唄われる者たちへ

横浜 べこ

第1話

暗闇の中、僕はただひたすら咀嚼を繰り返す。

口内で繊維を細かく千切り、波打つように舌を動かして、それを喉へと押し込む。


昔は大嫌いだったはずのこの肉。けれど今は、これを食べなければ、もうどうにもならない。

飢えも寒さも、胸の苦しみも。この時間だけは、すべて忘れられる気がする。


気がつけば石床に置かれていた肉のかけらは残っておらず、ただ赤黒いシミが広がっていた。

名残惜しさに耐えかねて、僕は床に唇を這わせる。舌に触れたのは、もう温もりすら残っていない、鉄の味。──それでも、止められなかった。


その様子を見ていた父様が、深いため息を漏らしながら呟く。


「ああ……やはり、低俗な魔力を持つ者では効果が薄いか」


枯れ枝のように痩せ細った僕の腕を持ち上げ、父様はその甲をやさしく撫でた。


「お前こそが、我が龍人族の選ばれし英雄なのだ。私が、必ず……必ずそうしてみせる」


何度も、何度も聞かされた言葉だった。


──世の混沌が訪れるとき、龍人族より“選ばれし者”が現れ、乱世を鎮める英雄となる。


兄さんはそれを“妄言”だと笑い、家を出ていった。

あれから、もうどれほどの年月が過ぎただろう。


……元気に、しているかな。


目を閉じると、まぶたの裏に浮かぶ懐かしい情景。

春の陽気と、ハッカ草の透き通るような匂いを運ぶ風。すべてが満ち足りていた、あの野原を駆ける時間。


もう届かない、遠く遠く過ぎ去った記憶を見つめながら、僕はお腹を抱えて丸くなる。

胃を締めつけるような空腹を紛らわすために、兄さんとよく歌ったあの歌を、口ずさんだ。



まばゆくひかる あかみどきいろ

せいれいそろい こうべをたれる

はねをひろげて またたけそらへ

みちびきのせを われらにたくし



ああ......兄さんは今、

どんな空の下にいるのだろう。

もう一度だけでいい。貴方に、会いたい。



思わず目を細めてしまうほどの濃い青が、風に引き延ばされた白い雲に覆われ、やがて爽やかな淡い水色へと変わってゆく。


空には、春が満ちていた。


街道の両脇に広がる草原が風に揺れるたび、甘い花と瑞々しい土の香りが鼻をくすぐる。

車輪が石畳を刻むリズムと相まって、心地よい眠気が襲ってきた。


そんな陽気に当てられて機嫌が良くなった俺は、あくび混じりに懐かしい歌を口ずさんでいた。


「みーちびーきのせーを わーれらにたーくし──」


「……団長、なに急に。下手すぎて景色が泣いてるけど?」


「はぁ!? ノートン、お前には俺の美声がわからんのか!」


淡い桃色の唇からため息を吐くノートン。

女と見紛うほど整った顔立ちだが、れっきとした男だ。

藍色の髪を風になびかせつつ、毒舌だけは忘れない。


「……耳、腐ってるんじゃない?」


「おい、ノートン。言い過ぎだぞ」


ヘルガが斧の柄を馬車の床に叩きつけた。

鈍い音と振動に驚いた馬が、身をのけぞらせる。


「おおっと、どうどう……皆さん、楽しく会話するのは結構ですが、この子を驚かせないように」


ダルムが穏やかに諭すと、ヘルガは巨体をすぼめて項垂れた。


「す、すまない……」


するとノートンが彼女の肩に手を置き、いたずらっ子のような顔で言う。


「まったくヘルガは、団長のこととなるとすぐ赤くなる」


「う、うるさい!」


振り返りざまに放たれた拳が風を裂く。

棍棒でも振るったかのような重い音だったが、ノートンは軽くかわして苦笑いを浮かべた。


「死んじゃうってば」


「お前ら、じゃれ合いはその辺にしとけ。どうせこの後、取っ組み合いになるのがオチだろ」


ここが馴染みの酒場なら椅子が二、三脚壊れるくらいで済むが、今は馬車の上だ。

移動手段を壊されたら敵わない。


「……はい」


