表舞台への一歩

第9話 再び、日常へ

騒動の翌日。校舎はまるで何もなかったかのように、いつもの喧騒を取り戻していた。


「……あれ、本当に夢だったんじゃない?」


 誰かがそんなことを言っていた。だが、白雪理央だけは忘れられなかった。


(――彼は、あの時、確かに"本気"を隠していた)


 視界の端に映る少年。無表情でノートを取っている、地味で目立たない男子生徒――天城悠真。


 理央の中で、彼の存在だけが明確に色を持っていた。


 教室の空気は微妙に変わっていた。誰も彼を責めたり、褒めたりはしない。ただ静かに、遠巻きに見る。


 だが、本人は何事もなかったかのように黙々と授業を受けていた。


(あれが演技なら、どれだけの時間を費やしたんだろう)


 理央は机に頬杖をつきながら、彼を観察する。


 たまたまの偶然で済ませるには、あの動き、あの判断はあまりに洗練されていた。戦闘ではない。ただの「学内トラブル」への対処――だがその鮮やかさは、理央の心に今も残っている。


 授業が終わった昼休み、彼女は無意識のうちに立ち上がっていた。


 悠真は、弁当を持って教室を出ようとしていた。


「ちょっと」


 声をかけた瞬間、彼の動きが止まった。


 ゆっくりと振り返ると、無表情のまま、彼は尋ねた。


「……何か用ですか?」


「昨日のこと、覚えてる?」


「……さあ。何かありましたか?」


 とぼけている――のではない。本当に「覚えていない」とでも言いたげなほど、彼は淡々としていた。


「君……本当にずっと“無能”を演じてたの?」


 問いかけた理央の声音は、無意識のうちに鋭くなっていた。


 彼は小さくため息をついた。


「演じるって言うほど、そんな大したものじゃありません。ただ……必要がなかっただけです。目立つことも、頑張ることも」


「それで、満足なの?」


 言葉をぶつけたはずの彼女の問いかけに、悠真はほんの少しだけ微笑んだように見えた。


「満足……ですか。そうですね、少なくとも、僕にとっては“安全”です」


 その言葉が、妙に胸に引っかかった。


(――安全? なにから?)


 悠真は会話を切り上げるように軽く頭を下げ、廊下へと消えていった。


 残された理央は、腕を組み、難しい顔をしていた。


(気になる。……あの時の彼の表情が、忘れられない)


 それは、戦っていた時ではない。生徒たちを守るために立ち上がった、その一瞬。


 まるで、何かを背負っているような――そんな目だった。


 教室に戻ると、周囲がヒソヒソと話していた。


「あいつ、昨日の件で何か言われたのかな」


「ていうか白雪さんと喋ってたよね? 何あれ、珍し……」


「まさか、白雪さんもあいつに興味持ったとか?」


 耳障りな囁きが聞こえる。理央は無視して席に戻った。


(……くだらない)


 けれど、確かに、彼は“ただの無能”ではなかった。


 その仮面の裏に何があるのか。彼女はそれを、確かめたいと思い始めていた。


 それが好奇心か、それとも――


 自分自身でもわからなかった。


 ただ一つ、確かなのは。


 白雪理央にとって、天城悠真は「見下す対象」から「気になる存在」へと変わり始めていたということだった。

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