シンボリック3
中学校に進学する前、母は島外の様々な私立中学校を調べていた。インターネットで調べたり、教員をしているパトロンに聞いたり。うちにはプリンターがなかったから気にいる学校があると、母はコンビニまで駆けて行ってプリントをして、座敷の真ん中で書類を広げていた。らかんちゃん、こんなのもあるよ、と、ぺたんと座りながら笑う母を見ていると、その授業料は私の知らない男が出すにも関わらず? と突っぱねた言葉を言ってしまいたくなった。反抗期だったのではない。私には、母と男たちが金銭面で繋がっていること、それが私の生活に関わっていることに嫌悪感があったのだと思う。結局小学校の友人と離れたくない、などと思っていもいないことを口にして、島内の中学校に進学した。十分な知識もないのに(母は私立中に試験があることも知らなかった)無邪気に調べていた母親に対しての当てつけであったのかもしれない。
三年生のエンドウリョウタは、わたしが入学したばかりのころからもてはやされていた。もてはやされていた、というのは、とくべつに彼の成績がよかったり、スポーツで結果を残していたり、家でときおり見かける、映画「ベニスに死す」の青年のような、見るものをはっとさせる美しさを持ち合わせているわけでもなかった。彼は二学年年上で、バスケットボール部のキャプテンで、ただそれだけだった。けれどもそれだけであることがどんなに田舎の中学生を夢見させたことだろうか? 猿みたいな面長の顔をして、友人や後輩を引き連れて、校内をずんずん歩いていたエンドウリョウタ。へんに着崩した制服が野暮ったく見えたけれど、言えなかった。周りの友人たちは口を開けて、彼をうっとりと見つめていたから。なんだかいたたまれなくなって目を逸らした。母の周りにはとても若い男もいたけれど、エンドウリョウタはああいう人たちとは比べ物にならない。母の男たちは、高校には行っていないのだろう。昼は空港で肉体労働をして、夜はフロイトやらなんやらーー〈オンダ〉の残したらしい書物を読んでいる。学校に行っている、行っていないというだけで変わることなどないのかもしれない。エンドウリョウタはフロイトのフの字も知らずに生きているに違いない。
「中学校は不登校でも卒業できるのよ、ままがそうだったから。らかんちゃんも行きたくなくなったら、ままと映画とか見ていようねっ」
母は制服を採寸する行事の際にそう言って、周りを絶句させた。それから「らかんちゃんかわいい、らかんちゃん制服とっても似合うねえ」とはしゃいで私の写真をたくさん撮ったものだから、体育館はしんとしてしまったっけ。母はそのときクリーム色の狐の毛皮を羽織っていて、濃く深く塗られた真紅の指をひらひらと舞わせながら、「らかんちゃんは世界一綺麗な女の子!」と笑っていて、その時に可愛いなとすこし思った。私でさえこういうふう。母といるとなんだか普通の感覚、常識的な考え方ができなくなってくる気がした。私はやはり中学校でも浮いている。男をたぶらかして生活している、性に奔放な母親を持つ娘として、浮いている。自転車ですれ違うたびに、母よりもすこし上の保護者に見られては話題の種にされるものだから、うんざりした。昔から慣れていることだけど、何かを面と向かって言われるよりも、ちょこちょこと陰でつまらぬことを言われる方が、疲弊するものである。
稲葉とは腐れ縁で同じクラスになってしまった。担任は、ぶよぶよとした狸みたいな中年の男だった。母よりもずっと年上の人。優しいといいな、なんて思った。きちんとした〈大人〉だといいなって。
入学式のとき、稲葉は教室に入るや否や私を見つけ、「おまえも一組なのかよ!」と言ってきたので、腹が立って一発殴った、ら、しくしく泣かれた。すぐ泣くのである。けれども背中をさすってやるとすぐ泣き止むので、私は小学校の頃からこうして小さな暴力を揉み消してきた。
「らかん、部活何に入るか決めた?」
落ち着いた稲葉がそんなことを尋ねた。私は特に思い入れた感情もなく、
「吹奏楽が気になっているんだ。小学校のリコーダーとか、楽しかったし」と答えた。
「おれの姉ちゃんも吹部だった!おれはバスケ部一択だけど!」
稲葉は小さな頃からミニバスケットボールのクラブに入っていたから、そのまま男子バスケットボール部に入部した。一ヶ月後、予想していた通りバスケ部のエンドウリョウタに率いられて歩いていた。ちびで色黒の稲葉は基本的にアホだから、エンドウリョウタにいいように使われていることにも気が付かずに、彼のパシリになっていた。一度、駐輪場で稲葉が服を脱がせられていたのを見た。パンツ一丁の稲葉の貧弱な身体は、女子生徒の視線を受けて、夏だというのにみるみる赤くなっていった。泣きそうになりながらうつむく稲葉を見て、エンドウリョウタは笑いながら、おまえかわいいやつだなと頭を撫でていた。男が集団に入るためには、こんなふうに弱みを曝け出さなければいけないのだ、なんという弱い性なのだろう。稲葉と目が合った。彼は精一杯笑って私に手を振った。私はなんだか胸がぎゅうと締め付けられる気がして怯んだけれど、慌てて振り返した。エンドウリョウタもこちらに気付き、なにか稲葉に話しかけているのが見えた。私のことを話しているのかもしれない。その日は嫌になってそそくさと帰った。