しぶしぶ返事をするヘルガを横目に、ノートンは楽しげな笑みを浮かべた。

それを目線でたしなめながら、俺は静かに息を吐く。


「では、出発しますよ」


ダルムがそう言って手綱を引くと、馬車が再び動き出す。


「ところで、さっきレイバスが歌っていた歌……あれは、聖歌か何かですか?」


黒い坊主頭を揺らしながら、ダルムが尋ねる。


「いや。母親が子守唄代わりによく歌ってたのを、ふと口ずさんだだけだ。それに、俺たちの一族は宗教とは無縁だったしな。たぶん違う」


「ほう……魔色相環の三原色や、精霊に関する語も含まれていたので、てっきり」


顎鬚を撫でながら、ダルムはしみじみと呟く。


「聖職者時代にいろいろな歌を聴きましたが、あれは初耳でして。それで気になりましてね」


「隊長の歌声が下手すぎて、判別できなかっただけじゃない?」


足を組み直して笑うノートンに、ヘルガが軽く小突く。


「お前はそうやって、すぐ茶化す。悪い癖だぞ」


「も〜アリシアは本当、細かいなあ……」


大げさに泣き真似をするノートンを見て、彼女のこめかみがぴくりと動いた。

ああ、また始まりそうだ。


「喧嘩はダメですよ」


間に入るようにダルムが口を開き、なだめるような笑みを浮かべた。

そして話題を変えるように、声のトーンを少し落とす。


「しかし……ザイン殿から下された今回の依頼。報酬が“王国騎士団への加入”とは、些か破格すぎますよね」


「別にいいじゃん。騎士になれれば、根無草の傭兵ともオサラバなんだから」


ノートンが両手を上げ、「ばんざーい」と軽く笑う。


「……依頼の内容が報酬に見合っていない。たかが山賊の討伐で、騎士団入りは異常だ」


ヘルガが腕を組み、遠くの地平を睨むように見つめた。


重くなりかけた空気を和らげようと、俺は声の調子を少し上げる。


「まぁ、確かに裏があるかもしれん。でも、今までの働きを評価されたって可能性もある。

それに──罠だったとしても、俺たちならどうにかできるだろ」


無言の笑みが、仲間たちの口元に浮かぶ。


そう。仮にザインの依頼が俺たちを嵌める罠だったとしても、別にかまわない。

そんな修羅場は、もう酒のツマミにできるほどにはくぐってきた。


「……我々も、ザイン殿の命で多くの汚れ仕事を請け負ってきましたからね。

飛びつきたくなる報酬で口封じ──なんてことも、無いとは言いきれません」


「でもさ、あいつが僕らを“子飼いの傭兵団”にしてから、もう一年になるけど。

未払いは一度もないし、作戦の情報提供も的確。信頼してもいいんじゃない?」


俺は空を仰ぎながら、額にかかった前髪をかき上げた。


言われてみれば、もうそんなに経ったか。

ザインの側近──バグゥという男が俺たちに声をかけ、契約を交わした、あの日から。


「私はあの男、苦手だな。物腰は丁寧だけど、目の奥に──何か、嫌な光がある」


ヘルガの言葉は抽象的だったが、どこか核心を突いていた。俺は静かに頷く。


たしかに、ザインは常に紳士的だ。だが時折、獣じみた眼差しを覗かせるときがある。


最初は報酬の良さに釣られて──単発の依頼を一つずつ、黙々とこなしていただけだった。

だが気づけば、ザインのお抱え傭兵団として名を連ね、危険な仕事も請けるように。


傭兵としては、良いパトロンを得た。

そう言ってしまえば、それまでの話。


だが──今回の依頼が成功し、正式に“騎士”としてあの男の下に仕えることになるのなら、話は別だ。


そのときは、奴の腹の内を、きっちり見極める必要がある。


なにせザインは、コネも血筋もない身から出発して、王国軍事魔法の最高責任者にまで上り詰めた男だ。

魑魅魍魎の巣窟たる王都で這い上がったなら──腹の中に毒蛇の一匹や二匹、飼っていて当然だろう。


