第4話「聖女との再会」
朝靄が立ち込める早朝、ヴィオレットは宮廷近くの小さな教会の前に立っていた。セレスト・ブライトウッドが毎朝、祈りを捧げに来るという情報をフレデリックから得ていたのだ。
雨上がりの石畳は湿り気を帯び、靴音が静かに響く。ヴィオレットは深緑のドレスに身を包み、教会の扉を押し開けた。中は静謐な空気に包まれ、数人の信者が祈りを捧げている。そして祭壇の前には、純白のドレスを身にまとった金髪の少女の姿があった。
セレスト・ブライトウッド。「聖女」と称えられる彼女は、朝日を受けて輝くステンドグラスの下で祈りを捧げていた。その姿はまさに天使のようだ。
ヴィオレットは静かに彼女に近づいた。足音に気づいたのか、セレストはゆっくりと振り向いた。
「まあ、ヴィオレットさん」彼女は微笑んだ。「こんな早朝に、意外なお客様ですわね」
「おはよう、セレスト」ヴィオレットは穏やかに応じた。「あなたが毎朝ここに来ると聞いて、お会いしたいと思って」
「私のことをお調べになったのですね」セレストは少し首を傾げた。「好奇心旺盛なお方ですこと」
「あなたに興味があるの」ヴィオレットは正直に答えた。「社交界デビューしたばかりの私には、あなたのような模範的な存在は大切だから」
セレストは微笑み、祭壇の脇にある小さなベンチに移動した。「ご一緒にいかがですか?」
ヴィオレットは彼女の隣に腰かけた。朝の光が二人を照らし、その類似した横顔を浮かび上がらせる。
「初めて会った時から感じていましたけれど」セレストが口を開いた。「私たち、本当によく似ていますわね」
「ええ」ヴィオレットは試すように言った。「まるで姉妹のよう」
セレストの表情に一瞬、何かが閃いたように見えた。だが、すぐに穏やかな微笑みに戻る。
「素敵な考えですわ。姉妹だなんて」彼女は静かに言った。「私は孤児ですから、血のつながった家族を持ったことがありません」
「孤児...」ヴィオレットは慎重に言葉を選んだ。「それは辛い経験だったでしょう」
「神の導きがありました」セレストは目を閉じ、胸に手を当てた。「私を見いだし、育ててくださった方々の善意と、何より神の愛に恵まれました」
「あなたを育てたのは?」
「聖マリア孤児院の修道女たちです」セレストは答えた。「その後、ブライトウッド伯爵家が私を引き取ってくださいました。彼らには子供ができなかったのです」
ヴィオレットは注意深く彼女の表情を観察した。「いつ頃ですか?」
「十歳の時です」セレストは静かに答えた。「それまでの記憶は...あまりはっきりしていないのです」
十歳。ヴィオレットの母が亡くなり、双子の姉妹が「失われた」と言われる時期と一致する。偶然だろうか。
「なぜそんなことをお聞きになるのですか?」セレストの声が彼女の思考を中断させた。
「単なる好奇心よ」ヴィオレットは軽く答えた。「あなたのことをもっと知りたいの」
セレストはヴィオレットをじっと見つめた。彼女の青い瞳の奥には、何か測り知れないものが潜んでいるように見えた。
「あなたも、私に興味を持ってくださる数少ない方の一人ですわ」セレストは言った。「多くの人は『聖女』という称号に惹かれるだけ。本当の私を見ようとはしません」
「本当のあなた...」ヴィオレットは彼女の言葉に引っかかりを感じた。「それはどんな人なの?」
セレストは一瞬だけ沈黙し、そして微笑んだ。「さあ、それは私自身も探している答えかもしれません」
彼女は立ち上がり、祭壇の方へ歩み寄った。「もうすぐ朝の祈りの儀式が始まります。ご一緒になりますか?」
「ええ、喜んで」ヴィオレットは答えた。
二人は並んで跪き、祈りを捧げる姿勢をとった。ヴィオレットは目を閉じ、耳を澄ませた。セレストの囁くような祈りの言葉が聞こえてくる。
「聖なる光よ、我らを照らし、導きたまえ...」
通常の祈りの言葉に続いて、彼女はさらに小さな声で何かを付け加えた。
「...赤き月の下に、約束の時来たらん...」
ヴィオレットは目を開けずにそれを聞き逃さなかった。「赤き月」—守護者たちが警戒する組織の名だ。セレストは確かに彼らと繋がりがある。
祈りが終わると、セレストは胸元に下げていた聖印を取り出した。それは月と太陽が重なったような形の銀の聖印で、彼女がそれに口づけると、一瞬だけ赤黒く光ったように見えた。
ヴィオレットだけがその光を目撃した。他の信者たちは気づいていない様子だ。彼女は動揺を悟られないよう、平静を装った。
「美しい聖印ね」ヴィオレットは言った。
「ありがとう」セレストは聖印を再び服の中にしまった。「生まれた時から持っていた唯一のものなの」
