あっという間に春休みが終わり、今日から新年度の始まりだった。今日から、僕たちは二年生になる。通学路で同じ制服を着た生徒たちが、クラス割りについて期待と不安の混じった会話をしている。僕も同じ気持ちだった。ただそれは、多分他の人たちとは、少し趣の違うものだろう。

 僕は必死だった。必死で祈っていた。

 なんとしても、あいつと同じクラスになりたくない。

 僕が今、になった理由であるあの男と。

 校門をくぐると、見事なまでに桜が咲いていた。春。当然のように咲いた桜は、あの日ほどの関心を集めていないように見えた。

 皮肉な話だと僕は思う。この桜も、あんな狂い咲きをしなければ、いま今年一番の注目を集めているはずなのに。そんな僕自身も、さほどのありがたみも感じることなく桜の横を通り過ぎた。とにかく、僕はクラス分けのことで頭がいっぱいだった。大きな掲示板の前に、人だかりができている。僕もそこへ向かった。

 祈るような気持ちで、いくつも並ぶ後頭部の向こう側の大きな紙に目を凝らした。それは、今日から一年間教室をともにする同級生の名前が書かれた、クラス表。

 等間隔に、しかし大量に並んだ名前の中から、僕は自分の名前――田岡充という字の並びを、すっとその中に見つける。百名くらいいるのに、自分の名前というのはやはり特別なものみたいだ。まるでそこに視線が吸い寄せられるようだった。

 僕は意を決して、その視線を下へと滑らせる。『の』で始まるその名前が、下に並んでいないことを祈りながら。

『野宮亮平』

 あっさり、その名前は僕の下に並んでいた。全身から力が抜けそうだった。その時、

「亮平!」

 僕の少し前にいた男子が、振り返ってそう呼んだ。僕の真横を、そしてその野宮亮平がまさに通り過ぎた。僕は全身が固くなって、呼吸が止まってしまいそうだった。手を強く握りしめて、僕はに耐えていた。

「今年も同じクラス!」

 野宮に呼びかけた男子が嬉しそうにはしゃぐ声が聞こえた。


 しかし、それから数ヶ月経って、よく考えればクラスなど大した問題ではないのだと気がついた。

 野宮はこの学校の、僕たちの学年の中心的存在だった。野宮は勉強ができ、運動ができ、親が有力な政治家で、精悍な顔立ちでスタイルが良かった。まるで漫画の中の登場人物みたいなあいつの周りには、いつも人が集まっていた。

 それがどうだろう、僕はといえば、完全に変なやつ扱いだ。

 何をしてもダメだった。僕は、もう厄介者のレッテルを貼られている。どんなに僕が頑張ってそれを剥がそうとしても、誰かが手を掴んでそれを認めない。それどころか、そんな僕の必死な姿を、みんなが笑っている。

 原因ははっきりしていた。

 あの日、僕は野宮が万引きするところを僕は見た。

 万引きは、いけないことだ。

 だから、僕はそれを告発した。

 だけど、それでどうなっただろうか?

 ――僕が悪者になった。

 みんなが言った。あいつがそんなことするわけがない。あいつがそんなことをする理由がない。みんな理解できないみたいだった。その混乱が、別の結論に切り替わるのはあっという間だった。

 お前が、嘘をついているんだ。

 誰かが言って、みんながそれに飛びついた。

 目立たない地味な生徒の僕が、人気者を妬んで嘘をついて、彼の名誉を傷つけようとした。目立ちたかった。注目を浴びたかった。

 すごくわかりやすいストーリー。

 それは、みんなの心をざわつかせない、平穏なストーリーだったのだろう。

 みんなのヒーローが万引きをしたという事実よりも、その方が、みんなには理解が容易かった。そういうことだ。

 結果、僕は彼に嫉妬しあることないことを言いふらす人間だということになってしまった。

 それから僕は腫れ物扱いされるようになり、多くはないがちゃんといたはずの友人も、一人一人と去って行った。

 別に、僕は完全に無視されることもない。だけど、誰も僕に近寄ってはくれない。

 誰もが均等に遠くにいるというのは、なかなかに堪えるものがある。

 それでも僕はその状況に耐えていた。直接的な嫌がらせをされていないので、まだなんとか我慢できたのだ。

 でも、体育の授業中、こんな出来事があった。

 その日の課題はダンスだった。流行りのアイドルグループの、比較的真似しやすい簡単な踊りだ。数人でグループを組んで練習することになって、同じグループにはあいつの取り巻きが二人いた。

