消えた街
翔太はその日、仕事に疲れ果て、ぼんやりと天井を見上げていた。灰色のオフィスビルから続くいつもの帰り道、車のハンドルを握る手に力が入らず、信号の色が変わるのをただ無心に見つめていた。もう、どうでもよかった。
彼が務める会社は、いわゆるブラック企業ではない。
福利厚生も整っているし、上司も比較的理解のあるほうだ。
ただ、それでも翔太は日々に何の意味も見出せずにいた。
営業成績を上げても誰かが喜ぶわけでもないし、数字はただ上司の機嫌を左右するだけだ。やりがいというものは、ずっと前に置き去りにしてきた気がする。
「最近、ちゃんと眠れてるか?」
ふと、昼休みに同僚からかけられた言葉が頭をよぎる。翔太は笑って誤魔化した。
眠れていない。むしろ、眠った記憶すらあいまいだった。
深夜に目が覚めては、知らない天井を見つめているような感覚。そう、すべてが夢の続きのような、あるいは、まだ目覚めていないような。
そんなある日、夜の帳が降りる頃、同僚の一人がふと口にした不思議な話が翔太の脳裏にこびりついて離れなかった。
「君、消えた街って知ってる?」
薄暗い休憩室で、彼はそう言って翔太に一枚の地図を見せた。黄ばんだ紙に、かすれたインク。今にも破れそうなその地図には、見慣れない地名が記されていた。
「ここ、昔は賑やかな商業区だったらしいよ。でも、今じゃ誰も住んでない。誰が行っても、帰ってこないって噂だ」
半ば冗談めかして笑うその表情が、なぜか妙に気味悪かった。だが翔太は、それを笑い飛ばすこともせず、地図を黙って受け取った。何かに引き寄せられるように。
次の日、翔太は目が覚めるなり、無意識のように準備を始めていた。
食料を少し、バッテリーを満タンにし、古びた地図を確認して目的地をカーナビに入力する。まだ太陽が昇り切らない時間。思い立ったようにハンドルを握り、彼は街を出た。
約一時間後、ナビが示した目的地に到着した。
古ぼけた標識には、地図と同じ街の名前がかすかに読み取れた。「○○町」……文字の一部は消えていた。周囲は異様なまでに静かで、風の音すら遠慮がちに耳に届いてくる。
静寂。
それが最初の印象だった。
風すら吹かない。鳥の声も聞こえない。ただ、周囲には古い家々が並び、錆びた自転車が道端に倒れていた。電柱の上に止まるカラスが、まるで門番のように翔太を見下ろしている。
「これじゃ……ゴーストタウンだな」
その呟きが、周囲に反響する。まるで、誰かに聞かれているように。
車を降り、翔太はゆっくりと歩き出した。
パン屋、喫茶店、理髪店。いずれの店舗にも、時間が止まったかのような空気が満ちている。棚には商品がそのまま。壁のカレンダーは10年前のまま、めくれずに残っていた。
車を停め、彼は徒歩で街の探索を始めた。
街の奥へ進むにつれ、翔太の頭には「引き返したほうがいい」という声と、「もっと知りたい」という欲求が交錯した。
そしてふと、微かに笑い声のような音が、どこからともなく聞こえてきた。
翔太は立ち止まり、背後を振り返った。
誰もいない。
ビルの隙間から風が吹き抜ける音が、かすかに耳に残る。だがその風の中に、明らかに「人の声」が混ざっていた気がした。
ぞわり、と背中を冷たいものが這い上がった。
夕方になり、翔太は探索を切り上げることにした。引き返そうとしたが、なぜか元来た道がわからなかった。
「こんな一本道だったのに……」
地図を開いても、今の位置が正確に示されない。スマホのGPSはぐるぐると回り続けているだけだった。
彼は仕方なく、車まで戻って車中泊を決めることにした。助手席を倒し、ブランケットをかけて目を閉じる。
その夜――。
翔太は、夢を見た。
彼は見知らぬ部屋にいた。裸電球がぶら下がるだけの、暗い部屋。窓は外が見えないほど曇っている。
翔太は出ようとドアを開ける。ドアは簡単に開く。だが、次の一歩が動かない。
翔太がどんなに力を込めても、足は動かない。部屋から出られない。
目が覚めた時、額にはびっしょりと汗が浮かんでいた。
だが、目覚めたはずの車の外――その街の風景が、夢と全く同じ曇った窓に包まれていた。
翌朝。陽は昇っていた。鳥の声がする。
