第8話「姉妹の影」
春の陽気が街を包み込み、ルナリア王国の首都は活気に満ちていた。ヴィオレットは王都中央の大図書館で、古い記録を黙々と調べていた。テーブルの上には、孤児院の記録や出生に関する文書が積み上げられていた。
「何か見つかりましたか、お嬢様」レイモンドが小声で尋ねた。彼は図書館員の目を気にしながら、ヴィオレットの横に立っていた。
「まだよ」彼女はため息をついた。「聖マリア孤児院の記録はあるけど、セレストが引き取られた時期の詳しい情報がないの」
「意図的に隠されているのかもしれませんね」
ヴィオレットは古びた帳簿のページをめくりながら言った。「十五年前、確かにセレスト・ブライトウッドという名前の女児がブライトウッド家に引き取られた記録はあるわ。でも、その前の情報がほとんどないの」
「ドラクロワの仕業でしょうか」
「可能性は高いわね」彼女は言った。「彼は痕跡を消そうとしたのでしょう」
その時、図書館の入り口から人々の小さな騒めきが聞こえてきた。振り向くと、白いドレスを着た金髪の少女が、数人の随行者を伴って入ってきたところだった。
「セレスト...」ヴィオレットは思わず呟いた。
セレスト・ブライトウッドは、まさに「聖女」の名にふさわしい優雅さで図書館内を歩いていた。彼女の周りには常に人々の敬意の眼差しが集まる。ヴィオレットとレイモンドは本の陰に身を隠した。
「彼女もここで何かを調べているのかしら」ヴィオレットは小声で言った。
「偶然とは思えませんね」レイモンドは眉をひそめた。「警戒すべきかもしれません」
セレストは古文書部門に向かい、彼女の侍女と給仕が離れた場所で待機するよう指示した。一人になると、彼女はさりげなく周囲を見回し、ある書架に向かった。
「私、近づいてみるわ」ヴィオレットは決心して言った。
「お気をつけて」レイモンドは懸念を隠せない様子だった。
ヴィオレットは静かに立ち上がり、本棚の間を抜けながらセレストに近づいた。彼女は何かの古文書を熱心に調べているようだった。
「興味深い読み物?」ヴィオレットは静かに声をかけた。
セレストはわずかに体を強ばらせたが、振り向いた時には完璧な微笑みを浮かべていた。「ヴィオレット」彼女は普段通りの柔らかな声で言った。「こんな所でお会いするとは」
周りには人がいないことを確認すると、セレストの表情がわずかに変わった。「あなたも調査してるのね」彼女は小声で言った。
「ええ」ヴィオレットは彼女が開いていた本を覗き込んだ。「ルナリア王国の系図...興味深い選択ね」
「私たちの出自について、もっと知りたくて」セレストは真剣な眼差しで言った。「私たちが本当に姉妹なら、証拠がどこかにあるはず」
「私も同じことを考えていたわ」
「何か見つかった?」
「まだよ」ヴィオレットは残念そうに答えた。「孤児院の記録には不自然な欠落があるの」
「私も気づいていたわ」セレストは本をめくりながら言った。「十歳以前の私の記録がほとんどない。まるで...それ以前の私はいなかったかのように」
「ドラクロワが消したのかもしれないわね」
セレストは周囲を警戒しながら言った。「彼は私をブライトウッド家に引き渡す前に、何か...儀式のようなことをしたの。私の記憶はそこから始まるわ」
「記憶操作ね」ヴィオレットは理解した。
「でも時々、断片的な記憶が蘇るの」セレストは目を伏せた。「子供の頃の歌、二人の少女...そして、あなたの顔」
「私も同じよ」ヴィオレットは彼女の手に触れた。「特に夢の中で」
二人は小声で会話を続けながら、本棚の陰で情報を交換した。セレストは「赤き月」の内部情報を少しずつ明かした。
「ドラクロワは月光舞踏会に向けて、儀式の準備を急いでいるわ」彼女は言った。「彼の屋敷の地下室には、儀式のための部屋が用意されているの」
「何のための儀式なの?」
