第3話 未知と決断
朝靄に包まれた難民キャンプは、まだ眠りの中にあった。
ニルは早くに目を覚まし、テントの外に出た。朝露に濡れた草の香りが鼻をくすぐる。スウィフトワルトの空気は、ロータス王国とは違って魔力を帯びているような気がした。
「もう起きてたのか」
振り返ると、ケインが毛布にくるまって出てきた。軍人の習慣なのか、彼も早起きだった。
「ああ、寝付けなくてな」
実際、ニルは一晩中、これからどうするべきか考え続けていた。王都へ行くことは決めたものの、問題は山積みだった。
彼らが朝食の配給を受けるために列に並んでいると、周囲の会話が耳に入ってきた。
「王都までの乗合馬車は銀貨5枚だってさ」
「高すぎる!そんな金どこにある?」
「でも歩いて行くなんて無理だろ。国境から王都まで百キロ以上あるんだぞ」
ニルはポケットの中を確かめた。命からがら逃げ出した時に持ち出せたのは、わずか銀貨3枚と銅貨少々。二人分の馬車賃には足りない。
「ケイン、お前はどれくらい持ってる?」
「銀貨1枚と銅貨20枚ほどだ」ケインは苦笑した。「軍の給料はまだ支払われていなかったからな」
朝食を受け取り、二人は難民キャンプの情報掲示板の前に立った。そこには様々な告知が貼られていた。
```
【王都アークテイル行き交通手段】
・徒歩:約8日
・乗合馬車:5日、銀貨5枚/人
・魔法馬車:2日、金貨1枚/人
【避難民向け情報】
・臨時居住証の期限を過ぎると国外退去の対象となります
・王立魔法監査局の検査を受けると滞在延長が可能です
・未登録の魔法使用は厳罰の対象となります
```
「魔法馬車?」ニルは目を細めた。
「ロータス王国では見たことがない」ケインも首を傾げた。「金貨か…高すぎるな」
彼らが板を眺めていると、背後から声がかかった。
「興味があるの?魔法馬車に」
振り返ると、20代半ばくらいの女性が立っていた。深緑色のローブを着た彼女は、明らかに現地の人間だった。首から下げた青銀の徽章は、何らかの公的な立場を示しているようだ。
「リンウッド・サントラ。王立魔法監査局の巡回員よ」彼女は微笑みながら自己紹介した。
「あなたが昨日、サラ監査官に見出された…ニルさん、でしょう?」
ニルは身構えた。「はい…それが何か?」
「別に心配することはないわ」リンウッドは手を振った。「あなたのような『特殊な才能』を持つ人を見つけるのは私の仕事の一部。それで王都へ行くつもり?」
「ああ、でも…」ニルはポケットの中の乏しい財産を意識した。
リンウッドは察したように頷いた。「資金が足りないのね。実は案件があるの。あなたの特殊な才能が必要かもしれない」
ケインが一歩前に出た。「どんな案件だ?」
「護衛よ」リンウッドは二人を見比べた。
「あなたは元軍人?それなら都合がいいわ。明日、魔法研究用の素材を王都に運ぶ馬車の護衛を探しているの」
「素材?」
「レッドローズ蘭という植物。珍しい魔力を持つのだけど、残念ながら…強い魔力に反応して爆発することがあるの」
「爆発?」ニルは眉をひそめた。
「そう」リンウッドはニルをじっと見た。「だから魔法感知ができる人が必要なのよ。危険な魔力を事前に察知できれば、蘭を安全に保てる」
ニルとケインは顔を見合わせた。
「報酬は?」ケインが尋ねた。
「王立魔法監査局の公式任務として、王都までの魔法馬車での移動、それに銀貨10枚」
リンウッドは小さなメモを取り出し、何かを書き込んだ。
「明日の午前9時、西門集合。よければこれに署名を」
ニルはペンを受け取りながら、ケインに目配せした。彼は小さく頷き返した。
「任務を受けます」
---
その日の残りの時間、二人は難民キャンプを回り、情報を集めた。スウィフトワルトについて、王都についての噂、ガノン帝国の侵攻状況…しかし、情報は断片的で曖昧なものばかりだった。
