第12話
年明け、碧は河西の元へ行って一月いっぱいで退職したい旨を告げた。
四年と少し。きついけど、好きな仕事だった。色々言われることはあったけれど、いいひとばかりの居心地のいい職場だった。
野上というパートは、各務と神嶋が揃って碧をやりこめていても自分は決して口を出さず、
「猫ってどんな猫なんですか」
とさりげなく助け船を出して話題をそらし、碧を助けてくれることがあった。また、河西に叱責されて碧がなにを言われているかわからずきょとんとしていると、
「これはこういうことだからね」
と、横からわかりやすく言ってくれて、碧はそれで理解することができることが多く、野上には助けられることが多かった。
子供が熱を出したり、身内に不幸があったりして仕事を休んだパートたちは、仕事に出てきたらみんなへのお詫びとして小分けにできるお菓子などを持ってきて休憩室で配るのが通例だった。
辞めていくパートたちも、ちょっといいお菓子などを置いていくのがならわしのようなものだった。
でも、四年もいたのにお菓子だけだなんてことはしたくない。碧はそう考えていた。
実家の近くのモールのマッサージ店で足マッサージによく行くと言っていた神嶋には、そこのギフトカードを八千円分。
スターバックスやタリーズなどでよくお茶をすると言っていた野上には、それらの店のギフトカードを八千円分。
いつも側に行くとクッキーのにおいがする、と碧が言っていた舟知は、髪にココナツオイルを使っていると言っていたから、シャンプー専門店に行って高い洗髪剤を。
そして一番世話になった各務には、外反母趾が痛いと言っていたから、外反母趾矯正プロテクターという、プラスチックの矯正器具と、身体が乾燥してかゆくて仕方がないと言っていたので、ローションやいい香りのするオイルを。
河西には、朝早く市場に行くから肌に負担がかかるだろうと思い、碧が時々使っている韓国製のツボ草の泥パックと、マスクパックをセットであげた。
「宇藤さん。こんなことをしてくれるパートさんは、宇藤さんが初めてよ」
各務が笑いながら言ってきたが、碧は、
「いやあ、お世話になったので。時々お花買いに来ます」
と言って返した。
「新井さん、いつもおやつ食べてる新井さんには、これ」
「えっ、私にも?」
新井は売り場の人間だが、いつも昼食の時間が一緒なので仲良く話していた。アイスを食べたりチョコを食べたり、彼女はいつもおやつを食べていた。
そこで碧は、輸入品を扱っている店に行って、自分がアメリカにいた時に食べていて好きだったお菓子を買って渡した。
「好きかどうかはわからないけど、おいしいやつです」
新井は中身を開けて、早速試食し始め、
「どれどれ……わー確かにおいしい。なんか、アメリカっぽい味」
と、喜んでいる。
一月は暇な季節なので、そう忙しくはない。シフトも少なく、帰りも早くすんだ。
一月最後の日の昼休憩の時、各務が、
「宇藤さん宇藤さん」
と声をかけてきて、
「これ。みんなから」
「えっ、なんですか」
「退職と結婚のお祝いに」
と、袋を渡してきた。恐らくは、お菓子かなにかであろう。
「わーありがとうございます。帰って彼と食べます」
「元気でね」
「はい。時々遊びに来ます」
仕事終わり、碧はロッカーを整理して、自分の園芸用のシザーケースやダウンジャケットを鞄にしまうと、いつものようにみんなより先に帰った。
帰宅すると、黒木はもう家に帰っていて、食事を作って待っていた。
「おかえり」
「ただいまー。今日で仕事が終了です」
「四年間、おつかれさま」
「お菓子、みんなにもらっちゃいました。あとで食べましょう」
「お、いいね。まずはお風呂行っておいで」
食事をしながら、黒木は言った。
「俺のわがままで仕事辞めさせちゃって、ごめんね」
「正直連勤辛かったから、これでよかったかも。毎日イラスト描けるし、ゆっくりいこうと思います」
それに、と碧は言った。
「無職に飽きたら、またどこかでバイト始めればいいかなーって。派遣とかでもいいし」
「そうだね。結婚して落ち着いたら、それもいいかもね」
「そういえば、ドレス着たところ見たいですか」
「見ない。ドレスも見せないで」
「えー」
「本番まで、とっておきたい」
「変なの」
「俺はちゃんと感動したいの」
その時、黒木のスマホのメッセージに着信があった。
「誰だろう」
彼は画面を確認して、おや、という顔になった。
「どうしたんですか」
「警察にいた時の、同僚からだ」
「おまわりさん?」
「プライベートで、どうしても助けてほしいことがあるって。明日事務所に行くって」
「おまわりさんが探偵に仕事の依頼……?」
碧は首を傾げた。
「なんでしょう」
「さあね」
「なんてひとですか、そのひと」
「相澤っていうんだけど、いい奴だよ。警察とは思えないくらい、純情なんだ」