「生まれた時から?」
「そう」彼女の目に懐かしさが浮かんだ。「これだけが、私の出自を示す唯一の手がかり」
ヴィオレットの心臓が早鐘を打った。もしセレストが本当に彼女の双子の姉妹なら、その聖印は重要な証拠になるかもしれない。
「今度、詳しく見せてくれないかしら」
「もちろん」セレストは微笑んだ。「次にお会いする時に」
教会を出る頃には、街はすっかり朝の活気に包まれていた。二人は並んで歩きながら、様々な話題について語り合った。表面上は、友好的な会話だ。
「ところで」セレストが唐突に話題を変えた。「ヴィオレットさんは王太子に会われましたか?」
その質問は何気ないように聞こえたが、ヴィオレットは底意を感じ取った。前世では、王太子との婚約が彼女とセレストの対立の中心だった。
「まだよ」ヴィオレットは慎重に答えた。「これからの社交行事で、自然とご挨拶する機会があるでしょう」
「王太子様はとても素晴らしい方です」セレストは言った。「賢明で、国のことを真剣に考えておられる」
「あなたは親しいのね」
「ええ、慈善事業でご一緒することが多いのです」彼女の頬が僅かに紅潮した。「実は...私たちの婚約が近く発表されるという噂もあるのです」
ヴィオレットは心を落ち着かせるよう努めた。前世では、彼女自身が王太子との婚約を勝ち取り、それがセレストの嫉妬を買った。しかし今回は違う。彼女の目的は単なる社会的地位ではない。
「おめでとう」彼女は微笑んだ。「あなたならふさわしいわ」
セレストは驚いたように彼女を見た。「まあ、そう言ってくださるとは...多くの女性は私に嫉妬するものですから」
「私はあなたのライバルではないわ」ヴィオレットは言った。「むしろ、友人になれたらと思っているの」
セレストの表情に困惑が浮かんだ。彼女はそのような反応を予期していなかったようだ。
「光栄です」彼女はようやく答えた。「私も同じ気持ちですわ」
二人は王宮近くの広場に辿り着いた。そこでセレストは足を止めた。
「私はこれから宮廷に参ります。ドラクロワ宰相との約束があるの」
「ドラクロワ宰相...」ヴィオレットはその名を聞いて身構えた。
「ええ、彼は私の後見人の一人なの」セレストは説明した。「孤児だった私を社交界に紹介してくれた恩人です」
ヴィオレットは納得した。ドラクロワがセレストを利用しているのは明らかだ。しかし、彼女自身はどこまでそれを理解しているのだろうか。
「今度、お茶でもご一緒しませんか?」ヴィオレットは提案した。「私の邸宅で」
「喜んで」セレストは答えた。「明後日はいかがですか?」
「完璧よ」
「では、その時に」セレストはお辞儀をして別れを告げた。
ヴィオレットは彼女の後ろ姿を見送りながら、複雑な思いに駆られた。セレストは彼女の姉妹なのか。そして彼女は本当に純粋な「聖女」なのか、それとも「赤き月」に操られた駒なのか。
帰り道、ヴィオレットはセレストとの会話を思い返していた。彼女の言動には矛盾がある。表向きは純粋で聖女らしい振る舞いをするが、時折見せる別の側面。赤く光る聖印。「赤き月」への言及。
「彼女は本当に純粋なのか...?」ヴィオレットは呟いた。
邸宅に戻ると、レイモンドが玄関で待っていた。
「お嬢様、ご帰還を」彼は深々と頭を下げた。「フレデリック様がお見えになっています」
「フレデリック?」
「はい、重要な情報があるとのことです」
ヴィオレットは急いで応接室へ向かった。フレデリックは窓際に立ち、彼女の到着を待っていた。
「フレデリック、何があったの?」
「ヴィオレット」彼は彼女の手を取った。「セレストとは会えたかい?」
「ええ、教会で」ヴィオレットは彼に会話の内容を詳しく説明した。聖印の赤い光、「赤き月」への言及、そして彼女の孤児としての経歴。
フレデリックは真剣な表情で聞き入った。「やはり...彼女は間違いなく『赤き月』と繋がっている」
「でも、彼女自身がどこまで真実を知っているのか分からないわ」ヴィオレットは言った。「彼女の目には...混乱があるように見えた」
「守護者たちが集めた情報では」フレデリックは声を落とした。「セレストは確かに孤児院で育った。しかし、その前の記憶は消されている可能性がある」
「記憶を消す?」
「『赤き月』は古来より、様々な秘術を用いてきた」フレデリックは説明した。「記憶操作もその一つだ」
「彼女が記憶を取り戻せば...」
「分からない」フレデリックは首を振った。「彼女は長年、『赤き月』の教えの下で育てられてきた。簡単に彼らの影響から抜け出せるとは思えない」
ヴィオレットは深いため息をついた。「彼女を救えるかしら」
