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地下二階の書庫には、古い図書や劣化の激しい図書が保管されている。歴史的価値がある図書、というわけではなく退職した教授から寄贈された図書が、大半を占めているらしい。需要がなさそうに見えるが、そうでもないらしく、今日もこの階にあるはずの図書が見つからないと、問い合わせがあり探しにきた。
利用者から渡されたメモを元に、図書を探そうとしたが、請求記号に不足があることに降りてきてから気づいた。これでは図書が見つからないのは当たり前だ。請求記号を調べようと、スマートフォンを取り出したが、圏外なことを思い出し、ポケットに戻した。九重は諦めて、メモから推測して図書を探すことにする。使用不可の棚にある図書ではありませんようにと祈る。
無事図書を発見し、戻ろうと電動書架を出ると、甘い匂いがするのに気付く。呆れと共に溜め息を吐きだし、甘い匂いの方向へ進む。その先では、案の定書架を眺めながら、堂々と菓子パンを貪る男が立っていた。服装からして男子学生だろう。
「すみません、図書館での食事は禁止されています」
九重がそう声を掛けると、男子学生はあからさまに不快そうな顔をした。渋々といった様子で、菓子パンを袋に戻して、九重の横を通り書庫の出口へ向かった。すれ違う際に、パンを咀嚼しながら器用にも舌打ちをしていった。
うんざりした気分で一階にあるカウンターに戻り、探し出した図書をカウンターで待っていた女性の利用者に渡すと、礼もなく、中をパラパラと眺め始めた。そのまま読むならと、九重が離れようとすると、
「思っていたのと、違ったので戻しておいてください」
といって図書をその場に置き、九重がなにかをいう暇もなく、女性利用者はさっさと図書館を退館していった。一部始終を見ていた十条寺が愉快そうな顔でいう。
「くたびれ損ですね、九重さん」
「それをいうなら、骨折り損のくたびれ儲け、だ」
「細かいなぁ。そんなだから、眉間の皺が濃くなるんですよ」
「濃くもなるさ」
九重は地下書庫で発見した、菓子パンを食べていた男子学生の話をする。
「ここは図書館だぞ。パンを食うな」
波立つ心を抑えつついうと、十条寺は不思議そうな顔をしている。
「変ですね。書庫から出てきた男子なんていませんでしたけど」
「え?」
「出てきた男性は九重さんだけでしたよ」
「そんなわけないだろ」
九重は男子学生の特徴を伝えるが、十条寺は首を振るばかりだった。そして、十条寺は真剣な顔になる。
「ひょっとして、九重さんが見たのって」
十条寺は言葉を切る。嫌な間だ。九重が唾を飲み込むのと同時に十条寺がいう。
「先週亡くなった卒業生なんじゃないですか?」
九重がなにかいおうと口を開こうとするが、十条寺は、
「わ!」
と脅かしてきた。九重が身体ビクつかせたのを見て、大層愉快そうにケラケラと笑っている。このクソガキが、と殴りつけたい衝動をこらえる。
「ここは図書館だぞ。騒ぐな」
十条寺は笑い過ぎたのか、目元に浮かんだ涙を拭い、カウンター内のモニターを指差す。
「いいじゃないですか。なんと、現在この図書館の滞在者数は一名です」
ちょうどその時、カウンターの前を通過して、退館ゲートに向かう人影があった。先程地下で菓子パンを食べていた男子学生が鞄を持って出て行ったのだ。
九重が十条寺を睨むと、十条寺は素知らぬ顔で「ゼロ」と呟いていた。
九重の働くK大学図書館では、一週間前に地下書庫二階で死亡事故が発生した。
死亡したのは、この大学の卒業生である田中という男性らしい。事故当時、図書館の一階にあるカウンターで九重と十条寺は働いており、第一発見者は閉館作業の為に地下へ向かった十条寺だった。