「そんなひとが麻薬取締部にいて大丈夫なんでしょうか」
などと言っていると、またスマホに着信があった。
「碧ちゃんにも会いたいって言ってる。式に出られるかどうか、わからないからって」
「五課のひとたち、招待したんですよね」
「一応ね」
「でも仕事柄、来られるかどうかわからないんですよね」
「組織犯罪対策課だからなあ」
「じゃあ、行こうかなあ」
「そうしてくれると、助かるよ。なんだかすごく困ってるみたいだし」
それで、翌日の昼頃二人で事務所に行くことになった。
相澤は一時頃やってきて、扉を開くなり、
「黒木ーなんとかしてくれ。困ってるんだ」
と泣きついてきた。あらら。碧は挨拶をするタイミングを失って、どうしようかな、と飛び込んできた相澤を見守るに徹している。
「まあまあ落ち着け相澤」
黒木は相澤を座らせると、碧に、
「碧ちゃん、こいつ俺の元同僚の相澤徹」
と言った。相澤はそれで初めて碧がいることに気がついたらしく、
「えっ? あっ、彼女さん……」
「馬鹿。婚約者と言え」
「う、すまん」
「宇藤碧です」
「あ、相澤です。どうも」
碧がお茶を淹れている間、黒木は相澤に話を聞いた。
「お前が俺のところに来るっていうのはどうしたんだ。しかもプライベートって」
「二週間前のことなんだ」
相澤は話し始めた。
昼下がりの道を歩いていた相澤は、道のむこうから花束を持った女性がやってくるのをみとめた。その花の量の多さもさることながら、その女性の美しさにも、彼は目を奪われた。
思わず足を止めていると、その女性と肩がぶつかった。
「あ」
「これは失礼」
彼女の持っていた花が何本か落ちて、相澤は慌ててそれを拾った。
「申し訳ありません」
「いえ」
その時、彼女がしているピンク色の真珠の指輪に、目がいった。
「きれいな指輪ですね」
すると、女性は嬉しそうに、
「ありがとうごさまいす。念願かなってやっと手に入れたものなので、そうして褒めていただくと嬉しいです」
と微笑んだ。そのやさしい微笑に相澤はぼーっとなってしまい、
「これで失礼します。この花を早く活けてしまわないと」
と女性が立ち去って、
「あ、え、あの」
と、声をかけることがとうとうできず、それきりとなってしまったというのである。
「一目惚れか」
黒木は言った。
「そうなんだ」
相澤は赤くなった。
「お前らしいな」
「そうなんだ」
「なんか、手がかりはないのか。なんか」
「ないんだ」
「名前とか、聞かなかったのか」
「聞いてない」
「お前なあ」
黒木は呆れて、ソファに寄りかかった。
「名前もわからない、どこから来たのかわからないんじゃ、話にならんぞ」
「あれから、あの辺りを歩いてみたんだ。でも、いっこうに姿が見えないんだよ。探偵は人探しもやるだろ。頼まれてくれよ」
「うーん」
お茶を出した碧が、
「その女のひとがしていた指輪って、どんなのですか」
と尋ねてきた。
「え? ああ、真珠ですよ。ピンク色の」
「ピンク?」
碧は思わず聞き返した。
「それは、確かに真珠ですか」
「うん。あれは真珠だと思うけどなあ」
「どんな指輪か、教えてもらえますか」
「ダイヤがこう、周りにぐるっと」
「ダイヤ?」
碧がなおも声を上げると、
「どうしたの碧ちゃん」
「……」
碧はちょっとなにかを考えて、
「獅郎さん、メモ帳ありますか。なんか、書くもの」
「ああ、あるよ」
と黒木に紙とペンを持ってこさせると、
「相澤さん、これに、その指輪の絵を描いてもらえますか」
「あ、ああ。俺は絵が下手だからうまく描けないけど、こんなんだったなあ」
相澤が大きな丸の周りに小さな丸を描いていくと、碧は、
「取り巻きが?」
と呟き、
「ちょっと描いてみますね」
と自分で描いてみた。
「こんな感じですか」
碧なりにイメージした、ダイヤに囲まれた真珠の指輪のデッサンをさっと描いてみた。
「ああ、そうそう。こんなやつ。君絵うまいなあ」
「獅郎さん、なんとかなりそうですよ」
「え?」
「その真珠、私の勘が正しければ、ただ者じゃないです」
碧は言った。
「これ、多分コンクパールです」
「コンク……?」
「超がつくほど希少な、もうほとんど市場に出回っていない真珠のことです。昔はもっとあったんですけど、元々食用だったので乱獲されてしまって、もうないんです」
「そういや、念願かなってやっと手に入れた、って言ってたんだろ。そりゃ相当探して、待った結果のことなんじゃないのか」
「確か、そんなこと言ってた」
「碧ちゃん、その真珠、どうやったら手に入るかな」
「うーん、宝石やさんでも取り扱ってるとこは少ないと思います。片っ端から当たっていくしかないんじゃないでしょうか」
「都内の宝石店をくまなくか。おい相澤、喜べ。俺一人でもなんとかなるぞ」
「ほ、本当か」
「課長には内緒だぞ」
「依頼料はきちんと払うよ」
「当たり前だ」
