次なる幕開けのための、ほんの束の間の休息に過ぎないのだから。
あたしは、懐の観劇者の双眼鏡の冷たい感触を確かめながら、次の「役」が待ち受けるであろう、店の闇へと続く階段を、ゆっくりと降りていくのだった。
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