エピローグ

 野宮が目を覚ました。

「俺は、……」

 そう言う野宮にどう事情を説明したものかと思ったけれど、野宮は思ったほど混乱していないようだった。彼はゆっくりと手を、自分の唇に持っていき、そっと当てた。その意味がわかったから、僕は目を逸らした。何を話せばいいのかもわからず、僕は目を逸らしたまま言う。

「体は大丈夫? 急に倒れたから、その、あの」

「ごめんな」

 僕は固まった。

 野宮は今、なんて言った?

 僕は視線を元に戻した。野宮はまっすぐ、こちらを見つめていた。

「本当に、悪かった。ごめん」

「野宮」

「俺はさ、……本当は嬉しかったんだ。万引きをバラされたとき。だってずっと、誰かにそうして欲しいと思っていたから」

 野宮は目を逸らさない。

「俺は、ようやく、解放されると思った。俺をがんじがらめにしているこのしがらみから、本当に自由になれると思ったんだ」

 彼は続ける。

「ずっと、自由になりたかった。俺にできたちっちゃな抵抗が、あの万引きだったんだ」

 僕は何も言えず、酸素の足りない魚みたいに口を動かした。泣きそうだった。いや、もしかすると泣いていたかもしれない。悲しいのか、なんなのかもわからないけれど、僕は泣いていた。

「田岡が、そのせいで良くない目に遭っていることも、俺は知っていた。お前が苦しんでいるのも知っていた。でも、俺は何もしなかった」

 そしてようやく、彼は目を少し俯かせた。そして言った。

「俺は最低の人間だよ」

 僕は、僕が恋していた野宮亮平という人間が、本当はこの世に存在していなかったことを知った。

 僕が恋していたのはまぼろしだった。

 目の前にいたのは、僕と同じ、自分の力だけでは世界と向き合うことのできない小さな存在。

 だけど、そんな、今目の前にいる――本当の野宮亮平の方が、あのまぼろしの野宮亮平よりも、ずっと素敵だ。

 完璧で美しかったまぼろしと、実在するちっぽけな存在――どっちを、しっかりと抱き締めてやりたい?

 答えは簡単だった。

 僕がそう思えるようになったのは、きっと彼のおかげだろう。

「あ」

 野宮が声をあげた。

 窓ガラスの外で、桜が一斉に花を咲かせはじめる。スローモーションのアニメのように、ひとつひとつと咲いていく花。

 僕にはそれが、彼の最後の置き土産なのだとわかる。

 狂い咲きに気づいた生徒たちの歓声が遠くから聞こえる。

 僕は窓に向かって、桜を見た。

 鮮やかに咲き誇った桜の花。写真なんて撮らなくていい。僕はこの美しさを、一生忘れないのだから。美しく咲き誇った桜。最後の狂い咲き。この桜とともに、僕はずっと生きていくんだ。

 ――生きていく。

 野宮が僕の隣に立つ。

「綺麗だな」

 野宮もきっと、この狂い咲きの意味がわかったのだろう。

 桜に向かって僕は言った。

「ありがとう、――さよなら!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

桜が狂い咲きしている 数田朗 @kazta

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