息を切らして、カウンターに戻ってきた十条寺が真っ青な顔で「人が潰れて死んでいる」といった姿は、今でも記憶に新しい。被害者は電動書架に挟まれて圧死しており、電動書架の安全装置が上手く作動しなかったのだろう、というのが十条寺の感想だった。
すぐに、警察や救急を呼び、大騒ぎになった後に図書館は休館となった。休館の間、警察による実況見分や事情聴取が行われた。当然、九重や十条寺も事情聴取を受けることになり、事細かなことを繰り返し尋ねられた。
警察の捜査が一段落した後、今度は電動書架のメーカーの人間が何人もやってきて、現場を確認していたらしい。不具合を疑われたメーカーは相当慌てたに違いない。自社の製品で死亡事故が起こったとなれば、最悪の不祥事だ。入念な調査が行われたと思われる。
そして、捜査や調査が一段落したころ、事故現場に立ち入らないなら、という条件で図書館は開館することとなり、その初日が今日だった。
館内の人数がゼロになり、十条寺は人目をはばからずに伸びをした。着けているエプロンが胸によって押し上げられている。三つ編み眼鏡に、グラマー体形というオタクの夢を詰め込んで、具現化されたような姿の十条寺はこの大学の三年生だ。今年の四月からアルバイトで働き始めて、九重との付き合いも四か月程度である。だが、頻繁にシフトに入っているので、九重とシフトが被ることが多く、四か月にしては随分打ち解けた印象だ。要領が良く、仕事の覚えが早いので非常に助かっているが、九重のことを舐めているのが唯一の不満だった。
「それにしても、来館者ゼロって私がバイト始めて初ですよ」
伸びをやめて、十条寺はカウンターに頬杖をついていう。
「僕が働き始めてからも初めてだ」
九重は昨年からここで働いている。夏休みや冬休みなどの長期休暇は来館者が減るが、流石にゼロになることはなかった。
「夏休みに加えて、死亡事件とくれば人が来ないのにも納得ですけど」
「やっぱりそれが原因か」九重はそう呟いてから気づく。「事件?事故じゃなくて?」
「あれ、知らないんですか?刑事さんはそういってましたけど」
「聞いてない」
九重たちの事情聴取をした刑事は、一人は眼鏡をかけた神経質そうな相模という刑事で、もう一人のガタイの良い若手の刑事は大野と名乗っていた。相模とはちょっとした知り合いだが、それを十条寺にはいっていない。下手なことをいえば、また職を失いかけない。
「九重さん疑われてるんじゃないですか?」
「なんで僕だけが疑われるんだ。そんなこといったら、君の方が怪しいじゃないか」
事件の日、九重が地下書庫に行ったのは、十条寺の発見した死体を確認しに行った時だ。第一発見者の十条寺の方が余程怪しい。
「九重さん、酷いですね。私が殺人犯だっていうんですか」
十条寺は下手な泣き真似をしている。と思えば、すぐケロリとした表情になる。
「でも、それはあり得ないんですけどね」
九重が首を傾げると、十条寺が説明してくれる。
「あのガタイの良い刑事さん曰く、死亡推定時刻は十八時頃らしいです。その頃、私と九重さんはカウンターにいたので、犯行は不可能なんですよ」
「そんなことまで教えて貰ったのか」相模は一切そんなこといっていなかった。「事情聴取を受けたのは事件のすぐ後だったのに、その時には死亡推定時刻がわかってたのか?」
「いや、聞いたのはあの日じゃないです」十条寺はスマートフォンを取り出す。「LINEで教えて貰いました」
「刑事とLINE交換したのか」九重の声が思わず大きくなる。
「情報収集の為に一応交換したんですけど、結構色々教えてくれるんで重宝してます」
九重の頭にも色々といいたいことが浮かんだが、取りあえず飲み込んだ。
「情報収集って、なんの為に」
「決まってるじゃないですか。殺人事件なら犯人を突き止める為ですよ」
「君は探偵になりたいのか」
「ホームズ超恰好良いですよね」