……それが、俺たちの手に余るようなら──そのときは、きっぱり引く。

逃げて、別の土地でまたやり直せばいい。それだけのことだ。


そう思いながら、腕をぐっと真上に伸ばして背骨を鳴らす。


「まぁ、考えても仕方ない。今は、この道中の景色でも楽しむとしようか」


「賛成〜」


ノートンがヘルガの膝を枕に、ごろんと寝転がった。


「おいこら」


彼の頭を引きはがそうとヘルガが腕を伸ばすが、ノートンは「いいじゃん別に〜」とじゃらけながら笑う。


……なんだかんだで、こいつらは仲がいい。

まるで、年の離れた姉妹を見ている気分だ。


その様子にふと笑みがこぼれ、俺は目を閉じた。

揺れる馬車のリズムに身を預けながら、遠い記憶を呼び起こす。


──ジルフィス。元気にしているか。


俺が家を出てから、ずいぶん時間が経った。

きっと苦労もかけただろう。すまないと思う気持ちと、それでも大丈夫だろうという甘い期待が、胸の奥でせめぎ合う。


あいつは俺なんかより、よほどしっかりしてた。

家族とも上手くやっていたし、もしかしたら、今では父に代わって一族の長になっているかもしれない。


……いつかまた、縁が巡れば。

兄弟揃って、あの頃みたいに、他愛もない話でもできたらいい。


一緒に駆けた野原の記憶が、今見えている草原に重なる。

俺はしばし、春の匂いとともに、甘い思い出の中に浸った。



目的の街に着く頃には、夕陽が地平線へと沈みかけていた。

城門の前で待っていたのは、見慣れた男。


「遅いぞ、お前たち」


黒髪を整髪剤で後ろへ撫でつけ、眼鏡の奥に神経質そうな光を宿す──ザインの側近、バグゥだ。


「すまん。これでも急いできたんだが」


俺が声をかけると、彼はあからさまに苛立ちを見せた。


「もういい。領主には挨拶を済ませておいた。今晩中にでも依頼を片付けてほしい、との仰せだ」


「今晩中? えらく急ぎだなぁ」


ノートンが頬杖をつき、眉をひそめながら文句をこぼす。


「昨夜もまた、街から行方不明者が出たそうだ。山賊による人攫いが続いており、領主も心を痛めている。

それに、諜報員の報告では、奴らがアジトの移動を画策している可能性もあるとのことだ」


「……なるほど。それで急ぎ対応が必要になったわけか」


バグゥは無言で頷く。

──仕方ない。さっさと片付けて、酒でも飲もう。

無事に依頼を終えたら今後の事も、仲間たちと腹を割って話さないとな。


「なら、準備が整い次第アジトに向かう。それでいいな」


「ああ。宿屋は確保してある。案内人がいるから、そいつに聞け。私は、少し残った用事を片付けてくる」


そう言って背を向けるバグゥを、俺は呼び止めた。


「……なあ。お前がわざわざ現場まで出張ってくるなんて珍しい。今日は、どういう風の吹き回しだ?」


バグゥはほんの一瞬だけ間を置き、静かに答えた。


「……今回の賊どもは、街の警備兵ですら歯が立たない強者だ。いくらお前たちでも、万全を期すべきだと判断した。それに──

これは“騎士団入り”の最終試験も兼ねている。……見定めさせてもらう」


その言葉は、淀みなく滑らかだった。まるで、あらかじめ用意されていた台詞をなぞっているかのように。


どこか釈然としない胸の引っ掛かりを覚えつつ、俺たちは横に立っていた案内人の後ろについて宿屋へ向かった。



各自が個室で身支度を整えていると、扉がノックされる。


「どうぞ」


声をかけると、ダルムが顔をのぞかせた。


「作戦前に、少し腹ごしらえでもしませんか。厨房、今なら借りられそうなので」


その言葉に、俺の胃がぐぅと鳴る。

道中は乾いた携帯食ばかりで物足りなかった。そこへダルムの手料理とくれば──断る理由などない。


「準備ができたら、一階の食堂までお越しください」