午後になると、ニルは許可を得てキャンプの外に出た。スウィフトワルトの国境の町、ウェストゲートは小さいながらも整然とした町だった。建物の屋根や窓枠には魔法の印が刻まれ、夜になると淡く光るという。
町の市場で彼は少ない金で旅の準備をした。水筒、保存食、そして古い地図。
「ニル!」
銅細工の店の前で、ケインが手を振っていた。彼は何か小さなものを手に持っている。
「どうした?」
「これ」ケインは小さな金属の円盤を見せた。「スウィフトワルトの魔力検知器だ。安物だが、強い魔力があると振動するらしい」
「どうして?」
「あのリンウッドが言っていた植物のことが気になってな」ケインは声を落とした。「俺たちは彼女のことを何も知らない。念のためだ」
ニルは頷いた。確かに、突然現れた見知らぬ人物の話を鵜呑みにするには不安があった。
「いくらだった?」
「銅貨15枚。安い買い物さ」
二人は市場を出て、丘の上に登った。そこからは、はるか東の方向にロータス王国との国境が見えた。黒煙は既になく、静かな風景が広がっていた。しかし、その平穏さは偽りのようにも感じられた。
「村を出る時、何か持ち出せたか?」ケインが唐突に尋ねた。
ニルは首を振った。「何も。大切なものは全て失った」
「そうか」ケインは空を見上げた。
「俺も同じだ。部隊も、任務も、すべてを置いてきた」
「後悔しているか?」
「いいや」ケインは静かに笑った。「おかげで生きてる。それだけで十分だ」
「そうか...そうだよな」
夕暮れ時、彼らはキャンプに戻った。炊き出しの列に並びながら、ニルは前方に見慣れた顔を見つけた。小柄な老人が杖を頼りに歩いていた。
「あれは…」ニルは思わず声を上げた。「村の薬師、エルドン老師!」
駆け寄ると、老人は驚いた表情でニルを見上げた。しわだらけの顔に、ゆっくりと笑みが広がる。
「ニル!生きていたのか!」
二人は抱き合い、エルドン先生は目に涙を浮かべた。
「マーサとハーバートは?」
ニルは首を振った。エルドン先生の表情が沈んだ。
「そうか......やはり多くの命が失われたか...」
その夜、三人は同じテントで過ごした。エルドン先生はアスターフィールド村最後の様子を語った。ガノン帝国の軍勢は容赦なく村を焼き払い、抵抗する者は皆殺しにしたという。
「魔法使いが何人もいた」エルドン先生は震える手で湯を飲んだ。
「通常の攻城兵器なら、村の防壁は耐えられたはず。だが、あの黒い炎はすべてを焼き尽くした」
「黒い炎?」ニルは首を傾げた。
「普通の赤い炎では?」
「違う」エルドン先生は断固として言った。「あれは黒魔法だ。通常の魔法とは違う…邪な力だ」
ケインが身を乗り出した。「そんな魔法があるのか?」
「ロータス王国では禁忌とされてきた」エルドン先生は目を閉じた。「生贄を必要とする魔法だ。使うたびに、使い手も少しずつ命を削る」
「なぜそんなものを?」
「力だ」老人は苦々しく言った。「圧倒的な力を得るためなら、彼らは何でもする」
会話は深夜まで続いた。明日の任務についても話し、エルドン先生は懸念を示した。
「その女、リンウッド…信用できるのか?」
「確かめる方法はない」ニルは正直に答えた
「だが、王都に行くには彼女の提案が一番だ」
「そうか」老人は思案顔で頷いた。
「私も王都に行きたいのだが…この足では歩いていけない」
「一緒に来ればいいのでは?」ケインが提案した。「ニルが植物を監視し、俺が護衛、あんたは薬師として植物の扱いを担当する」
エルドン先生は目を丸くした。「そうか...そういう手があったの......」
---
翌朝、西門に着くとリンウッドは既に待っていた。彼女の隣には小さな馬車。通常の荷馬車よりも洗練されたデザインで、車輪の周りには青い光の輪が浮かんでいた。
「おはよう」リンウッドはニルとケインを見て微笑んだ。「準備はできた?んでそちらは?」
「一つ提案がある」ニルは前に出た。「このエルドン先生、アスターフィールド村の薬師だ。彼も植物の扱いに詳しい」
