第11話



 十二月がやってきた。するめを避妊手術させるために、一日入院させた。するめは翌日、腹にサポーターを巻かれて帰ってきて、

「なんかモードっぽくなって戻ってきたね」

 と碧が言った。

 毎日寒くて、センターは暖房が入らないため、従業員たちはダウンを着て仕事をした。

 寒がりの碧は、ゲレンデ用の発熱素材を使った肌着を着てその上にカシミアのセーターを着、パシュミナのストールを首に巻いて足首までのカシミアのコートを着て職場に行った。下腹部と肩に『地獄級』という最高温度70℃のカイロを貼って、職場に着くとロッカーにしまってあるダウンを着てからエプロンをつけた。

 そうしてセンターに下りていくと、暖房がついていないので外と同じ気温である。

 暖房がついていると花が咲いてしまったり萎れてしまうため、暖かい空気はご法度なのだ。

 雪が降ったりすると、みんな手をこすり合わせて、

「寒いですね」

 と言い合った。それくらい寒い職場だった。

 シフトには、二十日から連勤とある。今年も十連勤だ。

 こんなに寒くて、だいじょぶかな。碧は危機感を覚える。特に碧の生理予定日は月の終わりにかけてなので、疲れがピークに達した頃に生理が来るので要注意だ。

 連勤四日目、身体がだるかった。変だな。疲れてるけど、まだそんなに根を詰めてるわけじゃない。四日目でだるかったら、あと六日もやってられない。頑張らなくちゃ。

 翌日もその翌日も、仕事は八時過ぎまで続き碧は九時頃帰宅してきた。黒木は案じ顔で碧を待っていて、黙って食事を温めて、浮腫んだ足を揉んでやった。

 二十九日の仕事終わり、身体がだるくてだるくて、碧は岩のように重い身体をようやくのことで家まで持っていくと、倒れるようにベッドに横になった。

「大丈夫?」

「なんか、しんどいです」

「お風呂、沸いてるよ」

「入ります。入るけど、身体が動かない」

「明日、行けそう?」

「行かなきゃ」

 碧は疲れた顔で起き上がると、

「お手洗いに行ってきます」

 と言って立ち上がった。

 ふらふらとトイレに向かうその後ろ姿を見て、ほんとにだいじょぶかな、と黒木は心配になった。碧は、長い間出て来なかった。

「獅郎さん」

 碧が青い顔で出てきたとき、ようやく出てきた、とくらいしか、黒木は思わなかった。

「どうしたの碧ちゃ……」

 言いかけて、黒木は絶句した。

 戸口にしがみつく碧の、その足から血が滴り落ちていたからである。

「碧ちゃん」

 その夥しい量に、ただの出血ではないと黒木は直感した。碧がずるずるとそこに座り込むのと同時に、黒木は走り寄った。

「大丈夫?」

「おなか、いたいです」

「生理、じゃないよね」

「もっと、ちがう痛さ。なんか、ちがう」

「病院行こう。タクシー、ううん、救急車呼ぶから」

 碧は青い顔をして黒木を見上げた。彼はスマホを取り出して、救急に電話している。

 身体に力が、入らない。手が震える。

「立てる?」

「……立てない」

 黒木は碧を抱き上げて、ベッドまで運んだ。そして彼女を着替えさせると、碧の鞄を持ってきて、

「すぐに救急車が来るからね」

 と言った。

 十分くらいすると、表でサイレンの音が聞こえてきて、チャイムが鳴らされた。黒木が玄関まで出ていって、救急隊員たちを部屋に入れた。

「意識はあります。ただ、立てないみたいで」

「今は大丈夫です。立てます」

「無理しないでください。我々が運びますから」

 碧は担架に乗せられて、救急車に乗って近くの総合病院に連れて行かれた。

 黒木は待っている間、気が気ではなかった。ただの、過労でありますように。働きすぎでありますように。そう祈っていた。

 病室から医師が出てきて、

「身内の方ですか」

 と彼に聞いた。

「婚約者です」

「そうですか。ではお話ししましょう。ご本人にはもうお伝えしましたが……」

 と、詳細を話した。

「――稽留流産?」

 黒木は信じられない思いで聞き返した。

「元々、育っていなかったので遅かれ早かれこういう結果になっていたでしょう。ご本人が気がつかないうちに妊娠して、そんななかで過酷な環境で重労働をしていたために流産したというのが本当のところでしょうな。言うなれば、働きすぎです」

