【短編】筋肉痛のメロス
黒兎
筋肉痛のメロス
シラクサを騒がせた騒動から一年、メロスの奮闘は語り継がれ、自由と娯楽を取り戻したシラクサの劇場で何度も上演される人気演目になっていた。暴君ディオニスの心をも変えたメロスの眩い勇気や正義感は、見る者の心を動かし、メロスはシラクサの英雄と呼ばれていた。
竹馬の友セリヌンティウスを救ったのちメロスは自らに赤いマントを差し出した少女と結婚した。メロスの雄姿を見、その全裸体をほかの女に見られることを嫌い、マントを差し出したその少女は押し寄せる大河のごとき勢いでメロスに求婚し、メロスもまた自らを慕う少女を拒むことはなかった。
メロスの勇気と正義に胸を打たれディオニス王もまた、新たな道を歩み始めた。これまでの圧政を恥じ、自らが制定した悪法をことごとく廃止、さらに自らに正義の何たるかを教えてほしいと、メロスを直属の教育係に抜擢したのだ。妹と共に住んだ家を妹夫婦に差し出したメロスにとってこれは僥倖であった。メロスと妻アマリアはメロスの仕事の為、立派な宮廷住となっていたのだ。メロスは一日の長い時間を王に付き添い、王の決断に逐一正義について説教をした。メロスは正義感に燃え、シラクサに正義の政治を敷いた。それは民にとってこれまでとは天と地ほど異なる、人々の自由を取り戻した善政であった。そしてアマリアは片時も離れることなくメロスに付き添っていた。竹馬の友であるセリヌンティウス、彼もまた、宮廷お抱えの石工として身を立てていた。
ある日の早朝、メロスのもとに一通の手紙が届いた。宛名の横に見慣れた花の絵が描かれている。妹からだ。妹の結婚式以来村には帰っていないし、これまで便りが届いたことも送ったこともない。悪い予感を感じずにはいられない。居てもたってもいられず震える手で封を切り、丁寧に折りたたまれた便箋を開いた。飛び込んできた文面にわが目を疑った。
「昨年の嵐のような結婚から一年、色々ありましたが、夫との結婚生活を終わろうと思います」
衝撃であった。いかにも仲睦まじく、待ち受ける輝かしい未来を信じて疑わぬ二人の顔が瞼の裏に浮かぶ。あれから何があったのだろうか。居てもたってもいられず、今すぐに故郷も村へ舞い戻ろうと決意した。行かねばならぬと思った。
しかし、今のメロスは一年前のような疾走をすることができなかった。ましてや歩くことさエままならないのだ。一年前の奇跡のような疾走、荒れ狂う川を越え、山賊を倒し、灼熱のごとく照り付ける太陽の下を走りきった。日が落ちるよりも早く走った。その人知を超えた疾走がメロスの体を蝕んでいた。あれから一年もの間、メロスは思うように足を動かすことができなかった。動かそうとすれば足と腰に耐えがたい痛みが出るようになっていた。
メロスは、筋肉痛だったのだ。
今では常に車椅子に座りその背をアマリアが押す姿が日常となっていた。自らの意気地なさに右手で手紙をクシャッと握りしめる。その背後から、アマリアが声をかけた。
「メロス様、いかがなさいました?」
その声にメロスの肩がピクっと動く。
「……妹から手紙が来たのだ」
「あら、それは良いことでございますね」
「いや、それがそうでもないのだ」
「と、言いますと?」
「妹が、夫と離縁するというのだ」
「まぁ……」
「そんな不義理があるものか。好きあって結ばれた二人が経った一念で離縁など、そんなことが許されるのか!」
顔が赤く染まっていく。額に噴きだした汗が雫となって膝に落ちる。怒りに震える手が手紙をさらにくしゃくしゃにしている。
「アマリア、悪いが付き合ってくれ。故郷に帰る」
「心得ました。では、旅支度をいたします」
「いや、その前にすべきことがある」
アマリアに押されてメロスは王宮の廊下を進む。すれ違う皆が立ち止まりメロスに首を垂れる。堂々と胸を張り彼らの目の前を通り過ぎ、王の執務室の扉をノックした。
「メロスです。急ぎお話ししたいことがあります」
「構わん。入れ」
開かれた扉の向こう、天井付近に設けられた採光窓から漏れ注ぐ光に照らされた椅子に、王は腰かけていた。かつての凶器はもう感じられない。威厳に満ちた王であった。
「して、いかがした」
王はいたって普通に問いかける。
「妹が……離縁しようとしております」
「なんと!妹君が」
波打つあごひげを右手で撫でてうーんと唸る。