「お前さ、全然踊れてないよ」

 休憩中、取り巻きAがそう言ってきた。

 来た、と思った。

「てか、やる気あんの? お前、他のやつより覚え悪いんだから、もっと頑張れよ」

 彼が僕に言っているのは明らかに間違っていた。グループには僕よりももっと覚えの悪いメンバーがいたのだから。百人見たら百人が、僕より彼の方が踊れていないというだろう。だけどその踊れていない男も、彼と同じあいつの取り巻きのBだった。

「そうだよ、お前、もっとちゃんとやれよ」

 そう言って加勢してきたのは、まさしくその踊れていないBだった。

 そのあまりにも恥知らずな行いに、僕は鼻で笑ってしまう。

「お前、何笑ってんだよ。マジ、ふざけんなよ」

 どん、と肩を押された。

 僕は反論しようと口を開き――視界に入るクラスメイトたちの視線を見た。

 彼らの視線は、明らかに僕を非難していた。

 僕は理解する。そうか、ここには一人もいないのだ。僕の味方になってくれる人間は、一人も。

 そう考えると、一気に反論する気力も萎えてしまった。どうせ何を言ったって、こいつらには伝わらないのだから。

 だだ広い体育館。八つ当たりできる何かもなく、僕はじっと耐えていた。

「何か言えよ」

 Aが言う。僕は無言で、いつの間にか倒れていた水筒を拾って蓋を開けた。

 中の麦茶は、なんだか味がしなかった。


 授業が終わって服を着替えて、次の国語の授業を受けている間も、僕の心は晴れなかった。

 僕は頭の中で想像していた。あのまま麦茶をあいつらにぶち撒けてやったら、どれだけ爽快だっただろう。だけど僕は、そんなこともできずただお茶を飲んで、無言で練習に戻っただけ。それが、僕の精一杯。

 先生の目を盗んで、机の陰でポケットからスマホを取り出す。待ち受けは、あの日咲き誇った桜の写真だった。

 僕は急に、何かに突き動かされるように手を挙げた。

 話を遮られるように挙がった手を見て、先生が驚いた声を出す。

「おう、どうした、田岡」

「すいません、気分が悪いので、保健室に行ってきます」

 僕は先生の返答も待たずに立ち上がって教室を出た。

 僕の足は、自然にあのトイレへと向かっていた。

 トイレに入ると、目前に桜の木があった。季節は春と夏の間。その枝には、緑の葉っぱがついている。仕方ない。僕は窓枠に両手をついて桜を見上げた。見上げていれば、その桜が何かを伝えてくれる気がしたから。だけど桜は当然何も言ってなどくれず、大きくそこに伸びているだけ。

 いつまでこんな状況が続くのだろう。

 先生に頼れば、と思うこともあった。だけど、万引きを訴えたとき、先生たちは誰も僕の話に取り合ってくれなかった。だから、僕は根本的にあの人たちを信用していない。

「早くここから出ていきたい」

 自然とそう声が漏れた。

「こんなとこにこれ以上いたくない」

 そう口に出すと、僕はなんだか泣きそうになった。誰も見ていないとは思ったが、僕は個室に入って扉を閉めた。薄暗くなった視界が、みるみる涙で滲んでいく。やがてそれは粒になって、格子状のタイルの貼られた床にぽたりと垂れた。

 ――泣いてるの?

 声が聞こえた。僕は驚き周囲を見回す。声はどこから聞こえてきただろう。

 ――なんで泣いているの。

 その声は、優しい声だった。敵意のない声だ。そんな声を、久しぶりに聞いた気がする。なぜだろう、僕はその優しい声を聞いて、胸が締め付けられるような思いだった。名前の知らない料理が急に目の前に差し出されて、それがずっと、何よりも食べかったのだと気付かされたような、そんな気持ち。

 声が溢れそうなのを抑えるために、僕は口元に制服の袖を持っていった。

 ――大丈夫?

 その声を聞いて、涙がいっそう溢れた。

「ぼく、は」

 口を開いた僕は、誰かもわからないその声に、全てを吐き出してしまおうと思った。

「ぼくは――」

 そう言いかけて、急にある噂を思い出した。

 校舎のどこかに、幽霊の出るトイレがあるらしい。

 ある生徒が、自殺をして、成仏できていないらしい。

 桜が狂い咲きするのは、その少年の死んだ日らしい――。

 桜が鮮やかに咲き誇ったあの日、教室に戻った僕はクラスメイトがそう噂するのを確かに聞いた。聞いた時は、なんて馬鹿げた話だろうと思った。トイレに出る幽霊? ベタすぎる。

 ――どうしたの?

 声が再び聞こえた。僕は立ち上がり、扉を開けると一目散にトイレを逃げ出した。

 馬鹿馬鹿しい。幽霊なんているわけない。でも、本当にトイレに誰もいなかったかは確認しなかった。

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