二日目「温泉宿は戦場より過酷」

その週の金曜日。魔王軍本部の執務室では、俺――アカリ・サトウが一人、悲壮な顔で旅館の予約リストとにらめっこしていた。


「ダメだ……どこも空いてない……!」


 理由は単純。魔王が行きたいと指定したのが、“山奥の秘湯”だったからだ。しかもこの季節、紅葉シーズン真っ盛り。観光客で予約は数ヶ月前から埋まっている。


 加えて、魔王の条件がまた細かい。


「部屋は離れで、かつ半露天風呂付き。プリンは3種以上、朝は和定食で納豆抜き。枕は硬めで、掛け布団は羽毛じゃないとアレルギーが出る――って多いわ!」


 こっちは魔族でもなければ貴族でもないただの転移者だぞ! しかも完全に雑用係じゃねえか!


「おい、サトウ。準備は整ったか?」


 現れた魔王は、すでに旅装束に着替えていた。黒いローブの下は、どこか登山家風の装備。頭にはタオルが巻かれ、腰には風呂桶が提げられている。


「いや、宿が……」


「我は偉いのだ。予約など不要。行けば空いている」


「いや、それは……資本主義をなめないでください!」


「私を誰だと思っている。魔王だぞ。なんなら旅館を魔力で浮かせて一緒に移動させてもいい」


「それはもう宿じゃない、移動要塞だ!!」


 そんな押し問答の末――


「……こうなったら、無理やり空けてもらうしかないな」


 魔王はすっくと立ち上がり、指を鳴らす。瞬間、部屋の空間がねじれ、魔法陣が出現した。


「ま、まさか転移魔法!?」


「旅館直通。あとは――行くだけだ!」


「やめろおおおお!」


 こうして俺たちは、強制転移で山奥の温泉宿へと向かうことになった。


◇ ◇ ◇


 転移先は、予想通りの山奥だった。


 木々の間にひっそりと佇む、老舗の温泉宿『紅蓮の湯』。その佇まいは実に趣深く、いかにも「隠れ家的」な雰囲気だ。


 ただし――


「満室でございます」


 番頭の老女が、ぴしゃりと答える。


「いやいや、そこをなんとか――」


「なんともなりません」


 魔王ディオクレス、交渉失敗。


 まさかの、あっさり玉砕である。


「我が名は魔王ディオクレスだ。少しくらいなら――」


「魔王様でも順番は守ってください。今は、王国の勇者ご一行が宿泊中ですので」


「よりによって勇者かい!!」


 と、俺は思わず叫んでしまった。


「おい、サトウ。これは……好機ではないか?」


 魔王がニヤリと笑う。


「温泉でばったり勇者に遭遇――それがきっかけで友情が芽生える。これはマンガなら定番の展開ではないか!」


「いやいや、風呂で友情育てるって中学生男子の発想ですよ! あと、向こうは魔王と知らない方が良いと思う!」


「なるほど……ならば変装だな」


 そう言って、魔王はポーチからサングラスとフェイスマスクを取り出した。

 完璧な「一般人スタイル」……のつもりだが、全身から滲み出る威圧感が消えてない。


「さあサトウ、我々も今夜はここに泊まるぞ」


「でも満室って――」


「物置でいい。私は地べたでも寝られる男だ」


「いや、俺はイヤですよ!? 風呂と布団が欲しいです!!」


 結局、番頭に土下座して、離れの“従業員控室”を借りることでなんとか宿泊許可が下りた。


 俺は即、プリン3個と引き換えに魔王を黙らせ、風呂へ直行することに。


◇ ◇ ◇


「ふぃ~~……極楽……」


 旅館の露天風呂は、夜空に星が広がる極上の癒し空間だった。


 かすかに硫黄の香りがして、木々の隙間から月明かりが差し込む。肩まで湯に浸かれば、まるで現世の疲れも溶けていくようだ。


 まさか、魔王の思いつき旅行がここまで快適とは。


「サトウ~~~~!!」


 突然、背後から湯しぶきをあげて魔王が登場した。


 完全にノーガードの裸体で、桶を頭に乗せて「ザバーン!」とポーズを決める。


「魔王様! 混浴じゃないのに!!」


「よくぞ聞いてくれた! 実はここ、勇者一行専用の時間らしい」


「いや入っちゃダメじゃねえか!!」


「だから私は変装している。これは『一般風呂好き』という設定だ」


「一般がそんな覇王のオーラまとってないよ!!!」


 そのとき、遠くから笑い声が聞こえた。


「ふぅ、今日の戦闘訓練も大変だったな~!」


「勇者だ!!」


 姿を現したのは、金髪の少年――おそらく勇者本人と、その仲間たち。いかにも青春してますという雰囲気で、こっちに全く気づいていない。


「チャンスだサトウ。さりげなく混ざって、会話に参加するぞ」


「何言ってんですか魔王様! バレたらどうすん――」


「おいキミたち、旅行かい? 温泉好きとは趣味が合うな!」


 魔王、特攻。


 おいィィィィィ!!!


◇ ◇ ◇


 ――数十分後。


 なぜか魔王ディオクレスは、勇者一行とすっかり打ち解けていた。


「へぇー、そっちの世界じゃ“シャンプーハット”ってのがあるのか!」


「そうそう、泡が目に入らないようにする便利グッズなんだが……」


「……で、実際に使ってるのはサトウくんだけだけどな!」


「やめて魔王様!? 俺の黒歴史を語るな!!」


 まさか、魔王がこんなに社交的だったとは。勇者たちはすっかり“ただの温泉好きなおじさん”と思っている。


「ところで、あなたたちは何者なんですか?」


 勇者の隣にいた、褐色肌の槍使いの少女が尋ねた。


「私は……旅の風呂愛好家。名は……ディオ温泉スキー」


「それっぽい名前つけたな!!」


「風呂を求めて西へ東へ。次の目標は“伝説の五右衛門風呂”だ」


「そんな伝説あるの!?」


 夜は更けていき、やがてみんなで瓶の牛乳を飲みながら、風呂上がりに語り合った。


 勇者と魔王が、同じ月を見上げながら。


 誰も、明日の戦いのことなど話さなかった。


 魔王が休魔日を宣言したその週、たしかにここに小さな平和があったのだ。


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