「相分かった。行ってくるがよい。お主の留守中、国は私一人で何とかしよう」
「お心遣い、感謝します」
垂れた首をそのままに、メロスは気まずそうにまた口を開く。
「して一つお願いが……」
様子をうかがうようにそっと眼球だけを王に向けた。
「ん?なんだ」
訝しむ王に恥を忍んで、蚊の鳴くようなか細い声で願い出る。
「その……足が……」
「おぉ、そうか、そうであったな」
合点がいったように王が大仰に笑いだす。
「お主のことだからそのようななりでも走って行ってしまうのではと思っておったわ」
がっはっはっと笑う王にメロスの顔が赤くなる。思えば私がこんな体になったのは誰のせいだ。お前が圧政を敷いていたからではないか。お前の無茶に付き合わされたせいではないか。そうは思うものの、今の筋肉痛の状態で王に歯向かうことに何の得もない。沸きあがる気持ちをぐっと押し込め王の言葉を待った。
「よかろう、それでは馬をおぬしに貸し与える。羊飼いで会ったお主なら扱えるだろう」
「国王陛下、恐れながら申しあげさせていただきます」
愚弄された怒りに今にも暴発しそうなメロス。変わって答えたのはアマリアだ。
「主人は筋肉痛で走ることはおろか立つことも、ましてや歩くこともままなりません。今の筋肉痛の状態で馬に乗るのは、いささか自殺行為のように思います」
事実なだけにメロスは目を伏せるしかなかった。国の英雄が筋肉痛ごときで……。情けなさに今にも走り出してしまいそうであった。
「おう、それはいかん」
王は本当に気づいていなかったかのように、ふんぞり返る椅子にのけぞった。
「すまんお主を見ているとつい。では馬車を貸そう。その車いすも積み込めるくらいのものを」
王に促されるままメロスとアマリアは王宮の門までやってきた。目の前には飾りっ気のない質素な二頭立て馬車が一台止まっていた。
「事情が事情なだけに仰々しいものは不要だろう。さぁ、これに乗って行け」
メロスは王の配慮に感謝し再び首を垂れる。
「良い良い。これもお主から教わった正義なのだ。遠慮なく乗って行ってくれ」
メロスはアマリアに抱きかかえられ馬車の中へ座る。この瞬間も、自分が情けなくて仕方なかった。大の大人が、一人の男が、シラクサの英雄と呼ばれた男が妻に抱きかかえられるなど。名誉の負傷なら良い。しかしこれが筋肉痛と着ては……。あまりの恥ずかしさに自らの赤面を悟られぬようアマリアの体を塀にしてそっと顔を伏せた。
進行方向に向かってメロスが座り、向かい合う席にアマリアが座った。二人の脇には車いすが置かれている。
「馬車旅というのも、旅情があってよいですね」
「あぁ……そうだな」
車窓を流れる景色。かつて自分が、竹馬の友セリヌンティウスを救うために駆け抜けた大地。汗をたらし、血を吐きながらも駆け抜けた大地がいとも簡単に背後に流れ去る。自らの行いが間違っていたとは思っていない。でも、あの努力の情けなさを感じざるを得なかった。なぜ私は馬を借りなかったのだろう。なぜ走るなどという脳筋でしかない行動に出たのだろう。紙はそれが、私に与えたもうた試練だとでもいうのだろうか。おかげでこのざまだ。今では立つこともままならない。あぁ、馬車のなんと心地よいことか。これなら寝過ごして先を急ぐこともないではないか。間に合わなくなりそうなら自分ではなく馬が急いでくれるではないか。あぁ、メロスよ。己の無知を恥じるがいい。己の愚直なまでの正直さを呪うがいい。馬車とはかくも、気楽なものであるのだ!
車窓を眺めるメロスの視界に見慣れた景色が映る。
「そろそろ着くな」
眼前に広がる牧草地帯。あちこちで羊の群れが草を食んでいる。
「うつくしいですね。ここがメロス様の故郷なのですね」
「あぁ、今も昔と変わらないようだ」
緩やかな丘を登る見慣れない馬車に村人たちが寄ってくる。
「メロスだ!」
「メロスが返ってきた!」
「村の英雄が返ってきたぞ!」
次第に村人が集まり、馬車の周りを取り囲んだ。口々に叫ばれるメロスへの惜しみない賞賛。握手を求めて伸ばされる手に、メロスは良い気分になった。あぁ、自分の正義が認められたのだ!私は、こんなにも多くの人に、手本となる行いをしたのだ!メロスは有頂天であった。いけない。上がった口角が下がらない。いや、もうこのままでよいか。嬉しさを隠さないことの何が悪いか!嬉しくないと人に嘘をつく方が悪ではないか!
