人形預かりの体験談 終
七日目。つまり返却の日。俺はもう限界でした。六日目の夜に金縛りと声を聞いてから、心も体も擦り切れていて──まともな思考力なんて残っていなかった。ただ「今日で終わる」という、それだけを頼りに動いていました。
指定された住所へ、人形のケースを抱えて向かったのは夕方。
道中、何度も視線を感じました。通行人でも、後ろを振り返っても、誰もいない。けれどケースの中の人形の瞳が、布越しでも突き刺さるように感じられました。
……このまま持って歩いている間に、俺の心臓が止まるんじゃないかと思うくらい。
玄関先で呼び鈴を押すと、例の依頼主が出てきました。
「ご苦労様です」
そっけない声。俺の顔色なんて気にも留めず、まるで宅配の荷物でも受け取るように、ケースを引き取っていった。
その時です。
俺の手からケースが離れる直前、確かに感じたんです。ケースの中から、細い手が伸びて、俺の手首を掴んだ。
冷たくて、小さくて──でも生き物のような感触。
「返して……」
女の声が耳元で囁いた。俺は叫んで手を振り払った。ケースは依頼主の手に収まり、彼は何事もなかったかのように「確かに」とだけ言って扉を閉めた。
俺は呆然とその場に立ち尽くしていました。
八万円の封筒だけが手元に残り、何も説明もされず、ただそれで終わった。……はずでした。
本当の「終わり」は、家に帰る途中に訪れました。
夜の交差点。信号が青に変わり、俺は歩き出した。その瞬間、横からヘッドライトが突っ込んできたんです。ブレーキ音すらなく、トラックが赤信号を無視して。
体が宙に浮き、地面に叩きつけられる直前に見たんです。横断歩道の向こう。誰もいないはずの歩道に、人形が立っていた。ケースもなく、あの無表情の顔でこちらを見て──微かに、口が動いた。
「……返して」
次に気づいた時、病院のベッドの上でした。命は助かりましたが、足はもう二度と元のようには動きません。
あの事故は偶然かもしれない。けど俺は断言できます。あれは“厄バイト”のせいだったんです。
青年の証言を最後まで聞き終えたとき、喫茶店の窓の外では夕暮れが迫っていた。
カップに残ったコーヒーはすっかり冷えきっていた。
俺は、メモ帳に走らせていたペンを止めた。そこに綴られた言葉は、事実なのか、妄想なのか、あるいはその境界にある何かか──作家としては絶好の素材だ。だが同時に、人間としての直感が全身で警鐘を鳴らしていた。
「……ありがとう。辛い話を、ここまで話してくれて」
そう言うと、青年はかすかに首を振り、乾いた笑みを浮かべた。
「信じなくてもいいんです。けど……あなたも、気をつけてください。知った人間は、もう関わってるのと同じですから」
その言葉は、冗談めかした軽口には聞こえなかった。
むしろ、警告だった。
青年が席を立ち、喫茶店を出て行く。
残された俺は、冷えきったコーヒーを口に含む気にもなれず、ただ背筋にまとわりつく重苦しい感覚と向き合っていた。
取材は成功だ。だが──この原稿を書き上げて世に出すべきなのか、それとも、なかったことにすべきなのか。
ペンを握る指先は震え、頭の中で二つの声が交互に響く。
「これは売れるぞ」という職業作家の血と、
「これは触れてはいけない」という人間としての恐怖。
窓の外をふと見やると、夕闇に沈むガラスに映る自分の姿の隣に、黒い瞳が並んでいる気がした。俺は慌てて目をそらした。
この先、取材を続けるべきか。それとも、今ここで手を引くべきか。
答えは出なかった。ただ一つだけ確かなのは、青年の言葉が脳裏に焼きついて離れないということだ。
「知った人間は、もう関わってるのと同じですから──」
厄バイト 酒仙あきら @syusenn334110
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