八黒堂
もういいよ
第1話 依頼人:音大生
その噂は、どこかで必ず耳にする。
都内某所、女子高生たちが放課後のファミレスでドリンクバーを囲みながら話していたのは、例の都市伝説だった。
「ねえ、
「なにそれ、居酒屋?」
「違うって。なんかぁ、夢を売ってるお店だよ。寿命と引き換えに、どんな夢でも見せてくれるんだって。8時間の睡眠で、8時間まるごと望んだ夢が見られるの。」
「は? 怖っ……どこにあるの?」
「それがさ、場所は誰も知らないの。でも“行けた人”はいるんだって。エレベーターに乗って、まずは地下▼階、次に▲階。それで誰も乗ってこなかったら、▲▼階までボタンを押す……って。」
「いやそれイセカイエレベーターじゃん!古!」
「都市伝説って、だいたいそーいう意味わかんないルールあるよね。」
「まあね。でも、そのルール通りにやって、本当に店にたどり着いた人がいるらしいの。」
「それで夢、見たの?」
「しらなーい、キャハハ!」
彼女たちの会話は、まるで肝試しの話題のように盛り上がっていた。
後ろで聞き耳を立てている青年の目が、鈍く光る。
「あれ…あたし達っていつも5人だっけ?なんかコップ多くない?」
「うける。……あたし達いつも4人だよ。」
***
深夜、人気のない古びたビルの中。
青年は、人づてに聞いたその順番を何度も確認しながら、エレベーターに乗り込んだ。暗い照明の中、ボタンを順に押す。地下▼階。つぎに▲階。そして、誰も乗ってこなかったことを確認してから、▲▼階のボタン。
ボタンを押す彼の手には深い傷があった。人差し指から、手首にかけての長い傷。うまく指は動いていないようだった。
軽く震える足を無理やり踏み出す。
まるで何も起きない。ただ静かに、エレベーターは上下し──最後に、見慣れない階表示が点滅した。
──八黒堂。
扉が開いた先には、煤けた喫茶店のような店内。
天井には古めかしいランプが灯り、香ばしいコーヒーの香りが漂っている。
奥には、銀髪のポニーテールの女が、店主らしくカウンターに立っていた。
冷ややかな目、パリッと張った新品のスーツ。背は低そうだが、どこか威厳を感じる。
「ようこそ。八黒堂へ」
静かで穏やかな声だった。
「こちらでは、寿命一年を対価に、八時間お好きな夢を見ていただけます」
「……本当に、好きな夢を見られるんですか?」
「はい」
自身に満ちた短い返事だった。
「…じゃあ、」
青年は躊躇なく全てを喋った。
元は音大生、ピアノ科だったこと。友達との悪ふざけで手に大けがを負い、後遺症が残ってしまったこと。いや、彼にはもう何も残っていないのかもしれない。
現実はどうしようもなかった。
夢なら──夢だけでも、自分の望む人生が送れるなら、それでよかった。
「あの頃に戻れる夢を。」
「承知いたしました」
女店主は表情を変えずに、短く答えた。
その日は書類に、簡潔な夢の内容を書いて、帰宅した。
夜、青年は夢を見た。
夢の中では、彼は『元の』天才ピアニストだった。
誰もが自分に拍手を送り、誰もが彼に恋をする。美しい旋律と、喝采。
この超絶技巧を見よ。嗚呼、みんな、ありがとう、ありがとう。
朝、男は夢の余韻に浸り、すぐに現実へ引き戻された。古傷が痛み、手が痙攣する。
天命より1年──いや2年でも3年でも短くなってもいい。
また、もっと、まだまだ夢を。
「あの…また、お願いしても大丈夫でしょうか。」
迷わず、また足を運んでいた。相変わらず香ばしいコーヒーの香りが漂っている店内では、女店主が一人。横には──助手だろうか、男女二人がカウンターの掃除をしている。
「ウフフ、また来てるわよカルト。」
背の高い、猫のように鋭い瞳の女がこちらをみている。その顔は、いつかどこかで見た女子高生に似ていた。
カルトと呼ばれた女店主はこちらを見て、淡々と答えた。
「寿命一年を対価に、八時間お好きな夢を見ていただけます」
彼の寿命は、ひそかに少しずつ削られていった。
天命より『30年』短くなっても─。
***
「…なぁ、最近あいつ見た?」
「あいつ?」
「そ、あの手にケガした馬鹿。」
「おいおい…まぁ自業自得か。あいつもう大学やめたよ。」
「ふぅん。ま、『若干』ピアノがうまいだけで、俺らのこと見下して。いい気味だよ。」
「おい、言い過ぎ…ではないか。ま、あいつの腕でプロになれるかって言ったら……」
ハハハ、と笑いあう声が大学の食堂に響いた。
***
「長かったな、今回の依頼人。」
カウンターの奥で、長身の男がぼやいた。
無骨なスーツに鋭い目つき。強面に似合わずテーブルクロスに刺繡を施している。
「毎晩通ってくる人なんて、久々じゃない?」
と、女が気まぐれな笑みを浮かべて、作業中の男にお茶を出してきた。
「夢ってのは怖いわよねえ!ハマっちゃうと、現実がどんどん遠ざかってく。」
「へ、俺には考えらんねー。」
「嘘よ、アンタ絶対ハマるタイプ。」
店の奥で何やら言い合いをする二人の男女をよそに、青年の夢の記録を確認していた。
「ふむ」
「…つーかよカルト、あいつの寿命。」
女との言い合いをやめ、呟く男。
「依頼人には残りの寿命言わねぇんだっけ。」
「それが決まりですので」
「ウフ、カルトも人が悪いわよねぇ。あの依頼人、夢の見すぎよ!」
女店主は静かに焙煎したてのコーヒーをドリップしていた。
「いい客、でした」
一言そう呟くと、コーヒーを一滴もこぼさずにカップに注いだ。
***
その夜、店の前に青年の姿はなかった。
誰も彼のことを覚えていない。
八黒堂に来たことも、夢に浸っていたことも。
寿命が尽きた者は、深い眠りにつく。
彼が望んだ夢の中で、永遠にピアノを弾き続けるだろう。
拍手のないホールで、誰もいない客席に向かって。
それが、彼の選んだ終わりだった。
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