知らない誰かのために
夕暮れの風は、ひどく無音だった。
空気が音を吸い込んでいるみたいで、草を踏む足音さえ聞こえなかった。
湘 健之は、古びたリュックを背負っていた。
中には、毛布と瓶と、小さな袋に包まれた何か。重くはないが、重さの“種類”が曖昧だった。
「……この中、ガラス?」
「うん、割らないでね。ひとつしかないから」
佐久間真弓は、横を歩きながら鼻歌を歌っていた。知らない曲。おそらく、どこかの記憶にしかない歌。
廃材置き場までは歩いて五分。だが、湘にとっては異様に長い道のりに感じられた。
「……なんで、ここまで自分で来なかったの」
「来たよ、何回か。でも、置いておくだけって、なんか違うなって思って。ちゃんと“手で届けたい”っていうの? ……そういうの、あるじゃん」
「……僕には、ない」
「うん、知ってる。でも、来てくれたじゃん」
湘は返事をしなかった。
遠くで犬の遠吠えが一度だけ鳴った。建物の影に入り、また、音が吸われた。
廃材置き場に着くと、真弓はまっすぐに一角の古いドラム缶の前に立った。
中は空だった。そこに、花束が置かれていた。すでに枯れたもの。
「ここ、何?」
「……前に、知り合いが住んでた。避難所に来る前に、ね。ここの近くで」
「亡くなったの?」
「うん。病気。あと、……放置されてたから。気づくの遅れて」
湘は、その言葉に反応しきれなかった。
“放置された死”という概念が、彼の思考回路には収まりが悪かった。
「僕に……何をしてほしかったの」
「ん。運んでほしかっただけ。でも、本当は、知ってほしかったのかも。こういう人がいたって。……記録、されてないから」
湘はリュックを下ろし、そっと荷物を取り出した。
毛布、小瓶、そして小さな袋。
「……君の……家族?」
真弓は首を振った。
「違う。けど、家族みたいだった。何も求めない人だった。わたしのこと、ちゃんと“変なやつ”って言ってくれた」
湘は瓶を、ドラム缶の前にそっと置いた。
「それで、いい?」
「うん。ありがと」
湘は立ち上がった。立ち上がってから、自分の中に小さな穴が空いたのを感じた。
「……なんか、僕、“使われた”感じがする」
「うん。ごめん。でも、“使う”って、ちゃんと意味がある使い方なら、悪くないと思ってる」
「……わかんないな」
「うん、あんたはそれでいい。わかんないって言うことが、あんたらしさだから」
その言葉に、湘はまた返事ができなかった。
ただ、胸の奥で何かが揺れていた。
それが“悲しさ”かどうかも、彼には判別できなかった。
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