「ああ、すぐ行く」


荷を手早くまとめて階下へ降りると、すでにヘルガとノートンがテーブルに着いていた。

ノートンが手を振りながら笑う。


「シチュー作ってるってさ」


俺が座ろうとする椅子を引きながら、いたずらっぽく微笑む。


「おお、ダルムのシチューか。それは楽しみだな」


「正直、あのまま突入してたら空腹で力が出ないところでしたよ」


そう言って、ヘルガが水の入ったコップを差し出す。


「ありがとう」


一言礼を添え、水を一口飲み下す。

その冷たさが、旅の疲れを静かに身体へ染み込ませた。


とはいえ、これから命のやりとりが控えている。

気を抜きすぎないよう、体を軽くほぐす程度で抑える。


そんな折、ふわりと香ばしい香りが背後から漂ってきた。

鼻を喜ばすその匂いに、思わず深く息を吸い込む。


「お待たせしました。出来ましたよ」


笑顔のダルムが、大鍋から一人分ずつシチューをよそう。

春野菜がふんだんに使われた皿は、彩りだけで目を楽しませてくれた。


「いただきます」


スプーンですくい、そっと口へ運ぶ。


野菜とミルクの甘み、そして調味料で引き出された旨味が舌の上で溶け合い、思わず息が漏れた。


──このゴツい手で、どうしてこんな繊細な味が生まれるのか。

それは、ダルム最大の謎のひとつだ。


「俺、結婚するならダルムくらい料理の上手い女の子がいいな」


「はは、恐縮です」


俺の軽口に、ダルムが笑顔で返す。


「ね、ねぇダルム。あとでこのレシピ、教えて……」


ヘルガがダルムの耳元で何かをそっと囁く。

聞き取れず首をかしげていると、ノートンが腹を抱えて笑い出した。


「おい、ノートン。今の聞こえたのか? 何て言ってた?」


「いや〜、それは秘密かな。……まぁ、おいおい分かるかもよ?」


口元を押さえながら、なおも楽しげに笑うノートン。

ダルムは困ったように微笑み、ヘルガは褐色の肌を赤らめて視線を逸らす。


俺だけが妙な疎外感を覚えて顔をしかめるが──まぁいい。

そう思い直して、再び食事に向き直った。


「それで、レイバス。今夜の作戦はどう進めます?」


ダルムが指を鳴らすと、即座に防音結界が張られる。

俺たちの会話が、他の宿泊客に漏れることはない。


あらかじめ渡されていた地図を広げ、作戦を練り始める。


「バグゥの情報によれば、山賊どもはこの街から少し離れた山中にアジトを構えているらしい。

総勢は十二、三。個々の戦闘能力も高いそうだが──なにより厄介なのは、巧妙に隠された迎撃用の魔法陣だ。警備兵が倒された原因も、そこにある」


「なるほど。なら、私とノートンの出番が多くなりそうですね」


「魔力探知って、地味に疲れるんだよなぁ……」


スプーンを口にくわえ、ゆらゆら揺らすノートン。


「頼りにしてる。二人とも」


「では、前衛は?」


ヘルガが尋ねる。


「まず最優先は、攫われた人の救出。敵の殲滅は二の次だ。

好機があれば、ヘルガは迫ってくる敵の排除に回ってくれ。

俺は救出に集中する。それでどうだ?」


「了解しました」


頷き合いながら、さらに細かい役割と合図の確認を済ませていく。

食事が終わる頃には、全員の腹も心も、戦いの準備を整えていた。


宿屋を出ると、心地よく冷えた夜風が前髪を揺らした。


「──さて。傭兵としての最後の仕事、張り切りますか」


ノートンが指を伸ばし、軽く腕を回す。

俺たちは静かに頷き合い、バグゥの配下に後衛支援を頼んだ後、早馬でアジトのある山へ向かった。



レイバスは、まだ何も知らない。

自らの手で弟を殺し──

一族を滅ぼす運命が、すぐそこまで来ていることを。

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