皮肉だったが伝わらず、十条寺はうっとりした顔をしている。そういえば、前にシャーロックホームズについて熱く語られたことを思い出した。憧れから、ホームズの真似事をしようというのは、子供の考えだなと思う。とはいえ、刑事から情報を得ることに成功しているなら、資質はあるのかもしれない。
「それで、刑事から他にどんな情報を得たんだ?」
「なんだ。九重さんも気になるんじゃないですか」
「自分が働く図書館で殺人が起きたとなれば気になるだろう」
「それなら、そうですね。九重さんをワトソン博士に任命してあげましょう」
「僕はワトソンなのか」まぁ役割などどうでもいい。「それで名探偵、事件の詳細は摑んでいるのか?」
十条寺は「ノリノリですね」とからかうようにいうが、本人もノリノリで話し始めた。
「いいだろう、ワトソン君。事件は八月十日の十八時にK大学図書館の地下書庫二階で起こり、被害者は電動書架と壁に挟まれて圧死した。現場の状況から、事故を疑われたが、メーカーの調査から事故ではない可能性が高いことがわかった。その理由は、電動書架にある強制移動ボタンだ」
「ボタン?」
十条寺は頷く。
「そう。君も知っての通り、電動書架の側面には棚を動かすボタンがある。そのボタンがある部分のカバーは取り外しが可能で、裏には棚を強制的に移動できるボタンが取り付けられている。調査の結果、その強制移動ボタンが押されていた形跡があることがわかった」
「刑事は、そこまで教えてくれたのか」
九重も強制移動ボタンがあることは当然知っているし、使ったこともある。地下の電動書架は導入から何年も経っているので、本の自重で歪みが出て、たまにボタンを押しても書架が移動しないことがある。そういう時、強制移動ボタンで棚を動かし調整することがある。勿論、その時には棚の周囲に人がいないことをよく確認してから使う。まさか、それが殺人に使われるとは思わなかった。
「それだけじゃない」十条寺は指を左右に振る。「あの事故があった日。地下書庫に入ったのは、被害者と女子学生、非常勤の男性講師の計三名がいたが、地下二階に入ったのは被害者だけで、他の二人は地下一階の書庫に入っていた姿が防犯カメラで確認されている。つまり、被害者以外、地下書庫二階にはいなかった」
「被害者以外に誰も行ってないなら、事故の可能性もない」
「そうだ。仮に事故だとしても、ボタンを押す人間がいなければならない。しかし、そんな人間がいないのに、被害者は電動書架に潰されたのだ」
不思議だろう?と十条寺はエア口ひげを撫でながらいう。
十条寺の話が事実なら、被害者は勝手に動き出した電動書架に潰されたことになる。だが、電動書架にそんな機能はないし、不具合が起こったならメーカーが調査で気づくはずだ。となれば、犯人がいたはずだが、カメラには映っていないらしい。
地下書庫に向かうには、階段とエレベーターのどちらでも向かうことができるが、どちらを選んでもエレベーターホールを通過することになる。防犯カメラはエレベーターホール全体を映し、書庫の入り口とエレベーターの扉、どちらも映るような画角で設置されている。他に書庫への入り口もないし、カメラに映らないように中に入れるような死角もない。防犯カメラに細工でもしない限り、カメラに映らずに書庫に入ることは不可能。加えて、防犯カメラは天井に設置されており、脚立にでも登らないと細工は難しく、そんなことを開館中にしていれば、すぐにバレるだろう。
エアパイプをふかしている十条寺に九重は訊く。
「十条寺くん、地下二階には被害者以外誰も行っていない。そういったね?」
「ああ、グレグスン警部がいうんだから間違いない」
どうやら大野という刑事はグレグスン警部になったらしい。となれば相模はレストレード警部にしよう、と心の中で勝手に決める。
「それなら、答えは一つ。被害者の自殺なんじゃないか?なんらかの方法で、強制移動ボタンを自分で押した。だから、通路に頭は出ていた」