次の日の朝、昇降口で彼に会ったときに「あんたって呆れるほどバカなんだね」と言ったらまた泣きそうになっていた。しかし今回は泣かず、きっ、と唇を結んで私を上目遣いで見た。
「昨日リョウタ先輩が、らかんをめっちゃ可愛いって言っていた」
「ああ、そうなの」
答えると稲葉は明るい調子に戻って言った。
「インスタ交換したいって言っていたから、交換してあげてくれよ」
ぴょんぴょんと飛び跳ねて私の周りをぐるぐると回る稲葉。なんだか兎みたい。私の方がずっと背が高いから、側から見れば滑稽な感じである。私はため息をついた。
「その、ナントカ先輩が聞きにくれば考えたけれどさ」
「そうは言わずにさ。おれの顔のことも考えてくれよな」
「おれの顔も立ててくれ、の間違いでしょう。あんたの顔なんかどうだっていいわよ」わたしが吹き出すと、稲葉も笑った。
結局わたしはエンドウリョウタとSNSを交換する羽目になった。私はインスタグラムをやっていなかったから、稲葉が勝手にLINEを教えたのだった。エンドウリョウタ。確か、あの日の帰り際に稲葉に手を振ったら、隣にいたエンドウリョウタもふざけた調子で振ってきたから、微笑して会釈した覚えがある。稲葉は、らかんのおかげでリョウタ先輩に褒められた!と嬉しそうにしていたので、どうしてだか、まあいいか、と私は思ってしまって、そんな自分にすこし驚いて、また稲葉の頭を殴った。稲葉はもう〈認められた〉から、服を脱がなくていいのだと言った。ばかみたい。ほんとうに、こいつは、こいつらは、ばかみたいだ。
その日からエンドウリョウタとは連絡をとるようになった。そして、そのうちふたりで出かけるようになった。母は少しも気づかなかった。いつものように、らかんちゃん大好きとにこにことしたいた。何にも知らない。大好きという割には、中学校での出来事や友達のことを聞いてこない。私は何も話さなかった。聞かれなければ話さない態度を取った。母は私を叱ったことが一度もない。私の機嫌が悪いと、少しおろおろして、それからしょんぼりと俯く。私はしてやった気持ちにはならない。母の伏せたまつ毛の濃さが、芸術品のような顔が、肉感的なため息が映画のように美しくて、それは私にないものだったから、私はまた苛々として自室に籠らざるを得なくなる。
エンドウリョウタは全身が性的な欲望で覆われているようでおぞましかった。すべての会話がそういうものに直結するので、ある意味感心したほどだった。例えば好きな本の話をすると、それって官能小説なんじゃないの?と返してくる。月経中でお腹が痛いとぼやくと、月経中は胸が大きくなるんだろう、と尋ねてくる。テレビですべての内容を政権批判に繋げるコメンテーターみたいだ。気持ちが悪い、と友人にこぼしたことで(後になって「しまった!」と思ったのだが)その言葉が一気に広まってしまった。分かりきったことだったけれど、相変わらず私の友人は友人ではなかったのであった。エンドウリョウタは激怒した。これがいけなかった。エンドウリョウタは、みんなのエンドウリョウタだからだ。みんなのエンドウリョウタは、付き合っていた女に局部の写真を強要しても、許される。女子をそそのかして私のシューズや制服のリボンを隠させても、許される。謝りたいと言って呼び出して、犯そうとしても許される。その様子を動画にして、インスタグラムで拡散しても許される。悪いのは、私だった。これが独裁国家やら、悪徳の新興宗教というやつだ。エンドウリョウタはこの学校の教祖なのだと、森を駆け抜けながら感じた。
「なんかあったの」
ぜえぜえと息をさせながら家に帰ると、居間には座っている男がいた。この前も見かけた、若い男だ。二十歳くらいだろうか? 金色の短髪で、耳の上を刈り上げて、銀のピアスをしている。私は首を横に振った。この人も、母とセックス しているのだと思うと、気持ちが悪かった。エンドウリョウタと同じように、母を組み敷いているのだと思うと、ああいうふうに女が嫌がったり怖がったりしているのを見て性癖を満たしているのだと思うと、気持ちが悪かった。お母さんはどこですか?と私は尋ねた。彼は視線を落として、
「いまササモトさんと買い出しにいっているから。おれが留守番を頼まれていたんだが、きみが帰ってきたなら帰るよ」
「母はあなたに何か買ってくると思いますけど」
時計だの、香水だの、なんだの。別の男と買い物に行くために、留守番をしてもらった〈ご褒美〉として。けれどもこの男が求めているのは高級腕時計ではないのだ。それは母の裸。なんてグロテスク。私は唇を噛んだ。
「代わりにもらっていいよ」
いるか、そんなもの。「さようなら」と、返事をする代わりに私は言った。「さようなら」とその男も言った。紺色の作業服の背中が少し汚れていた。鳶職人だろうか。時々こういう格好の人も来る。
男は、好きじゃない。エンドウリョウタも稲葉もこの男も、母と買い物に行った「ササモト」も、……それから〈オンダ〉も。古びた扉が閉まる音と同時に、力が抜けた。座り込んでしまった。なぜか涙が出てきた。母に帰ってきてほしかった。ひとりで。いますぐに。
私の話を、少しでもいいから聞いてほしかったのだと思う。
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