第22話
土曜の夜二十時。
特にやることもなく、夕飯を済ませてからというもの、オレはベッドの上でひたすらゴロゴロしていた。
冷めかけたお茶を片手に、ぼんやりと天井を見つめる。
身体を動かす気力もなく、テレビをつける気にもなれず──結局スマホを手に取る。
SNSでも開こうかと思ったけど、指が勝手にメッセージアプリをタップしていた。
──あの人からのメッセージは、なし。
既読になっていた最後のやり取りを、なんとなくスクロールしてみる。
緩い、日常の隙間みたいな会話。
なんてことない内容なのに、妙に心に残っている。
画面を閉じて、軽くため息を吐いた。
別に、何か用があるわけじゃない。連絡が欲しい理由なんて、何ひとつない。ないはずなのに。
(……連絡、来ないかな)
心の奥でぽつりと呟いた声に、自分自身が少し驚く。
まるで、好きな人からの返信を待ち続けている高校生みたい。
あの人の声が──ふいに、聞きたくなってしまったのかもしれない。
「風呂入るか……」
今日はそういう日じゃないと割り切って立ち上がろうとしたそのときだった。
ポケットに入れたスマホがブルルッと震える。
不意に心臓が跳ね、慌ててスマホを手に取る。
画面に浮かび上がる名前は──。
「み、水萌さん……!?」
狙い澄ましたようなタイミングに、心臓が一段と強く脈打った。
驚きすぎてスマホを取り落としそうになり、あわてて両手でキャッチ。冷静さのカケラもない。
それでも、気づけば通話ボタンを勢いよくタップしていた。
通話が繋がった瞬間、水萌さんの声がふんわりと耳に届き、心が確かに満たされていく。
『もしもし〜? 今なにしてる〜?』
「何もしてないですね、適当にゴロゴロと」
『暇ならちょっとお話しない?』
「いいですよ」
素面な水萌さんの声、いつも通りといえばいつも通りなんだけど、なんだろう……。
聞こえ方が妙に柔らかいというか、くぐもってる?
水気を含んだように聞こえてしまうのは、電波のせい?
「あの水萌さん、ちょっと気になったんですけど」
『うん?』
「今どこにいるんですか? なんか声が若干反響してる気がして」
まさかと思い半信半疑で尋ねると、まるで答え合わせをするかのように通話越しから「チャプン」と水の弾ける音がした。
『今? お風呂』
「おふ……ろッ!?」
稲妻が走った。脳内でバチンと炸裂し、思考が白く塗り潰される。
お風呂──その何の変哲もないたった三文字も、発信源が水萌さんとなればえげつない破壊力を伴う。
(水萌さんが……お風呂に……ごくりっ)
今まさに電話の向こうで、いや、この壁一枚の向こう側にそんな桃源郷が広がっているなんて信じられない。
一糸纏わぬ姿となり湯船に浸かっているらしい彼女の、うなじに沿って流れる黒髪と湯気にけぶる肌が、肩が、鎖骨が、妄想の中で鮮明に浮かび上がっていた。
『晴翔くん? もしもーし。私の声、ちゃんと聞こえてる?』
「あっ、はい。もちろん聞こえてます。あの、全然妄想とかしてないんで!」
『妄想?』
「あ……っす」
ヤバい。完全に墓穴を掘った。いや、掘り進んだ。地下二階くらいまで来てる。
「違うんです、別にやましい妄想とかじゃなくて。ただ……そう、どっちから洗うのかなって」
『どっちから洗う?』
「頭から洗うのか、身体から洗うのか……とか……!」
何言ってんだろオレ。
二度の墓穴を掘りつつなんとかリカバリーしようとしたが、どうにも間違った方向に進んでしまっている気がする。
引かれたりしないか一瞬心配したけど、電話越しの水萌さんは楽しそうな声を上げた。
『なるほど〜そういうことね。お姉さんは頭から洗う派だよ。晴翔くんは?』
「へ、へえ……実はオレもです」
図らずもまた一つ水萌さんのことを知ってしまったらしい。頭から洗う派っと……。
『晴翔くんも? ふふ、一緒だね』
「一緒……ですね」
『体が先って人もいるよね。私的には、断然頭からを推奨したくって』
「え、なんか理由とかあったり?」
『シャンプーとかトリートメントって、ちゃんと流しきれてないと背中とかに残っちゃって、吹き出物の原因になったりするでしょう?』
「確かに言われてみれば……あんまり深く考えてなかったんですけど、理には適ってたわけですね」
「そうなの」
思いのほか真面目に教えてくれて、その優しさに申し訳なくなってきた。
さっきまで全裸の妄想をしていた童貞は、今すぐ壁に向かって土下座すべきかもしれない。
罪悪感を抱えひとりで反省していたら、ふいに水萌さんの声がトーンを変えた。
『それはそれとしてさ──晴翔くんは明日って、暇? 大学生は今夏休みだよね』
「はい、バイトとかも入ってないんで特に予定はないですけど……」
『本当に? 本当に予定とかない? あるなら遠慮せずにあるって言ってね?』
「なんかめちゃくちゃ言って欲しいみたいに聞こえますけど!?」
『まさかぁ。そんなことないよ? 無理に付き合わせてないかなって思って。いつもお姉さんの方から道連れにしてるっていうか』
「あぁ……全然、無理にとかそんなんじゃないです。ただオレが水萌さんと一緒にいたいって、それだけなんで。道連れ大歓迎ってやつです」
自分の気持ちをちゃんと言葉にしておかないともったいない気がして。
水萌さんを不安に思わせないためにも、誤解のないよう本心をそのまま伝える。