リンウッドはエルドン先生を上から下まで見た。「そう…確かに役立ちそうね」
ケインが手を挙げた。「追加の人員には追加の報酬を」
リンウッドは笑った。「交渉上手ね。いいわ、銀貨15枚にしましょう」
彼女は馬車の後部を開け、中を見せた。木箱が積まれ、その中には赤と紫が混ざったような花が大切に梱包されていた。
「これがレッドローズ蘭」リンウッドは説明した。「魔法研究に不可欠な素材。だけど魔力に敏感で、強い魔力に触れると…」
「爆発する」ニルが言葉を継いだ。
「そう」リンウッドは頷いた。「特に闇の魔力に敏感。だから感知能力のある人が必要なの」
エルドン先生が箱を調べ、物思わしげな表情を浮かべた。しかし、何も言わなかった。
「出発の前に」リンウッドは小さな巻物を取り出した。「これに署名を。正式な魔法監査局の任務契約書よ」
三人は署名し、リンウッドは満足げに巻物を巻き上げた。彼女の指先から青い光が漏れ、巻物は一瞬輝いて消えた。
「さあ、乗りましょう」
魔法馬車の内部は普通の馬車より広く、快適だった。四人が座れる空間があり、窓からは風景が流れていく。馬はいないのに、馬車は滑るように前進し始めた。
「これが魔法馬車か」ケインは窓の外を眺めた。「ロータス王国には無かったな」
「スウィフトワルト独自の技術よ」リンウッドは誇らしげに言った。「距離によって消費する魔力が違うから、一般には高価すぎて普及していないけどね」
馬車は徐々に速度を上げ、やがて通常の馬車の倍以上のスピードで走り始めた。風景が驚くほど速く過ぎ去っていく。
「王都まで2日で着くの?」ニルが尋ねた。
「そう、一晩ウォーク村で休んで、明後日の夕方には着くわ」
車内の会話はしばらく続いたが、やがてリンウッドは前方の操縦席に移動し、三人だけになった。エルドン先生は声を落として話し始めた。
「あの植物、本当にレッドローズ蘭かどうか疑わしい...」
「どういうことだ?」ケインが身を乗り出した。
「色は似ているが、葉の形が違う。それに…」老人は目を細めた。「あれは禁忌の植物、ブラッドムーン・ローズに似ている」
「何に使われる植物だ?」
「黒魔法の素材だ」エルドン先生は厳しい表情になった。「生命力を増幅する効果がある。だが同時に、使い手の命も削る。昔わしの師匠が研究で扱っておったからたまたま知っている。」
ニルは不安になった。「リンウッドを信用できないということか?」
「まだわからん...」エルドン先生は首を振った。「もしかしたら彼女が騙されているだけかもしれん...」
ケインはポケットから昨日買った魔力検知器を取り出した。「これで確かめられるか?」
「試す価値はある」老人は頷いた。
三人は疑念を抱きながらも、これ以上の会話は避けた。景色は次第に変わり、国境地帯の平原から、なだらかな丘陵地帯へと移っていった。
午後になると、馬車はヘイブンクロス村に近づいていた。ニルはふと、奇妙な感覚に襲われた。何かが…近づいている。
「止まれ!」彼は突然叫んだ。
リンウッドは驚いて振り返った。「何?」
「何か…来る!」
彼の言葉が終わる前に、道の前方から黒い霧のようなものが立ち上った。馬車は急停止し、四人は前に投げ出されそうになった。
霧の中から、三人の黒衣の人物が現れた。彼らの手には杖があり、先端が不気味に光っていた。
「ガノン帝国の魔術師…」ケインが剣を抜いた。
リンウッドも立ち上がり、自分の杖を構えた。「どうして国境を越えてきたの?」
黒衣の一人が前に出た。「貴様らが運んでいるものを渡せ」
その瞬間、ニルはまた感覚を感じた。危険が迫っている。彼は咄嗟にケインを押しのけた。
「伏せろ!」
次の瞬間、黒い炎の弾が馬車の側面を直撃した。衝撃で馬車は横転し、四人は路上に投げ出された。
植物の入った箱も地面に落ち、一部が開いて中身が見えた。エルドン先生の目が恐怖で見開かれた。
