第3話「仮面の下の真実」

社交界デビューから一週間が過ぎた。ヴィオレットは自室の書斎で、細かな文字で書かれた手紙に目を通していた。彼女の戦略は着実に成果を上げつつあった。前世での過ちを繰り返さないよう、彼女は慎重に人間関係を築き、情報を集めていた。


「お嬢様、お茶をお持ちしました」


レイモンドが銀のトレイに載せた紅茶セットを運んできた。完璧な姿勢と物腰は、一流の執事の証だった。


「ありがとう、レイモンド」


彼女は手紙から目を離さず、茶を一口すすった。


「プリンセス・グレイですね。私の好みをよく覚えているわ」


「お嬢様の好みを知ることは、私の務めです」レイモンドは微笑んだ。


ヴィオレットは彼をじっと見つめた。レイモンド・シャドウ。彼がいつからアシュフォード家に仕えているのか、前世では特に気にしたことがなかった。しかし今、彼の存在が気になり始めていた。


「レイモンド、あなたはいつから私たちの家に仕えているの?」


彼は一瞬だけ動きを止めた。「お嬢様が十歳の時からです。お父上の依頼で」


「十歳...母が亡くなった年ね」


「はい、大変な喪失でした」


彼の表情に変化はなかったが、ヴィオレットは何か隠されたものを感じた。


「不思議ね。父はあの頃、借金に苦しんでいたはず。一流の執事を雇う余裕があったとは思えないわ」


レイモンドは茶器を整えながら静かに答えた。「時に、価値あるものには対価が必要です。しかし、それは必ずしも金銭とは限りません」


謎めいた返答に、ヴィオレットの疑念は深まるばかりだった。


「あなた、本当は誰なの?」彼女は直球で尋ねた。


「ただの執事です、お嬢様」レイモンドは穏やかに答えた。だが彼の瞳の奥に、何か閃くものがあるように見えた。


その時、ヴィオレットは彼の胸元に光るものに気がついた。黒い服の襟元から、わずかに覗く銀の紋章。月の形をしたそれは、彼女の指輪と不思議にも似ていた。


「その紋章は?」


レイモンドは無意識に手で紋章を隠した。「これは...」


「隠さないで」ヴィオレットは立ち上がり、彼に近づいた。「あなたは何か知っているでしょう。私の指輪について。そして...セレストとの類似性について」


レイモンドの表情が変わった。初めて、彼の完璧な執事の仮面にヒビが入ったように見えた。


「お嬢様...」彼は一度深く息を吐いた。「確かに、私はただの執事ではありません」


彼は紋章を取り出し、手のひらに載せた。月の形をした銀の紋章は、僅かに青白い光を放っていた。


「これは『月影の守護者』の証です。古来より月の加護を受けた者たちを守り、導く秘密結社です」


ヴィオレットは息を呑んだ。「月の加護...時間を遡る力と関係があるの?」


レイモンドは驚いた表情を見せた。「時間を...遡る?」


彼の反応から、彼はその能力について知らないようだった。あるいは、知っているふりをしているのかもしれない。いずれにせよ、ヴィオレットは自分の切り札をすべて明かす気はなかった。


「私の母から譲り受けた指輪よ」彼女は月環を見せた。「不思議な力を持っているのではないかと思って」


レイモンドは指輪をじっと見つめた。「それは...『時間の月環』。守護者の伝説に登場する聖遺物です」


「聖遺物?」


「月光に愛された者のみが使えるという伝説の品です」彼は畏敬の念を込めて答えた。「まさかそれが本当にお嬢様の手元にあるとは...」


ヴィオレットは彼の話に耳を傾けながらも、その真偽を慎重に判断していた。しかし、この「守護者」なる存在が、彼女の過去と未来の鍵を握っていることは確かなようだった。


「レイモンド、あなたは私に何を隠している?」


「お嬢様、私が隠しているのではありません」彼は真摯な表情で答えた。「真実はあなた自身の中にあります。ただ、それを思い出させる時が来ていなかっただけです」


「何を言っているの?」


「あなたには守るべき運命があります」レイモンドは片膝をつき、頭を垂れた。「そして私は、その運命を守り導くために、ここにいるのです」


突然の忠誠の誓いに、ヴィオレットは何と答えていいか分からなかった。


「立って、レイモンド」彼女はやっと言葉を絞り出した。「私はこの目で見たの。未来を。そこで私は破滅する。セレストという女性に裏切られ、すべてを失うの」


「セレスト...」レイモンドの目に理解の色が浮かんだ。「彼女もまた、重要な役割を担っています」


「彼女は敵よ」ヴィオレットは断言した。


「敵か味方か...それは選択次第かもしれません」レイモンドは立ち上がった。「お嬢様、今夜、あなたに見せたいものがあります。準備ができたらお呼びください」


レイモンドが退室した後、ヴィオレットは混乱した思いを整理しようとした。月影の守護者。時間の月環。彼女の運命。そしてセレスト。すべてが繋がっているようで、まだその全体像は見えない。