「時間を支配するため」セレストは真剣な表情で答えた。「彼は過去を変え、未来を支配しようとしている。そのために私たち双子の力が必要なのよ」
「どうやって?」
「私の胸元の聖印...これは『太陽の羽飾り』と呼ばれるものの一部なの」セレストは胸元から聖印を取り出した。「そして、あなたの月環。この二つが一つになると...時間の扉が開くと言われているわ」
ヴィオレットは月環を見つめた。「彼は私を生かしておくつもりはない」
「そう」セレストは悲しげに頷いた。「彼はあなたの力を奪い、私を『時間の女王』にするつもりよ」
「あなたはそれを望んでいるの?」
セレストは沈黙した後、静かに答えた。「かつては...そう思っていた。『赤き月』の教えに従い、新たな世界を創造するという使命が与えられた時、私はそれを神聖な役目だと信じていたの」
「でも、今は?」
「今は...分からない」彼女は正直に言った。「あなたに会って、私の中で何かが変わり始めた。でも、彼らから完全に自由になることは難しい」
セレストは自分の袖をめくり、腕を見せた。そこには赤い月の紋章が刻まれていた。「これは単なる刺青ではなく、魔術的な刻印よ。彼らは常に私の居場所を知っている」
「取り除けないの?」
「通常の方法では無理ね」彼女は袖を下ろした。「だからこそ、私は情報を探しているの。この束縛から逃れる方法を」
その時、セレストの侍女が声をかけてきた。「お嬢様、お時間です」
セレストはすぐに「聖女」の仮面を取り戻した。「ありがとう、もうすぐ行くわ」
彼女はヴィオレットに小声で言った。「あなたも気をつけて。ドラクロワはあなたを排除しようとしているから」
「分かったわ」ヴィオレットは頷いた。「でも、私たちは一緒に彼を倒すわ」
セレストは微かに微笑み、書架の間から去っていった。彼女の純白のドレスは、図書館の薄暗い空間で光のように輝いていた。
セレストが去った後、レイモンドがヴィオレットに近づいてきた。「何か有益な情報は?」
「ええ」ヴィオレットは頷いた。「セレストも自分の出自について調べているわ。彼女自身も『赤き月』から自由になりたいと思い始めている」
「それは良い兆候ですね」
「でも、彼女の体には魔術的な刻印があるの」ヴィオレットは懸念を示した。「その刻印がある限り、彼女は完全に自由にはなれない」
「そのことについて調べる必要がありますね」レイモンドは思案顔で言った。「守護者の文書の中に、そのような刻印を解除する方法が記されているかもしれません」
ヴィオレットは深く考え込んだ。「図書館の中央記録室に行ってみましょう。そこには出生記録の原本があるはず」
彼らは中央記録室へと向かった。この部屋は通常、一般の閲覧者には開放されていないが、レイモンドは守護者の身分証を示し、彼らを通してもらった。
記録室は膨大な文書で埋め尽くされていた。ルナリア王国の建国以来の記録が、整然と分類され保管されている。
「十五年前の出生記録...」ヴィオレットは棚を探った。
彼らは何時間も記録を調べ続けた。夕方近くになり、ようやく何かを見つけた。
「これかもしれない」ヴィオレットは古い羊皮紙の文書を広げた。
それはアシュフォード家の出生記録だった。十五年前、エレノア・アシュフォードが双子の女児を出産したという記録。一人はヴィオレット。もう一人の名前は消されていた。
「この記録が改ざんされているわ」ヴィオレットは気づいた。「名前の部分が消されて、別の文字が書かれていたようだけど、それも薄くなっている」
レイモンドは羊皮紙を光に透かして見た。「特殊な魔術を使えば、元の文字を復元できるかもしれません」
「試してみて」
レイモンドはポケットから小さな瓶を取り出し、液体を数滴、文書に垂らした。そして静かに呪文のような言葉を唱えると、消された文字がおぼろげに浮かび上がり始めた。
「セ...レス...ティア」ヴィオレットは浮かび上がった文字を読んだ。
