自分が妻を殺しました

木村文彦

自分が妻を殺しました

 僕は「どうして」と膝に強く、拳を叩きつけることしかできない。 


近所で仲良くしてもらっていたさんが、妻を殺した容疑で逮捕されていた。




――自分が妻を殺しました。




涙ながらに、友さんは警察に自白をしたという。




 友さん夫婦の家と僕の実家は、かなり近かった。


ご近所さんだった。




 友さん夫婦は、近所でも仲がよいと評判だった。


毎日、一緒に庭の草木の手入れをしては二人で笑い合い、晴れた日には夫婦で連れ添って公園まで散歩によく来ていた。


 それは母から聞いた話であり、僕も実際に何度もその光景を目の当たりにしていた。




「自転車に乗れないのか?」


 当時、まだ小さかった僕は、懸命に近くの公園で自転車を乗る練習をしていた。


多忙だった両親が練習を見に来ることはなく、僕は地面に飛び込むようにして、膝をすりむいては、その傷みに呻き、それでもまた自転車にまたがっていた。



 自転車にまたがると、すぐに涙が出てくる。


当時、それくらいには恐怖の乗り物だった。




「でも、いつかは絶対に乗ってやるんだ」


 強がりだった。本当は、逃げ出したかった。


「いい心意気だな。じゃあ、乗り方を教えてやろう」

 近くに強面のおじさんが、いた。


「え、本当?」


 その時、僕は友さんの顔を初めて見た。


「あなた、勝手にいいんですか?」


 隣で、友さんの奥さんが困ったような顔をしている様子が印象的だった。




「森木さんとこの息子だろう? 後で報告しておけば、大丈夫だ。付き合いもあるし」


 定年退職を迎えたばかりだという友さんは、それから僕の練習をずっと見てくれた。


初めて会った日は、怖いだけの印象だった。


けれど、お母さんは「友さんはとっても優しい人だよ」と教えてくれた。




 それ以来、段々と、僕は友さんが怖くなくなっていった。


自転車の方が、よっぽど怖かった。


友さん夫婦は自転車の練習後に、よく僕を家に招いてくれている。


 お菓子をもらえるし、何より優しい。


途中から、自転車の練習よりも、友さんの家に行けること自体が僕にとって主な目的となった。


わざと自転車の運転が下手なふりをしたくらいだった。




「もう自転車に乗れるのに、今。わざとこけただろ?」


 手を差し伸べてくれた友さんは、意地悪く笑っていた。


「うん」


「正直者でいいな。後で、お菓子をやろう」


 くしゃくしゃの友さんの笑顔が、本当に大好きだった。


お菓子を友さんの家で食べる時、いつも僕の席は決まっていた。


そこからは庭が隅から隅まで、よく見えた。いつ見ても整えられており、綺麗だった。




 友さん夫婦との交流は、僕が大学に進学するまで、ずっと続いた。


「東京の大学に行くんだってな。がんばれよ!」


 偶然、近所のスーパーで友さん夫婦と再会した時、二人で品物を手に取っては楽しそうに吟味していた。


それを中断してまで、僕に近寄って来てくれた。激励してくれる。


「また、こっちに帰ってきたら、教えてね。ご飯でも、一緒に食べにいきましょう」


 奥さんが笑いかけてくれる。




 まさか、それが最期の言葉だとは思わなかった。




 僕は大学を卒業して、新社会人になるまで地元に戻ることはなかった。


忙しかった。といえば、それは事実だが、主に、遊びの用事ばかりでスケジュールを埋めていただけだ。


 大学中、地元に帰省していなかったのは、ただ怠惰なだけだった。




 就職を機に、地元に戻ってきた僕は、久しぶりに友さんを見かけた。


隣に奥さんはおらず、僕は懸命に声を掛けたが、友さんは陰鬱な表情で、こちらに振り向きすらせず、素通りしていった。


 昔より背中が丸まっていて、痩せこけている。




心配にはなったが、奥さんがいるから大丈夫か、と僕は思い、またがっても涙が出なくなった自転車で、帰路についた。




 それから数ヶ月後――友さんが、妻を殺した容疑で逮捕されたと知った。


なぜ。どうして。


 理由が、分からない。あれだけ夫婦の仲がよかったのに。


どれだけ探っても、結局、何も分からず、それから二年の月日が経ち、僕は、友さんの訃報を知った。




「手伝ってもいいですか?」


 インターホンはまだ機能していた。


相手から、反応がある。玄関で、友さんに似た白髪の男性に声を掛けていた。懐かしい匂いを全身に浴び、泣きそうになる。


「いや、君。誰よ?」


「友さん夫婦にお世話になっていた者です。実家が近所で、昔から交流があったんです」


「そうか。そうだったか。弟は優しかったか?」


「ええ、とっても」


 公園で、友さん夫婦に自転車の乗り方を教えてもらった思い出を詳しく話した。


友さんの言葉を、奥さんの気遣いを。




 しばらくして、家の中に入ることを許された。


あれだけ整理整頓されていた友さんの家が、今では床が見えないくらい乱雑に、物が転がっている。


 場所によっては、ほんのりと腐臭すら、する。




「この家で、よくおやつをご馳走してもらいました。席は、あそこです」


 まだあった僕の指定席。


次第に、友さんのお兄さんは、目尻に皺を濃くしていった。




「友さん夫婦は、最期まで仲良しだったんですよね?」


 思わず、僕は聞いていた。


友さんのお兄さんであれば、少しは何かを知っているのでは。


返事が、ない。友さんのお兄さんは、唇を噛みしめているだけだ。


その場で友さんのお兄さんが立ち竦んだかと思うと、肩を震わせていた。むせび泣いている。

 