九重の記憶では被害者の頭は電動書架のボタンが見える方向に出ていて、右腕も通路の外に出せる体勢だったはずだ。片腕があれば、強制移動ボタンを押すことができる。
「いいや、自殺はあり得ない。現場にはそれを証明する二つが発見されている」
十条寺のなりきりホームズに更なるエンジンがかかる。九重が「二つ?」と尋ねると、十条寺は指を二本立てた。
「一つは付箋とメッセージ。現場には[少し遅れる、このまま待て]という付箋が残されていた。また、被害者のスマートフォンには、匿名で被害者を呼び出すメッセージが届いていた。付箋とメッセージは犯人がいたことを示している」
これも刑事から聞いたのだろう。
「付箋やメッセージから犯人を特定することは?」
「出来なかったらしい。付箋は定規で書かれたようで特徴はなく、メッセージもプリペイド携帯で送られていたらしく、特定は困難らしい」
「もう一つは?」
「被害者は死の間際に、左手で壁にメッセージを残していた。指を切っていたらしく、血文字で書かれていたそうだ」
メッセージ、と九重は呟きはっとした。
「ダイイング・メッセージ」
九重と十条寺の声が重なり、十条寺は頷いてスマートフォンの画面を見せてくる。どうやら大野が撮影した写真を送って貰ったらしい。大野の情報リテラシーの低さが心配だ。写真には地下書庫の壁が映っており、血文字で[11 ono]と書かれているようだった。
「なんだこれ?」
九重がいうと、十条寺は首を振る。
「私もさっぱりだ。グレグスン警部も同じで、私に心当たりがないか尋ねてきた、という訳だ。初めて見た時は、請求記号ではないかと疑ったが、恐らく違うだろう」
図書館の図書には、請求記号というものが割り振られている。図書館によって多少の違いはあるが、K大学図書館では日本十進分類法と呼ばれるもので分類されている。十条寺のいうように、請求記号は数字やアルファベットで構成されているので、ダイイング・メッセージはそれに近いものように見えるが、図書を示すには明らかに数字などが足りていない。一応、カウンターのパソコンで近い図書がないか蔵書検索システムで調べてみたが、なにもヒットはしなかった。
「自殺でダイイング・メッセージを残すことはないだろうし、呼び出された証拠もある。犯人は存在すると考えていいだろう」
十条寺はスマートフォンを仕舞いながら、頷いている。
「ホームズの推理は?」
十条寺は悩ましげに顎を撫でている。
「難しい」
なんとも頼りない名探偵である。九重は水を向けてみる。
「犯人が現場にいなかったなら、遠隔でボタンを押したんじゃないかい?」
十条寺は首を振る。
「不可能だ。強制移動ボタンのカバーを外して、押しボタンを押す。この一連の動作を遠隔では無理がある。それに、強制移動ボタンは一度押しただけでは、棚はわずかに動くだけだ。人を押し潰すなら、ボタンを押し続けなければならない。なにより、そもそも地下書庫には電波が届かない。あそこが圏外であることは、君も知っているだろうワトソン君」
なりきりホームズの考えは思ったより論理的で明快だった。頼りないと思ったことを訂正する。
「遠隔でボタンを押すのは不可能だから、犯人は現場にいたことになる。しかし、防犯カメラにそれらしき人は映っていない。その矛盾をどう解消する?」
十条寺は意味ありげに笑い、指を一本立てた。
「さっき難しいといったが、仮説が一つだけある」
九重が「それは?」と訊くと、十条寺は頷いた。
「犯人は最初から地下書庫にいたということだ」
「最初から?」
九重が続きを聞こうとすると同時に、図書館に利用者が入ってきた。十条寺が小声で「続きは後で」といった。
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