八
朝起きると、九月十二日だった。
当たり前だ、昨日は九月十一日だったのだから。九月十一日が終われば、九月十二日がやってくる。
学校に行きたくなかった。
今日はきっと、桜が狂い咲きしている。
それを見て、ユズルのことを思い出したくなかった。
夏休み中も、新学期が始まってからも、一度もあのトイレには行っていなかった。ずっと、考えないようにしていた。
通学路を俯いて歩いた。学校に近づく。校門前、見上げれば、見事な桜が咲いているはずだ。
だけど、僕はおかしいと気づいた。
誰も、学校の前で騒いでいなかった。花びらも、一枚も落ちていない。
僕は顔を上げた。
桜は、咲いていなかった。当たり前のような顔で葉を茂らせる桜の木を、僕は呆然と見つめていた。登校する生徒たちは、何も気にしないで、何も気づかずに挨拶をしながら校門をくぐっている。
校門の前、一人の生徒が僕と同じように桜を見上げていた。
野宮だった。
彼は、何かを考えこむような眼で、葉のしげった桜を見つめていた。僕はそんな野宮を見つめていた。
やがて、野宮がこちらを見た。僕は俯いて目を逸らした。そのまま、野宮の横を通り過ぎる。
声が聞こえた。
「今年は咲かないんだな」
僕は振り返った。野宮がこちらを見つめている。
僕に言ったんだ。
野宮が、僕に話しかけている。
「桜が、今年は咲いてない」
そして続けた。
「毎年あんなに狂い咲きしているのに。それで、あんなに大騒ぎして喜んでるのに、今年は咲いてないことに、誰も気づかないなんて、ひどい話だ」
「野宮――くん」
「野宮でいい」
「いや、それは、さすがに」
「どうして」
「いや、だって」
「同じクラスなんだから、いいだろ。それに、田岡は気づいたんだろ、桜が咲いてないって」
野宮が、普通に僕と話している。
なんとか返事をしながらも、僕は現実が信じられない。
野宮が好きだった。野宮に恋をしていた。そして僕は、野宮を憎んでいた。
そんな僕が野宮と話して感じるのは――野宮が目の前にいるなあ、ということだった。唇と喉が動いて声が出て、それが僕の耳に届いている。僕に話しかけている。野宮が。
生身の、生きている人間。野宮も、生きているんだなあ。そう思った。馬鹿みたいだ。
「あのさ、野宮くん、僕――」
僕が言いかけたとき、ふらっと野宮の体が傾いて、崩れるようにその場に倒れこんだ。
「野宮!」
慌てて駆け寄って、僕は野宮を抱き起す。野宮は眠っているかのような顔で、ぐったりと体を僕に預けた。
僕は慌てて周囲を見回して、誰かに助けを呼ぼうとするけれど、校門の前、まだ登校時間も過ぎていないはずなのに、誰もいない。
体を揺すっても、起きる気配がない。
「野宮……?」
僕が恐る恐る語りかける。
やがて、野宮は目を開けた。
「だい、大丈夫かよ」
ぼんやりと目覚めた野宮は、寝ぼけているように周囲を見回し、急に僕の腕を掴んで、そのままぐいっと立ち上がり歩き出した。引っ張られる僕の、なにすんだよ、という声を無視して、野宮は歩き続ける。
「どうしたんだよ、なあ、痛いって」
僕が言うと、 野宮はあっさりと手を離した。そして振り返って言った。
「こっちへ来て」
その野宮は、僕の知ってる野宮じゃなかった。
野宮は、こんな優しい顔をしない。
野宮は、こんな声でしゃべらない。
野宮は、僕にこんな風に接しない。
野宮が向かう先がどこだか分かって、僕は謎が解けた。
「――ユズル?」
僕は野宮に話しかける。野宮が振り返って、優しく僕に微笑みかけた。
トイレにたどり着くと、野宮――いや、ユズルは言った。
「やっぱり、ここが落ち着くね。情けない話だけど」
表情筋の使い方が違うのだろうか、同じ造形のはずなのに、野宮は本当に野宮じゃないみたいだった。
彼は微笑んで言った。
「やっと会えた」
「ユズル……」
「今日は:特別な日|だから、僕には、少しだけ力があるんだ」
そう言うと、窓の桟に手をかけてあの桜の木を見上げた。
「いつもは桜を咲かせていたけど、今年は違うことがしたかった」
窓の外の、咲いていない桜。
「充に会いたくて」
そう言うと、ユズルはがばりと抱きついてくる。
「え、ちょ、何」
ユズルは僕を抱きしめたまま後頭部に手を回して、髪の毛の中に手を入れてぐしゃぐしゃとかき混ぜる。
「こんなことしたの初めてだけど、うまくいって良かった」
僕は抱きしめられて、その体温をしっかりと感じていた。それは誰の体温なのだろう。ユズルの? それとも、野宮の?
僕は言う。
「なんで……」
「?」
「なんで、よりによって、野宮なんだよ」
それを聞くと、ユズルは僕から体を離し、笑った。
「じゃあ、他のやつが良かった?」
その、勝ち誇ったような表情。得意げなのに、優しさを感じるその顔。
ユズルは、こんな顔で笑うんだ。
「だって、本当は触りたかったんだろ? こいつに」
そう言いながら、もう一度、ユズルが僕を抱きしめる。そして言う。
「僕も充に会いたかった。だから、これって一石二鳥だろ」
「う、うん」
僕はゆっくりとユズルの背中に手を回し、おずおずとその体を抱きしめた。しっかりと筋肉のついたその体は、見た目よりも中身がぎゅっと詰まっていて、僕は感動し声を漏らす。
「おぉ……」
「なんだよ、その声」
「あっ、いや、ごめん」
「なあ、充」
「――何?」
「僕は、ヒーローなんかじゃないよ」
ユズルは、一層強く僕を抱きしめた。
「僕は、充と一緒だ。それだけ、言いたくて」
僕も、ユズルを抱き返す。
「わかった。ありがとう」
ユズルが少し体を離し、その顔をゆっくりと僕に近づけた。僕は驚いたが、彼が何をしようとしているのか分かって、ゆっくり目を閉じた。唇に、柔らかなものが重なった。しばらく、そうしていた。
「もうそろそろ、限界みたいだ」
ユズルは唇を離し言う。
「でも、もう十分。ああ、ようやく僕も、自由になれるかも」
ユズルは安堵したように言い、
「じゃあね」
いつものようにそう告げて、野宮の中から――いや、このトイレからも、いなくなった。
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