朝起きると、九月十二日だった。

 当たり前だ、昨日は九月十一日だったのだから。九月十一日が終われば、九月十二日がやってくる。

 学校に行きたくなかった。

 今日はきっと、桜が狂い咲きしている。

 それを見て、ユズルのことを思い出したくなかった。

 夏休み中も、新学期が始まってからも、一度もあのトイレには行っていなかった。ずっと、考えないようにしていた。

 通学路を俯いて歩いた。学校に近づく。校門前、見上げれば、見事な桜が咲いているはずだ。

 だけど、僕はおかしいと気づいた。

 誰も、学校の前で騒いでいなかった。花びらも、一枚も落ちていない。

 僕は顔を上げた。

 桜は、咲いていなかった。当たり前のような顔で葉を茂らせる桜の木を、僕は呆然と見つめていた。登校する生徒たちは、何も気にしないで、何も気づかずに挨拶をしながら校門をくぐっている。

 校門の前、一人の生徒が僕と同じように桜を見上げていた。

 野宮だった。

 彼は、何かを考えこむような眼で、葉のしげった桜を見つめていた。僕はそんな野宮を見つめていた。

 やがて、野宮がこちらを見た。僕は俯いて目を逸らした。そのまま、野宮の横を通り過ぎる。

 声が聞こえた。

「今年は咲かないんだな」

 僕は振り返った。野宮がこちらを見つめている。

 僕に言ったんだ。

 野宮が、僕に話しかけている。

「桜が、今年は咲いてない」

 そして続けた。

「毎年あんなに狂い咲きしているのに。それで、あんなに大騒ぎして喜んでるのに、今年は咲いてないことに、誰も気づかないなんて、ひどい話だ」

「野宮――くん」

「野宮でいい」

「いや、それは、さすがに」

「どうして」

「いや、だって」

「同じクラスなんだから、いいだろ。それに、田岡は気づいたんだろ、桜が咲いてないって」

 野宮が、普通に僕と話している。

 なんとか返事をしながらも、僕は現実が信じられない。

 野宮が好きだった。野宮に恋をしていた。そして僕は、野宮を憎んでいた。

 そんな僕が野宮と話して感じるのは――野宮が目の前にいるなあ、ということだった。唇と喉が動いて声が出て、それが僕の耳に届いている。僕に話しかけている。野宮が。

 生身の、生きている人間。野宮も、生きているんだなあ。そう思った。馬鹿みたいだ。

「あのさ、野宮くん、僕――」

 僕が言いかけたとき、ふらっと野宮の体が傾いて、崩れるようにその場に倒れこんだ。

「野宮!」

 慌てて駆け寄って、僕は野宮を抱き起す。野宮は眠っているかのような顔で、ぐったりと体を僕に預けた。

 僕は慌てて周囲を見回して、誰かに助けを呼ぼうとするけれど、校門の前、まだ登校時間も過ぎていないはずなのに、誰もいない。

 体を揺すっても、起きる気配がない。

「野宮……?」

 僕が恐る恐る語りかける。

 やがて、野宮は目を開けた。

「だい、大丈夫かよ」

 ぼんやりと目覚めた野宮は、寝ぼけているように周囲を見回し、急に僕の腕を掴んで、そのままぐいっと立ち上がり歩き出した。引っ張られる僕の、なにすんだよ、という声を無視して、野宮は歩き続ける。

「どうしたんだよ、なあ、痛いって」

 僕が言うと、 野宮はあっさりと手を離した。そして振り返って言った。

「こっちへ来て」

 その野宮は、僕の知ってる野宮じゃなかった。

 野宮は、こんな優しい顔をしない。

 野宮は、こんな声でしゃべらない。

 野宮は、僕にこんな風に接しない。

 野宮が向かう先がどこだか分かって、僕は謎が解けた。

「――ユズル?」

 僕はに話しかける。が振り返って、優しく僕に微笑みかけた。


 トイレにたどり着くと、野宮――いや、ユズルは言った。

「やっぱり、ここが落ち着くね。情けない話だけど」

 表情筋の使い方が違うのだろうか、同じ造形のはずなのに、野宮は本当に野宮じゃないみたいだった。

 彼は微笑んで言った。

「やっと会えた」

「ユズル……」

「今日は:特別な日|だから、僕には、少しだけ力があるんだ」

 そう言うと、窓の桟に手をかけてあの桜の木を見上げた。

「いつもは桜を咲かせていたけど、今年は違うことがしたかった」

 窓の外の、咲いていない桜。

「充に会いたくて」

 そう言うと、ユズルはがばりと抱きついてくる。

「え、ちょ、何」

 ユズルは僕を抱きしめたまま後頭部に手を回して、髪の毛の中に手を入れてぐしゃぐしゃとかき混ぜる。

「こんなことしたの初めてだけど、うまくいって良かった」

 僕は抱きしめられて、その体温をしっかりと感じていた。それは誰の体温なのだろう。ユズルの? それとも、野宮の?

 僕は言う。

「なんで……」

「?」

「なんで、よりによって、野宮なんだよ」

 それを聞くと、ユズルは僕から体を離し、笑った。

「じゃあ、他のやつが良かった?」

 その、勝ち誇ったような表情。得意げなのに、優しさを感じるその顔。

 ユズルは、こんな顔で笑うんだ。

「だって、本当は触りたかったんだろ? に」

 そう言いながら、もう一度、ユズルが僕を抱きしめる。そして言う。

「僕も充に会いたかった。だから、これって一石二鳥だろ」

「う、うん」

 僕はゆっくりとユズルの背中に手を回し、おずおずとその体を抱きしめた。しっかりと筋肉のついたその体は、見た目よりも中身がぎゅっと詰まっていて、僕は感動し声を漏らす。

「おぉ……」

「なんだよ、その声」

「あっ、いや、ごめん」

「なあ、充」

「――何?」

「僕は、ヒーローなんかじゃないよ」

 ユズルは、一層強く僕を抱きしめた。

「僕は、充と一緒だ。それだけ、言いたくて」

 僕も、ユズルを抱き返す。

「わかった。ありがとう」

 ユズルが少し体を離し、その顔をゆっくりと僕に近づけた。僕は驚いたが、彼が何をしようとしているのか分かって、ゆっくり目を閉じた。唇に、柔らかなものが重なった。しばらく、そうしていた。

「もうそろそろ、限界みたいだ」

 ユズルは唇を離し言う。

「でも、もう十分。ああ、ようやく僕も、自由になれるかも」

 ユズルは安堵したように言い、

「じゃあね」

 いつものようにそう告げて、野宮の中から――いや、このトイレからも、いなくなった。

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