「やはり!ブラッドムーン・ローズだ!」
リンウッドは地面から立ち上がり、杖を構えた。「みんな、後ろに!」
彼女の杖から青い光が放たれ、ガノン帝国の魔術師たちに向かって飛んでいった。しかし、黒衣の魔術師たちはそれを容易に弾き返した。
「雑魚が」一人が冷笑した。「その花を渡せ。貴重な素材だ」
リンウッドはニルに向かって叫んだ。「箱を守って!彼らに渡してはだめ!」
ニルは箱に駆け寄った。同時に、ケインは剣を手に、魔術師たちに立ち向かおうとした。
「剣で魔法に立ち向かうとは、愚かな」
黒衣の魔術師の一人が杖を振ると、ケインの体が宙に浮かび、数メートル先に投げ飛ばされた。
もう一人がニルに向かって杖を向けた。黒い炎が彼に向かって放たれた。しかし、ニルは再び感覚が働き、間一髪でそれを避けた。
「こいつ、動きが変だ!」魔術師が驚いた声を上げた。
混乱の中、エルドン先生が箱に近づき、何かを取り出した。彼は小さな瓶を開け、花に液体をかけた。
「何をしてるの!」リンウッドが叫んだ。
「これは終わらせる時だ」老人は静かに言った。
液体をかけられた花が突然、強く輝き始めた。ニルは急に強烈な魔力の波動を感じ、本能的に全員に叫んだ。
「逃げろ!爆発する!」
四人は必死に箱から離れた。ガノン帝国の魔術師たちも危険を感じ取ったのか、後退し始めた。
次の瞬間、耳をつんざくような爆発音とともに、箱が光の渦に包まれた。衝撃波が四方に広がり、木々が折れ、地面が揺れた。
爆発の余波が収まると、箱のあった場所には黒いクレーターだけが残っていた。ガノン帝国の魔術師たちの姿はなく、おそらく退却したのだろう。
「何てことを…」リンウッドは震える声で言った。
エルドン先生は静かに立ち上がった。「あれは黒魔法の素材だ。運ばせてはならなかった」
「あなたには分からないわ!」リンウッドは怒りに震えた。「あれは研究に必要だったの!」
「黒魔法の研究か?」ケインが血を拭いながら立ち上がった。「スウィフトワルトも手を染めているのか?」
リンウッドは言葉に詰まった。
「違う…」彼女はついに口を開いた。「あれは解毒剤の研究のために…」
「解毒剤?」エルドン先生は眉をひそめた。
「ガノン帝国の黒魔法による被害者を救うためよ」リンウッドは肩を落とした。「確かに危険な素材。だから公にはできなかった」
三人は顔を見合わせた。真実かどうか、判断は難しい。
「これからどうする?」ニルが尋ねた。
リンウッドは長い間黙っていたが、ようやく決心したように言った。
「任務は失敗したけど…あなたたちのおかげで生き延びた。契約通り、王都まであなたたちを連れていくわ」
彼女は魔法馬車を修復する魔法を唱え始めた。横転した車体がゆっくりと元に戻っていく。
「彼女を信じるのか?」ケインがニルに小声で尋ねた。
ニルは彼女を観察した。リンウッドの表情には疲労と共に、何か深い悲しみのようなものが見えた。
「選択肢はあまりない」彼は答えた。「それに…」
「それに?」
「彼女は嘘をついていない気がする。少なくとも今は」
エルドン先生も静かに頷いた。「老いた目にも、彼女の中に邪悪は見えん。ただ、秘密があるだけだ」
修復された魔法馬車に四人が乗り込む頃には、すでに日が傾き始めていた。今日の出来事で互いへの警戒心はあるものの、ひとまず王都を目指すという目的は同じだった。
馬車が再び動き出すと、ニルは窓の外を見つめた。今日の戦いで、彼の能力が単なる偶然ではないことが明らかになった。魔法の危険を感じ取り、仲間を守る力。それが何を意味するのか、彼にはまだ分からなかった。
だが一つだけ確かなことがあった。王都で、彼の人生は大きく変わるだろう。それが良い方向であることを、彼は祈るしかなかった。
夕暮れの空に、最初の星が瞬き始めていた。
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