「君はセレストを救いたいと思うの?」フレデリックは驚いたように尋ねた。「前世では彼女は君を破滅させたんだろう?」
「でも、もし彼女が本当に私の姉妹なら...」ヴィオレットは言葉を選んだ。「私は彼女を見捨てることはできないわ。それに、彼女もまた『赤き月』の犠牲者かもしれない」
フレデリックは彼女をじっと見つめ、そして微笑んだ。「君は前世とは違う道を歩んでいるね。それが君の選択なら、私も支持するよ」
「ありがとう」ヴィオレットは彼の手を握り返した。「でも、油断はしないわ。セレストがどこまで信頼できるか、まだ分からないから」
「そうだな」フレデリックは頷いた。「ところで、別の情報もある。王太子が三日後に開催される宮廷舞踏会に出席する。君も招待状を受け取るはずだ」
「舞踏会...」
前世では、この舞踏会で彼女は王太子の目に留まり、二人の関係が始まった。今回はどうすべきか。
「私は王太子との婚約を目指すべきなの?それともセレストに任せるべき?」ヴィオレットは自問した。
「それは君次第だ」フレデリックは静かに言った。「だが、一つだけ忠告するなら...王太子は重要な位置にいる。『赤き月』の手に落ちれば、王国全体が危険に晒される」
「つまり、セレストを通じて彼らが王太子を操ろうとしているということ?」
「その可能性は高い」フレデリックは頷いた。「特にドラクロワ宰相が彼女の後見人だというなら」
ヴィオレットは決意を固めた。「分かったわ。舞踏会で王太子に接近する。でも今回は、前世のような打算的な動機ではなく、彼と王国を守るために」
フレデリックの表情に、一瞬だけ痛みのようなものが浮かんだ。だが、すぐに消えた。
「守護者として、それが正しい判断だ」彼は静かに言った。
二人の会話は、レイモンドがお茶を運んでくることで中断された。
「お二人とも、どうぞ」レイモンドはお茶を注いだ。「それから、これが先ほど届きました」
彼は銀のトレイに載せられた封筒を差し出した。宮廷からの公式招待状だ。
「やはり来たか」フレデリックは言った。
ヴィオレットは招待状を開き、その内容を確認した。三日後の舞踏会への招待。この時が、彼女の計画の第一歩となるだろう。
「準備をしないと」ヴィオレットは言った。「舞踏会では目立たなければ」
「君なら心配ないさ」フレデリックは微笑んだ。「君の美しさがあれば、自然と注目を集めるだろう」
ヴィオレットは照れて目を伏せた。前世では、彼のような誠実な賛辞に値する人間ではなかった。
「セレストはどうするの?」フレデリックは尋ねた。
「彼女とは明後日、お茶を共にする約束をしたわ」ヴィオレットは答えた。「できるだけ彼女について、そして彼女の『赤き月』との繋がりについて探る」
「危険だぞ」彼は警告した。「彼女が『赤き月』に報告したら」
「大丈夫、私は慎重に行動するわ」ヴィオレットは彼を安心させた。「それに、彼女が本当に私の姉妹なら...何か感じるはずよ」
フレデリックはため息をついた。「君の勘を信じるよ」
彼が帰った後、ヴィオレットは自室の窓辺に立ち、遠くに見える王宮を眺めた。太陽が沈み始め、空が赤く染まる。前世では彼女は王宮に入り、そして最後には窓から身を投げることになった。今回はそうはならない。
「今度は私が、運命を書き換える」
彼女は月環を見つめた。指輪は静かに光を放っている。「最初の機会、残り二度」という言葉は、彼女に重い責任を感じさせた。二度しかチャンスがないのだ。
その夜、ヴィオレットは再び奇妙な夢を見た。月明かりの下、彼女は幼い頃の自分が遊んでいる姿を見ていた。そして隣には、もう一人の少女。顔はぼやけているが、彼女と瓜二つだ。
二人は手を繋ぎ、ある歌を歌っていた。
「月の光、星の瞬き、二人は一つ、永遠に...」
突然、暗闇から赤い光が現れ、もう一人の少女が引き離されていく。
「姉さん!助けて!」
幼いヴィオレットが叫ぶ。「セレスト!セレスト!」
ヴィオレットは目を覚ました。冷や汗で体が濡れている。「セレスト...」彼女は震える声で呟いた。
彼女は確信した。セレストが彼女の姉妹であり、「赤き月」によって彼女から引き離されたのだと。だが、なぜ彼女とセレストだけが生き残り、両親は亡くなったのか。そして、「赤き月」は彼女たちの血筋に何を求めているのか。
「明後日、彼女に会えば、もっと分かるかもしれない...」
窓から差し込む月明かりに照らされ、ヴィオレットは再び眠りについた。しかし今度は、静かな決意を胸に抱いて。
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