だが、それはどこか“つくられた朝”のようだった。
まるで「朝らしさ」の見本を誰かが再現したような、無機質で均質な朝。
翔太は車の窓を拭きながら、恐る恐る外を眺めた。
街は昨日とまったく同じ姿を保っていた。パン屋も、時計屋も、あのカラスすら同じ電柱の上にいた。
まるで、セーブされたままのゲームを再開したようだった。
「おかしい……何か、昨日と同じことが繰り返されてる……?」
車を走らせようとしても、エンジンは一瞬唸っただけで止まった。何度試しても同じだった。
バッテリーの残量はまだあるはずだったのに。
仕方なく再び歩いて探索を始めた。
昨日は気づかなかったはずの道が一本、南へと伸びていた。
舗装はひび割れていたが、比較的新しい標識がある。「市立図書館 →1.2km」と読めた。
「こんな標識、昨日あったか……?」
迷いながらも、翔太はその道を進んだ。
図書館は思ったより大きな建物だった。ガラス張りの正面、左右対称の設計。
だが中は暗く、人気もない。重い扉を押し開けると、乾いた空気が肺に入った。
電気はつかない。天窓から差し込む自然光だけが頼りだった。
翔太は、何かに引き寄せられるように奥へ進む。階段を下り、地下書庫へ。
すると、一冊の本がぽつんと机の上に置かれていた。
埃ひとつないその本は、分厚いハードカバーで、タイトルも背表紙もすべて擦れて読めなかった。
手に取って開くと、そこには信じがたい内容が綴られていた。
――「翔太という男が、ある日、消えた街を訪れる」
――「次の日、車のエンジンがかからない中、図書館へ向かう」
まるで、誰かが翔太の行動を事前に記録していたかのように。
ページをめくればめくるほど、翔太が昨日したこと、感じたこと、口にした言葉までが詳細に記されていた。
「な……なんだよ、これ……?」
ページの最後には、こう書かれていた。
――『彼がこの文を読んだ時、ページの白紙に、自分の影が映る』
ぞくりとし、翔太は思わず手を引っ込めた。
だが遅かった。
開かれていたページの白紙には、まさしく「翔太の影」がくっきりと浮かび上がっていたのだ。
それはインクでも影でもなく、“何かが封じ込められている”ようだった。
その瞬間、図書館全体が音もなく微かに震え始めた。
「もう、戻れないんだよ」
また、あの声だった。低く、柔らかく、背後から。
振り返ると、誰かがいた。――翔太にこの街を進めた、あの「同僚」だった。
でも顔、声、名前…全てが思い出せない。いや、そもそも、そんな同僚がいたのか。
「お前……誰だ……?」
「俺はお前さ。ここに来るように、お前が自分を導いたんだよ」
「何、言って……」
「この街は、心をすり減らした人間が“落ちてくる”場所だ。日常のすき間から、ふと、消えるように。お前はもう、境界を超えた」
声は男のもののようでいて、時折女のようにも聞こえた。いや、子どものようでもあった。
「ここに囚われた人間は、自分がなぜここにいるかを忘れていく。そしてそのまま、街の一部になる」
「……街の、一部?」
同僚の“輪郭”がぐにゃりと歪んだ。
「君も、もうすぐそうなる」
翔太は走った。だが出口が見つからない。地下の書庫の扉は、もう存在していなかった。
図書館はいつの間にか無数の棚と扉に変貌し、どこまで進んでも終わらない迷路になっていた。
耳元で声がする。
「ようこそ、消えた街へ」
その後――。
郊外で一人の男が、車の中で発見された。
身元は翔太。だが、脳に異常はなく、ただ何かを見続けているように虚空を見つめていたという。
彼は何も語らない。ただ、時折こう呟くだけだった。
「図書館に……本があったんだ……ぼくの名前が……影が……消えて……」
その日から、街では新たな噂が広がり始めた。
「誰かが“消えた街”を訪れるとき、その本が開かれ、次の“名前”が書き込まれる」
そして、今。
あなたの机の上に、一冊の古びた本が置かれていることに、気づいているだろうか?
背表紙に名前はない。ページは白紙だ。
だが、ページをめくれば――。
そこに映るのは、あなた自身の“影”かもしれない。
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