第37話 揺れる重心

文化祭まで残り一週間。

 教室は、連日遅くまでの準備で熱気に包まれていた。段ボールや布の切れ端が床に散乱し、絵の具の匂いが鼻をつく。誰もが慌ただしく動き回り、笑い声や指示の声が飛び交う。


 俺――天城悠真も、その光景の中にいた。

 ただし、いつものように隅で見ているわけではない。体育祭での活躍がきっかけで、なぜか俺の周囲には人が集まるようになっていた。

「天城、こっちの配置見てくれない?」

「ポスターの色合い、どう思う?」

「この段取りで間に合うかな」


 矢継ぎ早に飛んでくる声に、俺は曖昧に笑って応じる。答えを出すのは得意だ。気づけば作業の流れを整理して指示している自分がいた。

 だけど――心の奥底では、冷や汗をかいていた。


(……俺なんかに、期待するなよ)


 無能と蔑まれてきた過去が染みついていて、褒められるたびにむしろ居心地が悪い。俺の仮面は、ただ波風立てないためのものだったはずだ。


 ふと視線を上げれば、白雪理央がこちらを見ていた。クラスの中心に立ち、みんなをまとめる姿は誰が見ても堂々としている。けれど、その目が俺に向けられるときだけ、ほんの少し柔らかくなる。

 作業の合間、彼女は近寄って小さく囁いた。

「悠真、無理してない?」

「……大丈夫だよ」

「ほんとかな」


 その目はまるで俺の奥底を覗き込むようで、逃げ場がない。

 ――そうだ。きっと理央には見抜かれている。俺が“仮面”をかぶり、周囲に合わせすぎて自分を殺していることを。


 その瞬間、背中をどんと叩かれた。

「先輩っ! お弁当作ってきました!」

 元気な声に振り向くと、七瀬ひよりが笑顔で弁当箱を差し出していた。

「作業ばっかりで休んでないでください。ちゃんと食べなきゃ倒れちゃいますよ!」


 教室の空気が一瞬だけ和む。

 俺は受け取りながら、自然と笑ってしまった。

「……ありがとう。助かるよ」

「わぁ、今の笑顔、ずるいなぁ。私だけに見せてくださいね?」

 無邪気にそう言われて、胸の奥が温かくなる。


 理央に見抜かれると心がざわめく。

 ひよりに支えられると安心する。

 同じ“優しさ”なのに、どうしてこんなにも違うんだろう。


 視線を移すと、星乃美羽が遠巻きにこちらを見ていた。誰かと談笑しているふりをしながら、時折こちらを伺っている。かつて同じ時間を過ごした彼女。今は距離が生まれて、笑顔の裏に複雑な感情が見え隠れしていた。

 美羽の存在は、俺の心を締めつける。避けたいけど、避けきれない過去がそこにあるから。


 ――理央のまっすぐな眼差し。

 ――ひよりの無邪気な支え。

 ――美羽の揺れる視線。


 それぞれが俺に想いを向けているのを、鈍感な俺でも感じてしまう。

 でも俺は……何を返せばいい?


(俺は……誰を信じればいいんだ)


 胸の奥で問いが繰り返される。

 「選ばれる」なんて考えたことはなかった。俺はただ、地味に、誰にも期待されずに過ごしたかっただけだ。

 けれど今は、俺の方が“選ばなければならない”側に立たされている。


 理央は俺を理解しようとしてくれる。

 ひよりは俺を支えようとしてくれる。

 美羽は過去を引きずりながらも、まだ俺を見ている。


 そのすべてが嬉しくもあり、重くものしかかる。

 気づけば手のひらに汗が滲み、鼓動だけが大きく響いていた。


「悠真ー! こっち手伝って!」

「了解」

 声を返して、俺は仮面を整える。

 文化祭準備の喧騒の中で、俺の心は揺れ続けていた。

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