「セレスティア・アシュフォード」レイモンドが言った。「セレスト・ブライトウッドの本名ですね」
「これが証拠よ」ヴィオレットは感動した。「私たちは本当に姉妹だったのね」
レイモンドはさらに文書を調べた。「ここに記載されている出生場所は...アシュフォード家の別荘、月見の館です」
「月見の館?」
「あなたの家族が所有していた山間の別荘です」レイモンドは説明した。「あなたたちはそこで生まれました。しかし、その館は十五年前に火事で焼失しました」
「火事...」ヴィオレットは考え込んだ。「母が亡くなったのも火事だったわ」
「それは偶然ではないでしょう」レイモンドは真剣な表情で言った。「恐らく『赤き月』の仕業です。彼らはセレスティアを奪い、証拠を隠滅するために火を放ったのでしょう」
ヴィオレットはさらに記録を調べた。そこには父ヴィクター・アシュフォードの署名と、もう一つ見慣れない署名があった。
「この署名は誰の?」
レイモンドは眉をひそめた。「ドラクロワ宰相のものです。彼が双子の出生証明書に署名しているとは...」
「これはどういう意味なの?」
「分かりません」レイモンドは慎重に言った。「もしかすると、彼はあなたたちの出生時から関わっていたのかもしれません。あるいは、後で記録を改ざんする際に署名したのかもしれません」
彼らはさらに記録を探し、幼児期の健康診断の記録を見つけた。そこにはヴィオレットとセレスティアの名前があり、二人とも「特別な才能あり」と記されていた。担当医師の名前は判読しづらかったが、「月影の守護者」を示す小さな紋章が記されていた。
「守護者たちもあなたたちのことを知っていたのですね」レイモンドは言った。
「でも、なぜ妹を救えなかったの?」ヴィオレットは苦々しく尋ねた。
「当時の詳細は分かりませんが」レイモンドは慎重に言った。「恐らく、『赤き月』の襲撃は突然だったのでしょう。そして...あなたの父が内部協力者だったとすれば...」
「父が妹を引き渡したと?」ヴィオレットの声が震えた。
「可能性はあります」レイモンドは静かに言った。「彼が『赤き月』に転じた時期と、セレスティアの失踪時期が一致するからです」
ヴィオレットはこの事実に胸が痛んだ。自分の父が妹を敵に引き渡したという真実。そして母はそれを阻止しようとして命を落としたのだ。
「私たちの運命はここから分かれたのね」彼女は静かに言った。
「しかし、今、再び交わろうとしています」レイモンドは彼女を励ました。
記録をさらに調べると、彼らは別の興味深い文書を発見した。ブライトウッド家の養子縁組に関する記録だった。
「十年前、ブライトウッド伯爵夫妻がセレスト・ブライトウッドという名の少女を正式に養子に迎えた」ヴィオレットは記録を読み上げた。「彼女は聖マリア孤児院から引き取られた...」
「しかし、聖マリア孤児院にセレストが入所した記録はありませんでした」レイモンドが言った。
「そう、これは偽装よ」ヴィオレットは理解した。「『赤き月』はセレスティアを五年間、どこかで秘密裏に育てた後、聖マリア孤児院を通じてブライトウッド家に引き渡したのね」
「その五年間、彼女は何らかの『準備』をされていたのでしょう」レイモンドは暗い表情で言った。「恐らく、記憶操作や洗脳...」
ヴィオレットは苦々しい思いで言った。「彼らは妹から全てを奪ったのね。記憶も、名前も、アイデンティティも」
夕暮れが近づき、図書館の閉館時間が迫っていた。彼らは重要な文書を密かに複写し、元の場所に戻した。
「これらの証拠は安全な場所に保管しましょう」レイモンドは言った。「ドラクロワがこれらの記録を見つけたら、すぐに破棄するでしょう」
夜の街を馬車で移動する間、ヴィオレットは黙って窓の外を見つめていた。雨が降り始め、街灯に照らされた水滴が窓ガラスを伝い落ちていく。
「セレストに真実を伝えるべきかしら」彼女は最後に口を開いた。