相澤は両手で黒木の手を握り、碧にも何度も礼を言って、勇んで帰っていった。
「ありがとう碧ちゃん。おかげでなんとかなりそうだよ」
「その女性、見つかるといいですね」
「相澤のことは、なんとか助けてやりたい。俺が潜入捜査をしていて色々と辛い時も、あいつは影ながら支えて力になってくれていたんだ」
黒木はパソコンで、コンクパールのことを少し調べてみた。
巻き貝で食用であった歴史があり、ヨーロッパで重用されたが、乱獲がたたって近年ではほとんど見ることのできない、幻の真珠といわれているものだとされている。
これは難題だとパソコンを睨んでいると、碧が横からそれを覗いてきた。
「過去にコンクパールを取り扱ったことがあるお店を聞いてみるといいですよ」
「ん?」
「一度でも取り扱っていたら、また取り引きがあるでしょうから。あの女性もそういうつてを頼ってそういうお店で買ったんでしょうしね。でも、さすがに顧客情報までは教えてくれないだろうしなあ」
「とりあえず、お店だけでも探してみるよ」
次の日から、黒木は真珠を取り扱う店などを重点的に回って、コンクパールを過去に仕入れたことはないかと聞いて回った。しかし、希少な宝石であることには間違いがないため、どの店でも首を振られた。
二週間が経つ頃、相澤がもう一度やってきて、
「どうだい、みつかりそうかい」
と様子を見に来た。
「都内の店をしらみつぶしに当たっているが、今のところゼロだ」
「そっかあ……」
がっくりとうなだれる相澤に、黒木は慰めるつもりで言った。
「まあまあ、まだ会えないと決まったわけじゃないんだから。この後彼女と飯行くんだけど、一緒に行くか」
「いや悪いよ」
「いいよ。そんなこと気にする子じゃないし」
階段を上ってくる足音がして、扉を誰かがノックした。
「あ、ほら来たよ」
「獅郎さん。あ、こんにちは」
「碧ちゃん、相澤も一緒に飯行くって」
「あ、いいですね。大勢の方が楽しいですよ」
「ほらな」
「じゃあ……」
三人で夜の街を歩いていると、相澤はかなり思い詰めているようである。
「せめて名前だけでも聞いておくんだった」
「まあそう落ち込むなよ」
ある通りにさしかかると、相澤はなにかに気づいたように顔を上げた。
「ここだよ。彼女に会ったのは」
と、そこにあった花屋の扉が開いて、誰かが出てきた。
その花束を抱えた女性を見て、相澤が立ち止まった。
「あ……あ」
彼女を指差して固まる相澤を見て、女性の方も立ち止まった。
「あら……? 私、この間あなたに勤め先を言いましたかしら」
「い、いえ。いいえ、知りませんでした。で、でも」
「でも?」
「ずっと、探していました」
「えっ?」
会いたくて――
「相澤、ここじゃなんだから、この辺でお茶でもどうだ」
「あ、彼女さえよければ」
「は、はい」
赤くなってうなづく女性を見て、黒木はなんだ、脈ありじゃないかと見ていた。
近くの喫茶店で、四人はお茶をしながら話をすることにした。
女性は、榛名佳恵と名乗った。
「この指輪を頼りに私を……? まあ」
「珍しい指輪なので、すぐに見つかると思いました」
佳恵はうなづいた。
「昔、一度だけこのコンクパールを見たことがあって、すっかり心惹かれてしまったんです。このばら色に」
「ばら色……確かにそうですね。ピンクだけど、ピンクとは言い難い、ばら色という形容がぴったりです」
「私、その頃悩んでいて。習い事で始めたフラワーアレンジメントの先生に、もっと本格的にやってみないか、生徒もどんどん紹介していける、って言われて。でも、銀行員という手堅い職を手放していきなり独り立ちできるのか不安で、どうするかずっと考えていたんです」
「それはそうですよね。いきなりは、難しいです」
「だから、賭けに出たんです」
「賭け……?」
「もしこの期間の間にコンクパールの指輪が手に入ったら私は運がいい、きっと新しい仕事もうまくいく、って」
「あ……」
「それで、仕事を思い切って辞めて、こうしてフラワーアレンジメントの仕事をしているんです」
「その時に相澤に会ったというわけなんですね」
相澤は真っ赤な顔をして佳恵と向かい合った。
「お、俺、ふだんはこういうことはしないんですが……」
もじもじとしている彼に、佳恵は言った。
「私、お見合いをお断りしたばかりなんです。本来なら、こういうことはしないつもりだったんですけど……」
と彼女も頬を赤らめてうつむくので、黒木は馬鹿馬鹿しくなって、
「碧ちゃん、行こう」
と席を立ち、
「相澤、ここはお前のおごりだぞ」
と言って、碧を促して店を出た。
碧は残された二人を振り返りながら、
「ふふ。うまくいきそうですね、あの二人」
「そうだね」
と、二人で夜の街に消えていった。
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