電話越しの声が揺れたような気がした。
『そ、そう? ……えっと、じゃあ空いてるってことで。お買い物に付き合って欲しいんだけど、いいかな?』
「もちろんオレで良ければ付き合います。誘って貰えて嬉しいです」
『ふふ……それ言うならお姉さんだって。晴翔くんに応えてもらえて嬉しいな』
「……っす」
『ちなみに明日は私の友だちも一緒なんだけど、それでもいい?』
「友だち……水萌さんの?」
『うん。実里って言って高校の頃からの親友なんだけど、晴翔くんの話をしたらどうしても会いたいって感じでうるさくって』
「へ、へぇ……まあ別に構いませんけど……」
どんな人なんだろう。水萌さんは学生時代さぞかしてモテまくってブイブイ言わせていただろうし、やっぱり同じ系統の人なのか。
しかもその人はなぜかオレに会いたがっている、と。謎だな。
水萌さんに似たお姉さん系がもう一人とかだったらこっちはオーバーキルだぞ……。
「あの、というか逆にオレ邪魔になりません? 買い物行くんですよね」
『実里が会いたいって言ってるんだし良いの。それに……晴翔くんが必要みたいだから』
「ひつ……よう……?」
本当にただの買い物……だよな。
口ぶりからして実里さんとやらが男手を必要としているみたいだが、何か爆買いする気なのか。
『とにかくそういうことだから、明日はよろしく。13時駅前集合で、ご飯は奢るからお腹空かせて来てね』
「は、はい」
今からでも緊張してきた。初対面で、大人の女性と会って買い物する機会なんてそう滅多に無いし。
ただ、何にせよ断るつもりはない。
親友ならば、オレの知らない水萌さんのことを少しは聞けるかもしれないしな……。
「ふぅ……」
緊張を紛らわすように、お茶を口に含んでひと息つく。電話越しの水萌さんもひと息ついたのが分かった。
穏やかな夜。穏やかな会話。
こういうひと時、悪くない。
『それと、また話は変わるんだけど──晴翔くんって海好き? 女の子の水着とか興味ある?』
「ぶっ……げほっげほっ!!」
お茶が気管に入りかけた。
スキンシップといい、水萌さんは不意打ちが得意のようだ。
「な、なんですかいきなり!?」
『びっくりさせちゃったかな、ごめんね! 変な意味じゃなくて、ちょっとした話題のつもりだったんだけど』
「だとしても突拍子なさすぎますって!」
『え〜、夏真っ盛りだよ? 会社でも海とかプールの話題が出てるの。晴翔くんは行ったりするのかなって』
「……全然ですね。大学の友だちと行く話は前に一度出たんですけど、乗り気だった奴らが全員彼女つくってたりして、その計画もいつの間にか自然消滅で」
『あはは、さすが大学生だねぇ。彼氏彼女水入らずで海、いっぱい遊んだ後は宿でゆっくりいちゃいちゃして……ちょっと憧れちゃうな』
「いちゃいちゃ……水萌さんはそういう経験ないんですか?」
『うん。そもそも彼氏自体いたことなくって』
「え……え、え?」
『あはは、反応おもしろ〜。そんなに意外だった?』
「そりゃもう……てっきり経験豊富だとばかり」
酔った時の距離の詰め方とか、どこか遊び慣れてるんだろうと思う瞬間はあった。
『異性との付き合いって難しいし、特に恋愛ってなると、ね……チャンスは何度かあったと思うんだけど、自分の気持ちに嘘はつきたくないし』
「しっかりしてるんですね、なんか急に水萌さんが大人に見えました」
『いつもは子供っぽいて〜? おうおう、言うじゃないか少年』
「何キャラですか……いやほら、異性との付き合いをちゃんと大切に考えてるっていうか、だからその分慎重になるっていうか」
『実里以外にそれ言われたの初めてかも……』
「酔った時の水萌さんは真逆行ってる気がしますけどね」
『うぎっ……わ、私の話は良いの! それでどうなの? 水着の女の子とか見るとテンション上がる?』
「いやまあ……はい、人並みには上がりますかね」
『男の子だもんね。ちなみに私のでも上がるの?』
「……若干」
『若干?』
少し不満そうに、あるいは残念そうに聞き返してくる。
「……嘘ですめちゃくちゃ上がります」
『ふ〜ん、そうなんだ…………えっち』
「今のは言わせたようなもんですよね!? 理不尽ってやつですよ!」
『あははっ、ごめんごめん。楽しくなっちゃって。晴翔くんの反応好きだなぁ』
「そうやって軽率に……」
『教えてくれてありがとう、のぼせちゃうからそろそろ上がるね』
「……あ、はい。お風呂ゆっくりあがってください」
『うん。それじゃあまた明日ね? 楽しみにしてるから』
湯気越しに微笑まれたような、やわらかくて、少し熱を帯びた声だった。
最後の語尾が妙に甘くて、耳に残る。
通話が切れたあとも、しばらくスマホを握ったまま動けなかった。
画面に映る通話終了の表示。
部屋の空気が少しだけ静かに感じる。
「水着の女の子……結局どういう意図の質問だったんだ……」
ぽつりと呟いて、もう一度ため息。
本当に単なる世間話だったのか、それとも、からかっただけか。
はたまた──答えは分からない。
けれど確かなのは、オレの脳内に水着姿の水萌さんが再生され続けているということだった。
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