「危険があります」レイモンドは警告した。「彼女の中には『赤き月』の洗脳が残っています。真実を伝えることで、彼女の内面で葛藤が生じ、予測不能な反応が起きるかもしれません」
「でも、彼女には知る権利があるわ」
「慎重に進めましょう」レイモンドは提案した。「まずは少しずつ、彼女自身が思い出すのを助けるように」
ヴィオレットは頷いた。「理解したわ」
馬車がアシュフォード邸に到着すると、フレデリックが玄関で待っていた。彼の表情は緊張していた。
「何かあったの?」ヴィオレットは馬車から降りながら尋ねた。
「守護者たちからの緊急連絡だ」フレデリックは静かに言った。「セレストの侍女の一人が死体で見つかった」
「何ですって?」ヴィオレットは驚愕した。
「彼女はセレストの親しい侍女だったらしい」フレデリックが続けた。「そして、彼女もまた『赤き月』の一員だった。しかし、何者かによって殺された」
「ドラクロワの仕業?」
「それが...」フレデリックは躊躇した。「守護者たちの調査によれば、彼女を殺したのはセレスト自身かもしれないという」
ヴィオレットは言葉を失った。
「彼女の部屋から、あなたに宛てた手紙が見つかった」フレデリックは小さな封筒を取り出した。「侍女はそれを持ち出そうとしていたようだ」
ヴィオレットは震える手で封筒を受け取り、中の手紙を広げた。
「親愛なる姉さんへ」手紙は始まっていた。「私が真実を知ったとしても、驚かないでください。私たちが姉妹であることは、私の心が常に感じていたことです。『赤き月』の束縛から逃れる方法が見つかったかもしれません。慈善舞踏会の夜、あなたに全てをお話しします。それまで誰にも信頼しないで。ドラクロワの目と耳は至る所にあります。あなたの妹より」
「この手紙を持ち出そうとした侍女を、セレストが...」レイモンドは呟いた。
「いや、違う」ヴィオレットは首を振った。「彼女は自分を守ろうとしただけよ。侍女は手紙を見つけ、ドラクロワに報告しようとしたのね」
「それは確かにあり得る」フレデリックは同意した。
「つまり、セレストは既に『赤き月』に対して行動を起こし始めているのね」ヴィオレットは考え込んだ。「彼女は実際に反乱を計画しているのかもしれない」
「だとすれば、彼女は大きな危険にさらされています」レイモンドが言った。「ドラクロワは彼女の行動に気づけば、すぐに措置を取るでしょう」
「慈善舞踏会まであと二日」フレデリックが言った。「それまでセレストが無事でいられるか...」
「私たちからも連絡を取る必要があるわ」ヴィオレットは決心した。「彼女を一人にはさせない」
彼らは邸宅の書斎に入り、対策を練った。セレストが彼女に渡した小さな銀の鈴を使って連絡を取ることにした。
夜更けになり、ヴィオレットは寝室に戻った。彼女は調べた文書の複写を見直し、出生証明書をじっと見つめた。自分とセレスティアが同時に生まれたという動かぬ証拠。それは彼女のアイデンティティに新たな層を加えた。彼女は単なるヴィオレット・アシュフォードではなく、双子の姉として、妹を守る責任も持っていたのだ。
彼女は窓辺に立ち、雨の向こうにかすかに見える月を見上げた。
「セレスティア...」彼女は静かに言った。「今度は私があなたを守るわ」
そして、彼女は小さな銀の鈴を手に取り、静かに鳴らした。鈴の音は不思議な響きを持ち、空気中に漂いながら消えていった。
それは彼女からセレストへの約束。彼女は一人ではないという確かなメッセージだった。
その夜、ヴィオレットは双子の少女が手を繋いで歌う夢を見た。今回はより鮮明に、二人の顔がはっきりと見えた。まさしく幼いヴィオレットとセレスティア。その上空には、赤い月が不気味に輝いていた。
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