名前を貼られた日

夜の講堂は、ほとんど無音だった。


誰もいない教室。足音も話し声も消え、壁に残った時間割の紙がわずかに揺れていた。

湘 健之は窓際に座り、外の景色を見ていた。

灯りはない。闇と、遠くの風音だけが、ゆっくりと流れている。


その隣に、佐久間真弓がいた。

何も言わなかった。けれど、湘の沈黙を『待つ』ように、そこにいた。


しばらくして、湘が低く言った。


「……前の避難所で、同じようなことがあった。僕が管理してた倉庫で、誰かが物を持ち出して……それが『僕の仕業』だって、言われた」


声は平坦だった。でも、その奥には、乾いた火種のようなものが潜んでいた。


「証拠は、なかった。……でも、誰も、僕をかばわなかった。むしろ、『あの人ならやりそう』って顔を、皆してた」


真弓は、横で微かにまばたきした。

湘はそれを見ずに、話を続けた。


「その日の朝。倉庫の入口に紙が貼られてた。『湘 健之に配給を任せないでください』って。……誰が書いたかは、わかってる。でも、その人はずっと、僕の隣にいた人だった」


喉が少しだけ震えた。

でも、声は途切れなかった。


「……何日か、そのままいた。誰とも話さず、ノートだけ書いて。でも、何も言われない方が、つらかった。透明になったみたいで。見えてるのに、いないみたいで」


真弓の指先が、膝の上でぎゅっと握られていた。


「結局、僕は、勝手に出た。ノートも道具も置いて。……でも、名前は残ってた。貼られたままだった。あの紙を、最後に見たのが……僕が自分を捨てた瞬間だったと思う」


湘はそこで口を閉じた。


風が、窓枠をかすめて抜けた。


しばらくして、真弓が小さく言った。


「……ねえ、それ、全部話してくれて、ありがと」


湘は、顔を少しだけ横に向けた。


「君が、『貼られた名前』の話をしたから、思い出しただけ」


「でも、思い出しても、言わない人はたくさんいる。あたしも、ずっとそうだった」


沈黙が、少しだけあたたかくなった。


「……その紙、今はもう、どこにもないよ」


「うん。でも、あんたの中にはまだ、ちょっとだけ、貼られてるよね」


湘は答えなかった。

でも、その言葉を否定しなかった。


名前は、消えたように見えて、心の内側に貼られたまま残ることがある。

それを初めて誰かに見られて、そして、それを『そのまま』受け取られた。

それだけで、ほんの少しだけ、風景が変わった気がした。

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