■回想(過去・高校時代)

高校3年の春、休み時間に、教室の片隅でいつも本を読んでいた俺を、彼女は一度だけ見ていたという。


「いつも静かにしてるのに、目だけすごく忙しそうだった」


そんな風に言われて、少しだけ照れたのを覚えている。


彼女は逆に、いつも人に囲まれていた。だけど、時折見せる目の奥の寂しさが気になっていた。


ああ、この人もどこかで一人で戦ってるんだろうなって。


その頃の俺たちは、言葉よりも沈黙の方がうまく通じていた気がする。


図書館での出会いは、どこにでもあるような、でもその後の人生を大きく変える出来事だった。


あの日も、俺はいつものように本を手に取って、静かな空間で過ごしていた。午後の光が窓から差し込んで、ページの上にふんわりと降り注ぐ。


そんな中で、ふと隣に座った彼女を見かけた。最初はただ、気づかないふりをしていたけれど、少し経って彼女が俺に声をかけてきた。


「その本、面白いの?」


彼女が手に持っていたのは、俺が読んでいた恋愛小説とは全然違うジャンルの本だった。バレエに関する本。見るからに、読み込んだ痕がある。


「うん、すごく面白いよ」と答えると、菜月は少しはにかんで、「私も、読んでみたいな」って、ちょっとだけ恥ずかしそうに言った。それがきっかけで、少しずつ会話が弾み始めた。


