倒れていた老人のこと
呑戸(ドント)
倒れていた老人のこと
小学3年生の時の出来事。
当時、ある習い事をしていた。
火曜と金曜の週2回、放課後、学校から徒歩2分の教室へと歩いていき、6時か7時まで習い事をするのである。
実家は雪国だった。
春、夏、秋は問題ないのだが、冬が大変だった。朝はいつもより30分早く出ないと遅刻してしまうくらいの雪道になる。
朝ならばまだいいが、夜となれば歩くのは大変だった。
夜の7時となれば空も町も真っ暗で、夕刻からの寒さで道は凍っている。子供がひとりで帰るには危険極まりない。
だから冬期、習い事から帰る時はいつも、教室に備えつけの固定電話から家に電話をかけて、親から迎えに来てもらっていた。
2月のことだったと記憶している。
その日も雪が積もっていた。
だから習い事の教室から電話をかけて、その時家にいた母に迎えに来てもらうことになった。
当時のわが家の車は買ってから十数年という代物で、全体に角ばった白い車だったことを覚えている。
母が運転するその車に乗って、家まで運ばれていった。
何度となく繰り返されている、日常の光景だった。
それで。
車は何分か走って、家の近くのT字路までたどり着いた。
「T」の下の方から上がっていき、線が接しているところで右に曲がるのである。
線が接している箇所にはゴミ捨て場があって、常夜灯が夏冬問わず、いつも強く光っていた。
わたしは後部座席の右側に座って、ぼんやりと外を眺めていたように思う。
積もった雪は薄くもなく厚くもなく、路面を均等に真っ白に覆っていた。
T字路に差しかかって、母が右へハンドルを切る。雪道だからスピードは出さない。ゆっくりと曲がって進む。
(えっ?)
私は窓の外を見て、心の中で声を上げた。
常夜灯が照らすゴミ捨て場の前に、おじいさんが横になって倒れていたのだ。
常夜灯がまっすぐ上から照らしていたから、姿勢も服装も顔つきも、いまだにはっきりと思い出せる。
おじいさんは頭を左向きにして、両手を力なく前に出して、膝を曲げ、雪の道に横たわっていた。
深緑色の毛糸の帽子をかぶって、灰色の上着を着ていた。ズボンはカーキ色で、靴までは見えなかった。
額や口元や目元に刻まれた深い皺が年齢を教えている。
長じた現在になって改めて考えると、七十代後半から八十代前半くらいの顔つきだったように思う。
目は閉じられて、口がごくわずかに、小指の先くらいの幅に開いていた。
苦悶の表情はなく、まるで眠っているように見えた。
7歳ほどの子供ではあったが、
「おじいさんが倒れている」
「これは大変なことだ」
くらいのことはわかった。
それなのに母は、見えていないはずはないのに、倒れた老人の脇を素通りして、道を曲がり切ろうとしている。
思わず母の肩を叩いた。
「お母さんお母さん、あの人──」
すべて言い終わらないうちに。
母はこう言った。
「あぁあれね。あれは、いいのよ」
言った直後にT字路を曲がり切って、道は直線に入った。
何故か反論する気にならなかった。
「あぁ、そうなのか。お母さんが『いい』って言うんなら、じゃあ、いいのかな」
そんな風に思った。
母は帰宅してからも、警察を呼んだり119番にかけたりなどしなかった。
自分もどうしてか老人のことはどうでもよくなり、ご飯を食べてお風呂に入って、そのまま寝てしまった。
その翌日も、そのまた翌日も、いつまで経っても、
「道端で行き倒れのおじいさんが見つかった」
「倒れていた老人が保護されたらしい」
などの話は、大人からも学校でも、全く聞こえてこなかった。
この夜の出来事、あの老人については、何十年と経った今でも、母に聞けないままである。
怖いから聞けないのだ。
何が怖いと言って──
倒れている老人を母が、
「あれ」
と呼んだことが、とても怖い。
この話はフィクションではなく、私の実体験です。
倒れていた老人のこと 呑戸(ドント) @dontbetrue-kkym
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます