人形預かりの体験談2

 三日目のことです。

 その日は大学に顔を出して、夕方になってから部屋へ戻りました。

 ドアを開けた瞬間、背筋が凍りつきました。人形のケースが──部屋の真ん中に置かれていたんです。

 昨日の夜、確かに壁際に向け直した。机の横、動かす必要もない場所に置いておいた。

 それなのに帰宅したら、畳の中央に鎮座している。まるで俺を待ち構えていたみたいに。

「誰か入ったのか?」

 慌てて部屋を見回しました。窓も施錠されているし、荒らされた形跡もない。玄関の鍵だって自分しか持っていない。

 心臓がバクバクして、足がすくんで動けませんでした。

 それでも意を決してケースに近づき、両手で持ち上げようとしたとき──中の人形の黒い瞳が、ほんの一瞬、光を反射したようにギラリと輝いた。

 息が詰まって、思わず手を離しそうになりました。だがケースは重く、落とすわけにはいかない。必死に持ち上げて壁際へ戻しました。

 その間中、人形の口元が微かに動いた気がして仕方なかった。

 結局その晩は、電気をつけっぱなしにして眠ろうとしました。

 ところが深夜、ふと目が覚めると、部屋の空気がやけに冷たい。

 視線を感じて布団から顔を出すと──暗がりの中で、ケースの向こうの人形が、天井を仰ぐように首を傾けていたんです。

「……動いた」

 初めて、はっきりそう確信しました。


四日目。

 昼間はなるべく外で過ごしました。部屋に戻りたくなかったんです。けれど夜になれば帰るしかない。

 玄関を開けると、部屋の奥から“コン、コン……”と乾いた音がしました。

 心臓が跳ね上がる。

 音のする方──人形の入ったケースが静かに置かれている。だが確かに今、ガラスを叩くような音がしたんです。

「……気のせいだ、風か、建物のきしみだ」

 そう自分に言い聞かせ、急いでシャワーを浴びて布団に潜り込みました。電気は点けっぱなし。眠れるはずもなく、耳を澄ませていると──

 まただ。

“コン、コン……”

 今度ははっきりと。ガラスを内側から叩くような音。

 その夜は一睡もできませんでした。

 明け方近く、うとうとした瞬間、耳元で女の声が囁いたんです。

「──見てる」

 飛び起きた時には、部屋には俺しかいませんでした。


 五日目になると俺はほとんど眠れていませんでした。四日目の夜に声を聴いてから、部屋の中にいるだけで呼吸が浅くなり、ずっと息苦しさを感じていました。

 その日は一日中部屋に引き籠っていました。……いや、正直に言うと、もう外に出る気力すらなかったんです。眠れていないせいで頭がぼんやりして、体も鉛みたいに重い。カーテンを閉め切った部屋で、ただ人形の視線から逃げるように布団に潜っていました。

 夕方ごろでしょうか。うとうとしたまま夢を見ました。

 夢の中で、自分は布団に寝ている。薄暗い部屋の隅にケースが置いてあるのが見えるんです。……でも、ケースの中は空でした。赤い着物の人形がいない。

 おかしいと思って身を起こすと、すぐ横に立っているんです。布団のすぐ脇で、人がこちらを覗き込んでいる。黒い瞳が真っ直ぐに俺を映していて……唇が微かに動いたんです。

「──返して」

 そう囁いた瞬間、心臓が喉から飛び出しそうになって、叫んで飛び起きました。汗で全身がびっしょり濡れていて、息が荒い。必死で辺りを見回すと──そこに、人形はケースごと置いてあるんです。机の横、最初の位置に。まるで夢なんてなかったかのように。

 けれど……布団から見える距離が妙に近い。昨夜よりも、少しだけ。

 自分で動かしたのか? それとも──。

 頭がおかしくなりそうでした。何もできず、ただ薄暗い部屋で膝を抱えて、夜が明けるのを待つしかありませんでした。


 六日目のことです。

 もう、ろくに眠れていませんでした。四日目、五日目とほとんど徹夜みたいな状態で、頭が重く、目の奥がずっと痛い。大学も行かず、外にも出ず、ただ布団の上で時間を潰していました。

 ──人形が動くのは夜だけ。そう思い込もうとしていました。昼間は大丈夫だ、そう自分に言い聞かせて。けれど、その日は違ったんです。

 午後、ふと視線を感じて顔を上げると、人形のケースが机の横から動いていました。ほんの十センチ、二十センチ。けれど確かに、今さっきまでの位置と違っていた。……見ている間に動いたんです。俺が目を逸らした一瞬じゃなくて、見ている最中に少しずつ、ずりずりと床を引きずるように。

 俺は声も出せず、ただ立ち尽くしていました。

 夜になってからはもう最悪でした。

 布団に入って、恐怖と疲労で意識がぼんやりした頃──金縛りに遭ったんです。体が石のように動かない。呼吸だけが荒くなって、全身の汗が冷たくなった。

 そして耳元で、女の声が囁いたんです。

「……返して。……返して」

 囁きはだんだん近づいてきて、ついには肩口に冷たいものが触れました。指です。はっきり分かりました。細くて冷たい指が、俺の肩をぎゅっと掴んだ。「やめろ!」と叫ぼうとしても声が出ない。ただ涙と涎が勝手に流れて、息が詰まっていく。

 その時、視界の端に見えたんです。ケースの中の人形が、空っぽになっているのを。

 次に意識が戻った時には朝でした。布団の上でうずくまり、全身が震えていました。

 ケースの中には──いつものように、人形が戻っていました。何事もなかったかのように。


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