狭間スパイラル

秋犬

誰でもよかったはずなのに

 終電なくなっちゃいました、と沙月さつきが言うと「じゃあウチ来る?」と蓮人れんとが囁いた。かねてより気になっていた職場の先輩の蓮人に言い寄られたことで、沙月は心の中で拳を握りしめる。


(よし、このままイケメン旦那ゲットしてやる!)


 新卒で入った会社で、沙月は仕事を覚えることより結婚相手を作ることを考えていた。てっとりばやく誰かとくっついて、そしてなし崩しに妊娠して責任を取らせて産休育休に入るというありきたりな未来を思い描いて行動してきた甲斐があった。


 OJTの相手の蓮人は涼やかな目元の素敵な男性であったが、彼女がいるという話を聞かなかった。そして今夜、納涼会と称した若手が集まる飲み会で沙月は本気を出した。さりげなく蓮人の隣に座り続け、三次会まで顔を出した。他の連中はどうでもよかった。蓮人と二人きりになれば、後は沙月の思い描くままになるはずだった。


 筋書きはこうだ。蓮人の部屋に入ったら、酔って暑いという名目で服を脱ぐ。慌てる蓮人に「先輩になら、抱かれてもいいですよ」としなだれかかる。後は蓮人の自制心がどこまで働くか次第だった。この日のために常に下着にも脱毛にも力を入れている。誰のためでもない、自分のための努力だ。夏のせいばかりではない、と沙月はそっと蓮人と距離を縮めて歩いた。


「ウチ、散らかってるけど気にしないで」


 蓮人の住んでいるマンションについて、沙月はさりげなく彼女がいないかチェックをする。


(思ったより広い部屋。女の影は……なさそうね)


 蓮人は散らかっていると言ったが、2DKの居間はとてもキレイに片付いていた。大きなテレビの前に大きなソファがあって、ここで蓮人がひとりくつろいでいるのかと思うと沙月は相手が射程距離に入ったと心の中で小躍りした。


「なんか飲む?」


 居間のソファに座っている沙月に、蓮人が冷蔵庫を開けて尋ねる。


「え、そんな結構です」

「そういうわけには……ごめん、今飲み物切らしてるわ。ちょっとそこまで買ってくるね」


 そう言うと、蓮人は沙月の返事も聞かずに部屋を飛び出していってしまった。


「……まあ、いいよね。私のために出かけてくれたんだから」


 沙月は蓮人に悪く思われていないことを知って、更にほくそ笑む。どんな飲み物を買ってきたとしても、その後蓮人と行為に及ぼうと沙月があれこれ考えていると、思いのほか早く玄関のドアが開く音がした。さっそく蓮人が帰ってきたと思った沙月は、急いで玄関まで向かった。


「遅かったじゃないですか! ……って、誰?」


 玄関にいたのは、蓮人ではなかった。蓮人より長身で、浅黒い肌の男がスーツ姿で立っていた。


「……とりあえず、中入ってもいいですか? ここ俺の家なんで」


 沙月は全ての計画が崩れたことと、蓮人が何を思って自分を家に呼んだのかがわからなくて呆然とするしかなかった。


***


 それから10分後、コンビニの袋に缶ビールや酎ハイをいくつも詰めた蓮人が帰ってきた。


「ただいま-、って、何で遼河りょうが帰ってきてんの!? 帰ってくるの明日だって言ってたじゃん!」


 居間で居たたまれない様子で座っている沙月と遼河を前に、蓮人は多少の焦りを見せたものの「じゃあみんなで一緒に飲もうか」などと気軽な様子を見せた。


「研修が向こうの都合で一日早く終わったから、早く帰りたくて終電で帰ってきたんだよ」

「じゃあ連絡くらいしてくれてもよかったのに」

「なんで自分の家に帰るのにわざわざ連絡するんだよアホが」


 蓮人の不在時に、沙月は遼河からある程度の事情を聞いていた。それによると、この部屋は蓮人と遼河が二人で住んでいて、二人の関係は昔のバイト仲間ということらしかった。それ以上のことを遼河は話さず、スーツ姿のまま何故か苛立ちを隠す様子はなかった。


