第22話 慈悲ノ心

 私は気を取り直して言った。


「とりあえず、今日はここまでにしましょう。めぐみちゃん、案内するから、部屋で少し休んで。」


 めぐみちゃんはうなずき、私の後をついて歩き出した。


 背後に残る、研究室の光と、冷たいまなざし。

 この地下の明かりは、どこまでも現実的で、そして――どこか非人間的だった。


 めぐみちゃんを静かに部屋へと案内し、鍵のかからない扉をそっと閉めた私は、ふう、とひとつ息を吐いた。


 そのとき、扉のすぐ横の影が、わずかに動いた。


「……士郎。」


 彼は壁にもたれて立っていた。目の奥の光は、いつになく鋭かった。


「リビングで話さない?」

 私が声をかけると、彼は短く「あぁ」とだけ答えた。


 古城の1階。かつての貴族が晩餐を楽しんだであろう重厚なリビングルーム。

 今では、古ぼけたシャンデリアが天井からぶら下がり、革張りのソファとガラスのローテーブルが異質な静寂を保っていた。


 私はそのソファに腰を下ろし、彼と向かい合った。


 士郎は、口を開いた。


「……なんで、あの子をここに連れてきた。」


 私も視線をそらさずに答えた。


「能力に、苦しめられている……そう感じたからよ。」


 士郎の目が、わずかに細まった。

 あの、どこかいつも飄々として人に興味を示さない彼が――今は、まるで査問官のような鋭さで私を見ていた。


「少なくとも、あの子は“能力を抑えたい”って雰囲気じゃなかった。

 あの子が、“能力を消してくれ”って――本当に、言ったのか?」


 私は、すぐに返せなかった。


「……いいえ。でも、あの子は、変幻自在の少年に仲間を殺されて……そのことを強く恨んでた。

その上で、“未来予知”なんて能力を持ってしまったら――」


「それはお前の予測だ。」

 士郎の声が、空気を裂いた。


「……あの子が、実際に願ったわけじゃない。

お前が、勝手にその未来を押しつけようとしてるだけだ。」


 私は言い返す言葉を探した。けれど、言葉にならなかった。


 士郎は続けた。


「それに、公安だって馬鹿じゃない。能力者の可能性がある未発見者が2人もいる。

 あの場所が、放置されるわけがない。……いずれ、ここに足がつく可能性だってある。」


「証拠は、すべて消した。足がつくことはないわ。」

 私は強い声で言い返した。


 けれど、士郎はその言葉を真っ向から否定することも肯定することもせず、ただ静かに、私の顔を見つめた。


「……昔、お前はもっと冷淡だった。」


 私は目を見開いた。


「任務を任務と割り切って、私情なんて挟まないやつだった。

 けど今は違う。お前は、能力者に触れすぎた。“人”として見すぎた。」


 私は、言い返せなかった。

 そのとおりだったからだ。


 めぐみちゃんの瞳に宿る、怒りと哀しみを見てしまった。

 それを見て、見過ごせなかった自分が――確かに、そこにいた。


 士郎は立ち上がり、背を向けたまま言った。


「俺は、能力者がどうなったってかまわない。

ただ、この施設がバレて、研究成果がなくなるのが不愉快なだけだ。……ただそれだけ。」


 足音が、床に重く響いた。


「勝手な行動はするな。指令のない行動は、組織を壊す。」


 そう言い残して、彼は研究室の扉の奥へと消えていった。


 私は、静かに唇を噛んだ。

 確かに私は変わり始めていた。だけど、それが――悪いことだとは、思えなかった。


 私は、放心したまま天井を見つめていた。

 石造りの天井の模様が、どこまでも冷たく広がっていくように感じられた。


 能力者を、人として見てはいけなかったのか。

 手を差し伸べることすら、許されないのか。

 正義とは、秩序とは、何のためにあるのか――


 そんな思考の海に沈んでいた私を、世界は容赦なく現実に引き戻した。


――プルルルル……プルルルル……


 古びた城の空気の中で、不釣り合いなほど鮮やかに響く携帯の着信音。

 私は一瞬、出るのをためらったが、反射的にポケットから端末を取り出した。


 画面に表示された名前は、高木真司。


「……もしもし。」

 無意識に声が出た。


「おおっ、先輩! やっと出たっすね〜!」


 電話の向こうから聞こえてきたのは、いつもの調子乗りの声。

 明るく軽く、少し能天気で、だがその裏に隠された観察眼の鋭さを、私はよく知っていた。


「……なに?」


「あ、いやいや、そんな冷たい声出さないでくださいって。

 例の――あの“禁欲少年”、俺たちの仲間に引き込めるかもしれないっすよ。」


 私たちの計画は、予定よりも早く、進み始めることとなった。

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