 庭には、雑草が生い茂っている。


ふとした瞬間に見つめ合って笑い合う友さん夫婦の様子が、脳裏を過った。


 綺麗な庭を走り回っていた、幼い頃の僕。




「あいつは真面目すぎた。ちょっとくらい、こっちに頼ってくれれば……。絶対にあいつは、もっといい人生を送れたはずなんだ。そうだ、これを読んでほしい。いや。頼むから、読んでくれ」


 ボロボロのノートを手渡されていた。日付と、数行の文。


友さんの日記だった。

 


「あいつが極悪人だったなんて、勘違いしないでくれよ。頼むから」


 ずっと家の整理を続けて、ようやく床が見えるようになった狭い場所があった。そこに身を縮めるようにして、友さんのお兄さんは土下座を続けて、した。




 その日記は、僕が大学にいた頃から始まっていた。



――――

 

2010年8月4日




――妻が脳梗塞で倒れ、その後遺症で半身不随になった。家事などしたこともないが、やるしかない。






2010年8月9日




――朝起きたら、食事を作る。お箸が持てない妻になんとか食べさせ、それからオムツを換える。ベッドのシーツも毎日換える。




しんどい。だが、これで少しでも妻の状態がよくなれば。






2011年1月9日




――よく考えれば、妻が倒れてから外出が減った。だが、妻をお風呂に入れるのは大変だ。兄にも、家族がある。頼るべきではない。金なら、まだある。




がんばれば、きっといつかは二人でまた外出できる。






 僕はパラパラとノートを捲っていった。


全部を読み切る胆力は、とてもなかった。




長く、友さんの日記を読み続ける。その行為は、僕の内側から出てはいけない何かを放出させてしまいそうな怖さがあった。






2015年5月6日




――もう、限界かもしれない。


ここで私が倒れたら、誰が妻を介護してくれるのだろうか。


いや。妻をおいて、自分が先に死ぬわけには。






2015年9月6日




――妻が先に死んだら、自分は楽になるかもしれない。


いっそのこと妻を殺してしまおうか。いや、なにを考えているんだ。






2015年11月6日




――毎日、妻の世話ばかりだ。早く死んでくれないか。






2016年2月26日




――悪夢を見ない日がなくなった。眠れなくなった。妻を殺して、自分も死のう。






2016年4月26日




――死ねなかった。あれだけ、睡眠薬を飲んだのに。





――――

 

 僕はノートを閉じて、意図して強く、胸を叩いていた。


僕が日記を読む間、友さんのお兄さんは無言で、ずっと部屋の整理を同じ速度で続けていた。




 手を動かし続けなければ、心の方が止まってしまう。


そう考えているくらいには、友さんのお兄さんは鬼気迫る勢いで、近くの物をポリ袋に放り込み続けていた。




 ようやく僕の方を見て、皺だらけの手が止まった。


友さんのお兄さんの口が少しばかり開かれる。




「あいつは、警察に『自分が妻を殺しました』と自白した。当時、奥さんは浴槽の中で、溺れたまま亡くなった状態で見つかったらしい。だがな……」


 友さんの妻は、検死されていた。


その際、白く痩せ細った手首に、夫の手の跡がくっきりと残されていたという。




「ただ、それは、あいつが妻を殺そうと溺れさせるために押さえつけた跡ではなかった。むしろ引っ張り上げ、助けるためにできた手の形だったそうだ」


 目頭を押さえた友さんのお兄さんは、当時の取調べで友さんが語ったことについて、詳しく教えてくれた。



『目を離したすきに溺れている妻を見て、急いで助けようと引っ張り上げたんです。ただ、最終的には手を離しました。持ち上げようとする私の手を、妻が右手で振りほどいたからです。そのとき、妻の口はたしかに『あなた、もう大丈夫ですよ』と言っていました。間違いありません』


 友さんのお兄さんから発される言葉は、ずっと震え続けていた。


それはまるで友さんの言霊が、お兄さんに乗り移っているかのようだった。




 それから僕と友さんのお兄さんは無言で、友さんの家を片付け続けた。


この家をかつて、遊んでいたような空間に戻すために。


心を、無にするために。




「もういいよ。あとは、一人でやっとくから」


 真っ暗になった外を見て、友さんのお兄さんがぽつりと言った。


「明日も来ます。ありがとうございました」


 僕は深く、深く頭を下げる。




 外に停めてあった自転車にまたがり、僕はペダルにゆっくりと足を掛けた。


とっくに自転車なんて、怖くない。


それなのに今、目頭が熱くなってきて、運転が辛くなってきている。


 足に力を入れ、ペダルをこぎ出す。だが、力が入らない。



 遂に、僕は、運転を止めて、漆黒の空を見つめた。

無意識に手に力が入る。視界も熱い気持ちで、狭くなる。



 僕は膝に強く、拳を叩きつけることで、 友さんへの想いを消化しようとする。

できない。目頭ばかりが、熱くなる。苦しい。


 夜の冷風が、僕の頬を何度も、何度も撫でつけた。寒い。寒い。

痛い。


 

<了>

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