第10話『カオスのハチ公前』
日曜日の午後、陽斗は人混みに立ち尽くしていた。
渋谷。ハチ公前広場。
人、音、視線、動き——そのすべてが交差しては消え、また重なる。
まるで、誰かの“感情の波形”がこの地に記録されているかのようだった。
彼のスマホには、ひとつのメッセージが残っている。
瑞希:「明日、14時にハチ公の前で待ってる」
文化祭での演奏が終わって以来、二人は少し距離を置いていた。理由は、わからない。むしろ、“何も起きなかった”ことが、彼らの間に静かなしこりを残した。
14時5分。瑞希は、まだ来ない。
人混みは渦のように動き続ける。どの顔も、どの体も、数秒後には別の方向へ去っていく。
「こんな場所で再会するなんて……無謀だったか?」
そう思いかけたとき、AIが彼の耳元で囁いた。
陽斗の端末にインストールされている“動的システムモデル”のAI——ロキ。
「今、君の選択と瑞希さんの選択は“ロジスティック写像”で説明できるかもしれない。つまり、少しの初期条件の違いが、大きな結果の違いを生む、非線形な系だ」
「つまり、“運命”は初期設定次第ってことか?」
「少し違う。“未来は予測不能”という意味に近い。でも、パターンの中に“秩序”はある」
ロキが画面に1つの式を浮かべる:
x[n+1] = r * x[n] * (1 - x[n])
「これは“カオス写像”とも呼ばれる式だよ。
ある数値 x(たとえば、ふたりの距離や関係性の“強さ”)に、成長率 r をかけることで、次の状態が決まる。
だが、r の値が高くなると、関係の推移は不安定になる。つまり、近づこうとすればするほど、乱れが生まれる」
陽斗はその言葉に立ち尽くした。
自分は、近づきすぎたのだろうか?
あるいは、踏み込みが足りなかったのか?
すると、視界の端に、ひとつの影が現れた。
瑞希だった。
フードをかぶっていたが、すぐにわかった。
ただ、彼女は彼の姿にすぐには気づかず、人混みを縫うように歩いていく。
「……またすれ違うのか?」
そう思った瞬間、陽斗は声を上げた。
「瑞希!」
その声が、渋谷のノイズを割った。
瑞希が振り返る。目が合った。
時間が、少しだけ止まったように感じた。
彼女が微笑んで近づいてくる。
息を弾ませながら、言った。
「……本当は、来ないかもしれないって思ってた。
でも、来てくれた」
陽斗は首を振る。
「俺も、来るかどうかわからなかった。でも——」
ポケットの中で、スマホが静かに振動した。
ロキからの通知。
「カオスの中にも、“引き寄せられる軌道”が存在します。これを“ストレンジアトラクター”と呼びます」
陽斗はそれを見て、小さく笑った。
「俺たち、たぶん……“変な吸引力”で引き寄せられてるんだな」
瑞希も笑った。
「うん。何度ぐるぐるしても、最後は戻ってくる感じ」
✎ 数楽メモ:ロジスティック写像とカオス
ロジスティック写像:
x[n+1] = r * x[n] * (1 - x[n])
xはシステムの状態(0〜1)
rは成長率(条件により、収束、振動、カオスを生む)
カオス理論の特徴:
初期条件に極めて敏感(バタフライ効果)
完全にランダムではないが、長期予測は不可能
規則と乱れが共存する
ストレンジアトラクター:
カオス系における“見えない引力のパターン”
例:二人の関係が複雑でも、何度も出会い続ける“かたち”
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