 それから沙月を置き去りにして、ヘラヘラしている蓮人と怒りが滲んだ遼河の間で言い争いが始まった。


「だってさ、終電なくなったって言うんだから可哀想でしょ、泊めてあげないと」

「時間管理なんか出来ない奴はその辺に捨て置けって、この前は言ってただろ」

「でも女の子じゃん!? 可哀想だろ」


 蓮人が沙月を指さすと、遼河が忌々しそうに言い返す。


「女ならタクシーにでも突っ込んどけよ、この下心丸出し野郎が」

「でもさあ、俺だってたまには女の子欲しいじゃん!?」


 蓮人のあけすけな物言いに、沙月の背筋に冷たいものが走った。


「欲しいじゃん、って言われてもなあ、そういうのは外でやってきてくれよって言ってるじゃないか!」

「じゃあ俺が今から出て行こうか?」


 そう言って蓮人が目を細めると、遼河は黙り込んでしまった。それからじっと蓮人を見つめた後、壁に頭をつけて「畜生」と何度も呟き始めた。


「じゃあ馬鹿な遼河君は放っておいて、俺たちは仲良くしよっか?」


 ようやく蓮人が自分のことを思い出してくれたので、沙月はびくりと身体を震わせた。


「で、でも、あの、遼河さんのことは……」

「いいのいいの。そういうの込みで付き合ってるんだから、このくらい許して貰わないと」


 ひとり呑気な蓮人の呟きを、遼河は聞き逃さなかった。


「誰が許すって言った!?」

「俺が、心の広い遼河君なら許すと思うって思ってるだけ」

「じゃあ誰も許してないだろ!!」

「はあー、やだね。男のジェラシーはみっともないぞ?」

「そういう問題じゃない!!」


 沙月は当初、この二人はただの同居人だと思っていた。しかし、二人の会話から同居人以上の関係であることが察せられて仕方がない。怒っている遼河を前に涼しい顔をしている蓮人に、沙月は改めて尋ねてみることにした。


「あ、あの……お二人の、関係って、その……」

「ん? ああ、一応カレシって奴かもね。大丈夫、俺は女の子も好きだから」


 蓮人は意味ありげに目を細めて、沙月の肩を抱いた。それまで優しい先輩だとしか思えなかった蓮人が、急に得体の知れない猛獣か何かのように沙月には感じられた。


「ごめんねえ、見苦しいところ見せちゃって。でもねえ、遼河君が俺のこと大好きなのはもう揺るぎない事実だからそこんところは諦めてしっかり戦ってね。俺は俺のことを好きになってくれる人が好きだから」


 この場から逃げたい、と沙月は思った。しかし蓮人の手はしっかり沙月の肩を掴まえていた。


「君、俺とセックスしたいんでしょ? だから酔ったフリして三次会まで着いてきて、わざわざ終電がどうのこうのなんて言ったんでしょ? てゆーか、日頃から俺のこと性的に見てたでしょ?」


 図星をつかれて、沙月は頭の中を殴られたように感じた。最初から蓮人は沙月がカマをかけてくると思って、家まで片付けて準備をしていたことに沙月は気がついた。


「君の終電が本当のところ何時か知らないけど、今日はそこんところじっくり聞きたいからさ。教えてよ、ホラ」


 蓮人は袋から缶チューハイを取り出すと、沙月の頬に押し当てた。


「こんなのじゃ酔えないってなら、もっといい酒あげるからいろいろ教えてほしいな。できればお酒に頼らないで、君自身のことを教えてもらえると俺としては嬉しいんだけどなあ」


 そう言って蓮人は缶ビールの栓を開けて、一口呷った。そして項垂れて床に座り込んでいる遼河の元へ、蓮人は缶ビールを転がす。


「はい。遼河君も飲んで、元気だそう?」

「ふざけんなよ、こんなの飲めるか!」


 転がされた缶ビールを手に、遼河が蓮人に当たり散らす。


「今すぐ一滴も零さないで全部飲んでくれたら、俺は嬉しいけどな」


 蓮人が遼河に向けて、目を細めた。挑発にしか聞こえない言葉に沙月が慄いていると、即座に遼河は缶ビールのプルタブを開けて吹き出すビールを口の中に押し込もうとした。しかし全てを受け止められるわけもなく、ビールは遼河のスーツにも床にも盛大に降り注ぐことになった。


「あーあ……何をやってもダメな遼河君、じゃあ俺はこの子と寝るから」

「待って、今キレイに、えぷ」


 ビールまみれになりながら、それでもまだ缶ビールを飲み干そうとしている遼河を見て蓮人はニヤニヤ笑っていた。


「じゃあ沙月ちゃん、お望み通り抱いてあげるよ。ちょっと変なのが脇にいるけど、気にしないよね?」

「あの、私、シャワーとか……」

「俺はそういうの気にしないから大丈夫。だって君、俺のこと好きなんだよね?」


 そう言うと、蓮人は一気に沙月をソファに押し倒した。


「俺男だからさあ、女がどうやって男のこと好きになるのかめっちゃ興味あるんだよね、教えてくれない? 俺のどこが好き?」


 沙月は普段の蓮人を思い出した。周囲と当たり障りなく接して、柔らかい笑顔が印象的な、どちらかというと目立たない隠れイケメンだとばかり思っていた。


「せ、先輩は……私に優しい、ところが好きです」

「そっかあ、じゃあ優しくしてあげようか?」


 蓮人は有無を言わさず、沙月の唇を奪った。本能的な恐怖の前に凍り付いていた沙月の身体は、蓮人の口づけで一気に弛緩したように感じた。


「沙月ちゃんね、可愛いよ。俺も好き。だって沙月ちゃん、俺のこと見てないから」


 沙月は何か言い返そうとしたが、蓮人の醸し出す空気に飲まれて言葉が口から出てこなかった。


「沙月ちゃん、面白い子だよね。自分では自分のこと可愛いって思ってるけど、世の中にはもっと可愛い子たくさんいるよ。大学生のとき狭いオタクサークルの中でちやほやされて勘違いしちゃったかな? 俺はそういう子大好きだよ」