そんなニマけ顔のまま、馬車の中から群衆に向け手を振る。
「皆、メロスは帰ってきたぞ!」
窓から上半身を乗り出し、右手を点に突き上げる。まるでその上にいる神を追い落とすかのように。
馬車は進み、とうとう小高い丘に位置するメロスの生家に辿り着いた。アマリアが車椅子を下ろし、メロスを抱えて車椅子に座らせる。押されるがまま、メロスは家の戸をくぐった。中にはうす暗闇の中で籠を編む妹が一人座っていた。
「すごい騒ぎだったわね」
妹の声に背筋に悪寒が走る。
「あ、あぁ、村の皆が出迎えてくれた」
「それは良かったわ。まだ居場所があるって、良いことね」
声に曇りがある。それどころか何物をも寄せ付けない冷たさを纏っている。
「ところでお前から手紙を受け取った」
妹に対する恐怖と気まずさを押し殺し問う。
「あぁ、そうよね。その件よね」
妹はゆらりと顔を上げ、メロスの目を見つめる。
「もう疲れてしまって。彼とは別れるわ」
思っていた通りの返答だが、メロスの頭は急に熱くなる。胸に正義が呼びかける。そんな不義理は許されるはずがないと。
「だめだ妹よ。お前の伴侶がいかに良い人間か、このメロスが良く知っている。お前も知っているだろう。彼の義理堅さは見習うものがある。だからだめだ。なにかお互いの誤解を解けないのか」
妹はメロスの返答が分かっていたように、面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「そうね。彼は義理堅いわ。だから困っているのよ。思えば私たちの結婚式は怪しい曇天だった。兄さんがいけないのよ。兄さんが結婚式を急かすから」
ふふっと暗い笑みを浮かべた妹が目の前にいる。恐怖に冷や汗が首を伝う。
「それは、セリヌンティウスを救うために……」
「わかっているわ。でも、私たちが離婚をするのだって、兄さんがいけないのよ」
我慢がならなかった。二人の不義理が自分のせいだと、そんなことあるはずがない。
「心配で来てみたら何を言うか!私が原因だと?この一年、全く話してもいなかったではないか。自分たちの不義理をひとのせいにするとは許せんぞ!」
また妹が笑う。
「あぁ、やっぱり。兄さんは兄さんね。あの時とは違う。人に頼らないと何もできなくなった今でさえ、その心の正義だけは煌々と燃えているのね」
「私だってなりたくてこの体になっているわけではない!」
ふぅと視線を外し一息ついた。
「私はね、兄さんが誇らしかった。友のために熱く燃え、自らの限界を超えて、血を吐き、汗にまみれても友を救う兄さんが誇らしかった。それに兄さん、あの後宮廷で仕事をしているんでしょう。私本当に誇らしくて、一生懸命に村の人や夫に自慢をしたの。本当よ。でも、それがいけなかったのね」
「……何なのだ」
「彼は義理堅い。常に私にとっての一番は自分でないと気が済まなかったのよ。でも私が兄さんの話ばかりするものだから、彼はすっかりへそを曲げてしまって……。激しい嫉妬に狂ったのかもしれないわ。終いには私にも嫉妬心を見せてきたんだもの」
思わぬ事実に言葉を失った。自らの出世が、自らの勇気と誉ある行いが、このような結末を導いていようとは、夢にも思わなかったのだ。言葉を失うメロスに妹が微笑む。その笑顔が、メロスに呪いのように突き刺さる。あぁ、これは私のせいだ。私が彼女を不幸に落ち仕入れてしまったのだ。あの日の天気はこの未来を予見していたのかもしれない。だとしたら、私はどう償えばよいのだろうか。
背後で扉がいた。明かりの差し込む扉、光を背景に一人の男が立っている。男はこちらの姿を認めると持っていた荷物を落としまっすぐに距離を詰めてきた。
「あんたのせいで……!」
「やめてください」
男が間に立ったアマリアを見て目を剥いた。やがて力なくくずおれる。
「俺はあなたが羨ましかった。あなたのような勇気と正義感と、それらが羨ましかった。貴方が王に登用されたと聞いた時も、僕は嬉しかった。でも、次第に妻があなたの話ばかりするようになって、僕はあなたとの差ばかりが気になってしまった。あなたの話ばかりする妻が、嫌になった。思えばそうだ、あなたが結婚をせかしたから、あんな天気の悪い、不吉な日に式を挙げる羽目になったんだ。すべてはあそこから始まったんだ!」
「やめなさい。それ以上兄さんを悪く言わないで」