俺は将来、小説家になりたいと思っていた。世界を変えるようなすごい小説じゃなくても、誰かの心にそっと残るような、そんな物語を書くのが夢だった。


だから彼女にも、俺が好きな恋愛小説をすすめた。感情が丁寧に描かれた、静かな物語。彼女はそれを受け取って、次に会った時には「面白かったよ」と言ってくれた。


その言葉が、なんだか嬉しかった。


それから俺たちは本の話をきっかけに、少しずつ距離を縮めていった。


ある日、俺たちはその小説の舞台になった海辺の駅に出かけた。まだ少し肌寒い季節だったけれど、二人で歩くホームは、まるで物語の中にいるみたいだった。


ベンチに座った彼女が声を弾ませて言った。


「ちょっと来て!ここ、ヒロインの“結衣”が『待つのって、ちょっとだけ幸せだね』って言ったとこだよね?」


「そうだな。あっちは新し過ぎるし、多分このベンチだな」

俺も嬉しくなって、並んで腰掛けた。


「もし、あなたの小説の中で、私が登場人物だったら――どんな役をくれる?」


彼女の問いに、俺は答えに詰まって、けれど笑ってこう言った。


「たぶん、ヒロイン。…いや、きっと書きながら俺の方が惚れてくから…途中で嫉妬して書くのやめるかも」


彼女はちょっと呆れたように、それでも嬉しそうに笑って、「バカ」とだけ言った。その顔が、今でも忘れられない。


その後、ホームで菜月がつぶやいた言葉。


「もし、私たちがこのままの距離を保って、ずっとこうしていられたら――」


バレエのコンクールに向けて、本格的な練習が始まる予定だった菜月のその言葉に、俺はすぐには返事ができなかった。

静かなホームに、海風の音だけが吹き抜けていた。


「……俺も、そうしたいけど…」

少ししてそう答えた声が、思ったよりも震えていた。


過ごした時間の中で、お互いにどこか惹かれていることは、もうとっくに分かっているはずだった。


でもその先に進めば、いつか「終わり」が来るかもしれない――

そんな怖さが、どこかにあった。


きれいなままでいたい。

このまま、曖昧な関係でずっと続けられたら、それもいいかもしれない。

けれど、それ以上に、彼女と一歩踏み出したいと思う気持ちが勝った。


「俺は…」


俺がゆっくりと手を差し出すと、菜月は驚いたような顔をして、

それから、ほんの少し照れたように、でもまっすぐに俺の手を握り返してくれた。


「じゃあ……ちゃんと、好きって言ってよ」


その一言が、揺れてばかりの心に静かに火を灯した。


「……好きだよ、菜月」


彼女は、少しだけ涙ぐんで、それでも笑っていた。

俺も、笑っていたと思う。


そうして、俺たちは付き合いはじめた。

言葉にすることで、逃げずに進んだ、初めての恋だった。


放課後のファミレスで、小説の好きなシーンについて向かい合って語り合った時間。


映画館の暗がりでそっと繋いだ手の温もりに、ストーリーがほとんど頭に入らなかったあの日。


小説の舞台になった砂浜では、貝殻を拾い集める彼女の横顔を、俺は缶コーヒーを手に見つめていた。


そして――夕暮れ時、池のほとりのベンチで、夕陽が水面に揺れるのを見ながら交わした、静かなキス。


そのどれもが輝いていて、たしかに「恋人」として過ごした、かけがえのない、幸せな時間だった。


——だけど、時が経つにつれて、俺たちの夢は、少しずつ違う方向を向きはじめた。


菜月は、全国コンクールで優秀な成績を残し、プロのバレエダンサーになる夢を、強く描くようになっていった。

俺が聞いていなくても、「いつか留学したい」と、ぽつりぽつりと口にするようになった。


一方で、俺は小説家になる道だけを追い続けていた。

夜遅くまで机に向かい、いくつもの新人賞に応募した。

毎月のように原稿用紙に向かっては、締切に追われる日々。

だけど、届くのは落選通知ばかりで、成果はいつも報われなかった。


それでも、物語を綴って生きていく——そんな輪郭の曖昧な夢を、俺は信じていた。


だけど、そんな俺の小説の話を、菜月は聞いているようで、どこか上の空なことが増えていった。


デートの帰り道、何も言わなくても、俺は少しずつ感じはじめていた。

菜月との未来が、どこか、遠くなっていくことを。


自分ばかりが、彼女の夢の足を引っ張っているんじゃないか――そんなふうに思いはじめていた。


それでも、俺たちは会うのをやめなかった。

ほんの少しだけ、現実に目をつぶっていたかったのかもしれない。


菜月の夢を、俺は決して否定しなかった。

ちゃんと応援していた。――そのつもりだった。


だけど、ある時ふと、俺は気づいてしまった。

菜月の未来に、俺は必要じゃないかもしれないって。


——そして。菜月の留学が決まった秋、俺たちは、客のいないファミレスの隅の席で、最後の話をした。


ガラス越しに沈んでいく夕日と、手つかずのまま冷めかけたコーヒー。

言葉よりも、空気のほうが多くを語っていた気がする。


「拓海…私たち、別れよう…」


菜月の声は静かで、どこか遠くを向いていた。


「ほんとは、すごく辛いし、ずっと迷ってた。でも…海外でバレエを続けるなら、私、全部そこにかけなきゃって思うの。あなたとの連絡は…きっと、私にとって未練になっちゃう気がするから」


彼女の言葉に、胸が締め付けられた。でも、俺も同じことを考えていた。


「…うん、わかる。俺も、君の夢を縛りたくないって思うよ。君がどれだけ努力してきたか、ずっと見てきたし…」


俺の声は少し震えていた。けれど、最後くらいしっかりしよう、と思って声を調えた。


「小説家になるって、俺の夢もまだ曖昧だけど…海外に行く君への未練を捨てきれないと、前には進めないと思う」


「ありがとう…。拓海の夢。私、応援してるからね」


そう言った菜月は、泣いているのか笑っているのか分からない、少し不器用な笑顔を浮かべていた。


どうにもならないことなんて、わかっていた。

それでも、本当は引き止めたかった。

一緒にいてほしいと、泣きつきたかった。


でも——それを言えば、彼女の勇気も、覚悟も、踏みにじってしまう気がした。


だから俺は、その優しさに、静かに甘えた。


留学しても、最初は連絡を取り励まし合った。

けれど、彼女の夢の重さと、俺の自制心が、静かにその糸をほどいていった。


あの日、俺たちは静かに、それぞれの道を選んだ。

それからもずっと、あのときの静かな決意だけが、胸の奥に残っている。

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