 蓮人に柔らかく罵倒されながら、沙月は今までにない高揚を感じた。蓮人の目を覗き込むと、まだ服を着ているはずなのに丸裸で情けない自分が映っているようだった。どこまでも透き通っているような目に、沙月はどんどん引き込まれて行った。


「そんなに肩肘張らないでも、沙月ちゃんは沙月ちゃんのままでいいんだよ。俺はどんな沙月ちゃんでも、ちゃんと可愛がってあげるから大丈夫。だから一応聞くけどさ」


 蓮人は酒缶がまだ入っているコンビニの袋から、四角いものを取り出した。


「切らしちゃっててさあ、こりゃ男として恥ずかしいわって急いで買ってきたんだ。使う?」


 少し濡れたコンドームの箱を見せつけられて、沙月は咄嗟に首を縦に振れなかった。蓮人とセックスしようという気持ちはあったけれど、少しも蓮人のことを考えていなかった自分が情けなくてそのまま行為を続けようという気持ちになれなかった。


「で、でも……」


 沙月が躊躇したのを見て、蓮人は半泣きでビールの後処理をしている遼河にコンドームの箱を投げつけた。


「じゃあいいや、沙月ちゃん帰って」

「え?」

「俺、俺のこと愛してくれない女はどうでもいいんだ。遼河、しよーぜ」


 もう蓮人は沙月のほうを見ていなかった。先ほどまで沙月に熱っぽく向けていた視線は、びしょ濡れのスーツを脱いで床に半裸で這いつくばっている男に向かっている。


「い、いいの!?」

「ビールくせーから、その前にシャワー浴びてきな」


 そう言って、蓮人は立ち上がると遼河に近づいた。


「でも、その女の子は……」

「なんかいいや、イジり甲斐がなさそうだし」

「そうやって人をモノ扱いするところがお前の悪いところだって言ってるだろ!」

「モノ扱いされて喜ぶ奴に言われても困らないけどなー」


 ソファに置き去りにされた沙月は、どうすればいいか必死に考えた。このまま帰ろうかとも思ったが、先ほど蓮人に心を覗き込まれた時の高揚感の正体を知りたかった。そして、何故これほどまでに遼河という男が蓮人を慕っているのかも知りたくなった。


「あ、あの!」


 沙月はソファに座り直して、蓮人に声をかけた。


「なに、まだいたの?」

「私、先輩のことよくわかってなかったです。だから好きとか嫌いとか、そういうのもわからないでセックスするのはよくないって言いたい先輩の気持ちもわかりました」


 今まで浮ついた気持ちで蓮人をただの男その1として見ていた自分が恥ずかしかった。そこで、沙月はもっと蓮人個人のことを知らなければいけないと思った。


「だから、私これからお二人がするところ、見ていていいですか?」


 それが今の自分にできる禊ぎだと沙月は思った。大声で呆れた声を出した遼河と対照的に、蓮人はいい笑顔になった。


「いいよもちろん。じゃあ俺もシャワー浴びてこようかな」


 上機嫌の蓮人は濡れている遼河に抱きつき、沙月に見せつけるように遼河とキスをする。その姿を見て、沙月の心は決まってしまった。


 ――この人にどうにかして振り向いてもらいたい。


「あの、沙月さん、この人はダメだ、引き返すならっ」


 息継ぎの間に遼河が絞り出すような声を出すが、沙月の耳には届かなかった。ただ無邪気に遼河にしがみつく蓮人に認められたくて仕方がなかった。


「あーあー、そんなこと言うと今日はちゃんとしないよ?」


 たっぷり遼河の唇を貪った後、蓮人は思い出したように沙月を見た。


「あ、床はそのままでいいからね。気を利かせて拭いておこうとかしなくていいから」


 そう言うと、蓮人は遼河を引っ立ててシャワールームへと姿を消した。後にはビールで湿ったフローリングの床と、そこに落ちている未開封のコンドームの箱が残された。沙月は壁に掛かっている時計を見た。まだ日付が変わるかどうかという時刻であった。


 これから長い夜になりそうだ、と沙月はソファに座り直した。


〈了〉

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