夜になり、ヴィオレットはレイモンドに導かれて邸宅の地下へと向かった。彼女は前世でこの場所の存在すら知らなかった。父も決して語ることのなかった隠し通路だ。


「ここは代々のアシュフォード家当主だけが知る秘密の間です」レイモンドは古い松明を手に、彼女を先導した。「あなたの父は...最後まで真実を告げることができませんでした」


彼らが辿り着いたのは、石造りの丸い部屋だった。壁には月と星の紋章が彫り込まれ、中央には石の台座がある。


「ここは...?」


「月影の守護者の聖域です」レイモンドは静かに答えた。「あなたの先祖もまた、守護者の一人でした」


彼が石の台座に手をかざすと、そこから青白い光が放たれた。部屋全体が月明かりのような柔らかな光に満たされる。


「守護者たちは代々、月の加護を受けた王家の血筋を守ってきました」レイモンドは説明を続けた。「それは時に表立った力として、時に影からの守護として」


「王家の血筋...?」ヴィオレットは息を呑んだ。「それが私と関係あるというの?」


「アシュフォード家は没落したとされていますが、実はその血筋はルナリア王国の創設者に遡ります」レイモンドは壁に彫られた家系図を指さした。「あなたの母は、その正統な後継者だったのです」


壁に刻まれた複雑な家系図。ヴィオレットは自分の名前を探した。そして驚いたことに、彼女の横には消された名前があった。


「これは...?」


「双子として生まれた子供の名前です」レイモンドは静かに答えた。「あなたにはかつて、姉妹がいました」


ヴィオレットの頭に、セレストの顔が浮かんだ。あの類似性は偶然ではなかったのか。


「死んだの?」


「いいえ」レイモンドは深刻な表情で言った。「失われたのです。あなたが幼い頃、王国の動乱の中で」


ヴィオレットの心臓が早鐘を打った。「まさか...セレストが...?」


「それはまだ確かめられていません」レイモンドは慎重に言葉を選んだ。「しかし、可能性はあります」


彼はポケットから古い羊皮紙を取り出した。それは赤い月の紋章が押された手紙だった。


「これは『赤き月』と呼ばれる、我々とは敵対する組織からの通信です。彼らもまた、月の力を狙っていますが、彼らはそれを支配するため。彼らは王家の血筋を利用しようとしています」


「セレストが操られているというの?」


「彼女自身も自分のアイデンティティを知らないかもしれません」レイモンドは答えた。「あるいは、知っていても、彼らの思想に染まっているのかもしれない」


ヴィオレットは壁の家系図をもう一度見つめた。もし本当にセレストが彼女の姉妹なら...それは全てを変える。前世での敵意は新たな意味を持つ。


「証拠はあるの?」


「決定的なものはありません」レイモンドはため息をついた。「しかし、ある人物ならより多くを知っているかもしれません」


「誰?」


「あなたの幼馴染。フレデリック・ハーウッド伯爵です」レイモンドは言った。「彼もまた、守護者の一員です」


「フレデリック?」ヴィオレットは驚いた。「あの穏やかで優しい人が?」


「外面は違えど、彼は有能な守護者です」レイモンドは微笑んだ。「彼はあなたを守るため、常に近くにいました」


急に多くの情報が明らかになり、ヴィオレットは頭が混乱した。自分の出自、守護者の存在、そしてセレストとの可能性のある血縁関係。これらは前世では知り得なかった真実だった。


「レイモンド、あなたは私に忠誠を誓ったわね」


「はい、お嬢様」


「それなら約束して。私を助けて。私は未来を変えるわ。そして真実を突き止める」


レイモンドは微笑み、再び深々と頭を下げた。「私の命と力の全てを、あなたにお捧げします、ヴィオレット様」


翌日、ヴィオレットはフレデリックとの会談を設けた。彼の屋敷は都市の西側、閑静な高級住宅街にあった。レイモンドに案内され、彼女は長らく会っていなかった幼馴染と対面した。