妹の一言に夫も言い返す。次第に声が荒れていき、激しい夫婦喧嘩が始まった。
あぁ、もう面倒くさい。メロスの心に一筋の闇が横切る。私は竹馬の友のためにすべてを投げうった。この命さえも。それは彼の命がかかっていたからだ。そして、私がその過酷な試練に打ち勝ちうる肉体を持っていたからだ。しかしどうだ。今の私は筋肉痛で体を動かすことができない。助けてもらわねば生きていくことができない。そんな自分にはもう、かつてのような川を越え、山賊を倒し、地を焼く灼熱の太陽の下を歩くような気力はない。もはや執行することのかなわぬ正義感だけを振りかざす腑抜けではないか。……腑抜けは腑抜けとして、面倒ごとに首を突っ込まないほうが良いではないか。下手に事を荒立てることもないではないか。
「妹よ」
静かな声が沈痛の響きを伴って口から発される。
「宮廷で、お前を住まわせる用意はできている。必要になったら、来るがいい」
後ろでアマリアの息が詰まるのを感じた。
「アマリア、帰ろう」
それでもアマリアは動かない。じっと静止したまま、メロスを見開かれた目で見つめている。あぁ、この人も私に失望したのだ。もうこの際どうでもいい。こんな私を、筋肉痛のメロスを見て嘲笑うがいい。
「アマリア、頼む」
はっと背を突かれたようにアマリアが動き出す。やがて馬車は来た道を戻り始めた。車窓を流れる景色、日差しは遮られ、焼けるような暑さに悶えることもない。なんだ、そうだ。走ることなど、ないではないか。こうやってゆっくりと、旅をすればよいではないか。自分はなんと……愚かだったのか。心にくすぶる自身への嫌悪を胸に馬車は進んでいく。車窓を眺めるメロス。その物憂げな顔に、アマリアがそっと手を添えた。
「アマリア?」
一息分の間をおいてアマリアが口を開く。
「えぇ、あなたは、かつて私が惚れた、輝かんばかりのあなたからは、変わってしまいましたね」
あぁ、そうだ。そうなのだ。あの頃の私は、もういないのだ。
王宮では王が待ちわびたように二人を出迎えた。が、冴えない二人の顔に王が訝しむように眉間に皴をおよせる。アマリアから事情を聴いた王は激怒した。
「お前ともあろうものが何ということだ!かつてのお前はどこへ行った?かつてのお前なら、そのような不義理を許すことはない。そのような勘違い、多少荒事になったとしても絶対に見過ごすことはなかったではないか!」
メロスは初めて、人のために熱く声を荒げる王を見た。それは王問よりもディオニスという一人の人間のようにまぶしく見えた。言葉を返さねばと思っても口が開かない。返すべき言葉が見つからない。
「……もうよい」
ため息とともに王は失望の色を隠さずぶつけた。
「王より命ずる。もう一度妹気味のところへ行き、よく話してくるのだ」
「それは良いのですが……」
メロスの言葉に王に肩がピクリと動く。
「このように私は走れません。どうか先ほどの馬車を借りられませんでしょうか」
懇願するようなメロスにとうとう王は呆れ果て、そして妹夫婦を呼び寄せた。
王の前に跪く二人、二人を横から見るようにメロスが座している。
「顔を上げよ」
王の号令で妹夫婦が顔を上げる。
「事情はわが師、メロスより聞いておる、わざわざ呼び立ててすまないが、二人はなにか誤解しておる」
王の言葉に二人の顔が険しく歪む。
「確かにかつてのメロスは凄かった。二人の言う通りの男だった。それで劣等感を抱くのも無理はない。
わしもそうだった。しかし、今のメロスは別人だ。走ることも立つこともままならぬ。それだけなら良い。しかしかつての正義感や義務感、使命感、そういったものは失われてしまった。もはや腑抜けに等しい。そんなメロスと自分を比べることに意味があるのか。妻を大事にしようというお前の気持ちが本物なら、どうかメロスのことは忘れて、二人で家に帰るがいい。帰りはまた送らせよう」
王の言葉に夫と妻の顔が明るく変わる。夫はこれまでの自らの行いを恥じ、悔い、妻に懺悔した。頭を下げる夫を妻が優しく抱き留める。あたりは感動の拍手で包まれた。腑抜けたメロスでさえも拍手で返した。
この瞬間、王はメロスになったのだ。
【短編】筋肉痛のメロス 黒兎 @Kurousagi03
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