「……そうですか……」

「胎児はまだ形になっていないので、そのまま排出されるでしょう。少し休んだら帰っても大丈夫ですよ」

 医師が行ってしまってから、黒木は病室に入った。

 碧は横になっていたが、彼が入ってくると起き上がろうとした。

「獅郎さん」

「あ、起きないで。寝てて。安静にしてなくちゃだめだよ」

「平気ですよ。入院しなくていいって言われたんだし、もう帰っていいって言われたし」

「聞いたよ」

 黒木が言うと、碧はなんでもないようにこたえた。

「びっくりしましたね。自分でも気がついていなかったから、流産って聞いてもそんなにショックじゃないみたい。それより、帰らなきゃ」

 この期に及んで明日に備えようとしている碧を見て、黒木の語調が強くなった。

「碧ちゃん」

 碧が、動きを止めた。

「仕事、辞めてほしい」

「――」

「お願い。仕事、辞めて」

「獅郎さん……」

「碧ちゃんがあの仕事好きなのはよく知ってる。職場のひとたちのこと好きなのも知ってる。でも、同じくらい傷ついてるのも知ってる。また同じことがあったら、どうするの。

 また流産なんて、俺嫌だよ」

「……」

「勝手なこと言ってるのはわかってる。でも、たまには俺のわがままも聞いて。お願い」

 喉から血が出るような、低い心の叫び。

 彼のこんな余裕のない姿を見るのは、初めてだった。

「……わかりました」

 碧は起き上がると、

「とりあえず、帰りましょう。もう遅いですし」

 とベッドから抜け出した。

「立てる?」

「もうだいじょぶです」

 そうして帰宅して、思い出したように食事をして、遅ればせながらに入浴して、その日は眠った。

 翌朝、碧は職場に昨晩救急車で搬送されたことを伝えて、今日は休む旨を言うと、そのまままた眠った。

 みんなより一足早い、連勤の終わりだった。

 その夜、黒木は碧と話し合った。

「ちょうどいい機会だから、ちゃんと話しておこう」

「なにを?」

「子供のこと」

 そう言われると碧は、困ったような顔になった。そのことには、触れられたくないような表情だ。

「結婚するんだから、いつかは通る道だよ」

「……」

 みつめられて、碧は思わず面を伏せた。

「私は」

 彼女は言った。

「私は、自分の子供なんか残さない方がいいと思います。発達障害は、遺伝します。もし私たちの子供が発達障害だったら、私と同じ苦労をさせることになる。なるべくなら、そんなことはさせたくない。そんな道は、歩んでほしくない」

「でも、そうじゃない可能性だってあるよ」

 碧の手にそっと自分の手を置いて、黒木はやさしく言った。

「それに、誰しもみんななにがしかの苦労は背負いこむものだよ。俺の場合は、親だった。 俺たちの子供がそうだったら、それがたまたま、発達障害なだけ。福祉も今は、充実してるしね。それに」

「それに?」

「俺は碧ちゃん、いい母親になると思うけど」

「――」

 碧は顔をそらした。

「だめですよ。部屋は散らかすし、服は片づけないし」

「俺が掃除するよ。服は俺が畳む」

「植物はすぐに枯らすし、ポストは郵便物溜めちゃうし」

「植物なんてなくたって誰も死なないよ。ポストは俺が見ればいい」

「そ、それに、それに」

「それに?」

「……それに」

 これ以上言うことがなくなって、碧は観念した。

「……自信ありません」

「最初っからあるひとなんて、いないよ」

「……」

 二人はその後もよくよく話し合って、結局今まで通り避妊はしていこう、自然な流れに任せようということになった。

 そうしてこの年が終わった。

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