「ヴィオレット!」フレデリックは彼女を見るなり、満面の笑みを浮かべた。「社交界デビューおめでとう。評判は聞いているよ。みんなが君の美しさと知性に驚いているらしい」


「ありがとう、フレデリック」彼女は微笑み返した。


彼は以前と変わらず、穏やかで誠実な青年だった。茶色の髪と優しい瞳、洗練された物腰。前世では彼女の心の支えとなった数少ない人物の一人だ。


「かなり長いこと会っていなかったね」フレデリックは彼女を応接室へと案内した。


「ええ、父が借金を重ねてから、なかなか外出も...」


「心配しないで」彼は彼女の手を取った。「今は違う。これからは君の時代だよ」


応接室には誰もおらず、彼らは向かい合って座った。ヴィオレットは何から話し始めるべきか考えていた時、フレデリックが先に口を開いた。


「レイモンドから聞いた」彼は声を落とした。「君が真実を知り始めていることを」


ヴィオレットは驚いた。「あなたも本当に守護者なの?」


フレデリックは静かに頷き、上着の襟から月の紋章を見せた。「代々、ハーウッド家は守護者の中心的存在だった。私の父も、祖父も」


「それで私に近づいていたの?任務として?」その考えが彼女を悲しませた。


「最初はそうだった」彼は正直に認めた。「だが、すぐに変わった。君は特別だ、ヴィオレット。任務を超えた存在だ」


彼の真摯な眼差しに、ヴィオレットは心を打たれた。前世でも、彼だけは彼女を裏切らなかった。最後まで彼女を信じてくれた。


「フレデリック、あなたは私の姉妹について何か知っている?」


彼の表情が暗くなった。「噂としては聞いている。しかし確証はない」


「セレスト・ブライトウッドが私の姉妹かもしれないという可能性は?」


「否定はできないが...」彼は慎重に言葉を選んだ。「彼女は『赤き月』の影響下にある。孤児院から引き取られ、聖女として育てられた。しかし彼女の背後にはドラクロワ宰相の影がある」


「ドラクロワ?」前世で彼女を破滅させた宰相の名に、ヴィオレットは身震いした。


「彼は表向き国王の忠実な補佐役だが、実は『赤き月』の首魁と噂されている」フレデリックの声は厳しくなった。「彼は王家の血を操り、何らかの儀式を計画していると思われる」


「儀式?」


「詳細は不明だ。だが、それには月の加護を受けた者の力が必要なようだ」


ヴィオレットは考え込んだ。これが前世での彼女の破滅の背景にあったのだろうか。彼女はセレストによって罠にはめられたが、その背後にはドラクロワの計画があった。


「フレデリック、私を助けてくれる?」


「何があっても」彼は躊躇なく答えた。


「私たちは情報が必要よ」ヴィオレットは決意を固めた。「セレストについて、ドラクロワについて、そして『赤き月』の計画について」


「危険な道だ」フレデリックは警告した。「特にドラクロワに関しては。彼は権力者で、多くの目と耳を持っている」


「でも、やるしかないわ」彼女は静かに言った。「私は未来を見たの。このままでは、私は破滅する。そして恐らく、セレストも...」


フレデリックは彼女をじっと見つめた。「未来を見た?」


ヴィオレットは一瞬迷ったが、彼を信頼することにした。彼女は月環について、そして時間を遡った経験について話した。彼の表情は驚きから畏敬へと変わった。


「時間の月環...それは伝説だと思っていた」


「でも本物よ」ヴィオレットは言った。「そして私は、その力を使って未来を変えるつもり」


「君は本当に驚くべき人だ」フレデリックは彼女の手を取った。「私は君を守り、その使命を全うするために力を尽くそう」


彼の目には決意と共に、別の感情も浮かんでいるようだった。前世でもヴィオレットは、彼が自分に特別な感情を持っていることに気づいていた。だが、野心に目が眩んでいた彼女は、それに応えることはなかった。


今、再び彼と向き合い、彼女は心の中で誓った。今度は違う。彼女は自分の周りの人々、自分を本当に大切にしてくれる人々を守るために戦う。そして、セレストとの真実も突き止めねばならない。


「一緒に戦いましょう、フレデリック」彼女は静かに言った。


彼は微笑み、彼女の手にそっと口づけた。「あなたの側に、永遠に」


窓から差し込む夕日が二人を照らす中、新たな同盟が結ばれた。月影の守護者の命を懸けた戦いが、今始まろうとしていた。

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