第19話 「素敵な贈り物」



 ――花の香りがする。



 エマを抱きかかえながら、ルークは周囲を見渡した。


 天蓋から降り注ぐ月光。わずかに肌に感じる涼しい風。


 夜を迎えた庭園に、人の気配は感じられない。



 ルークが放った氷魔法の残骸は、誰かによって片付けられて無くなっていた。


 砕けてえぐれている石造りの通路を見て、今まで起きたことは夢ではないのだと再確認する。



「お花……今日も綺麗?」


 そう彼女に尋ねられて、よく眺めていた星夜草レイシーの淡い光に目を向けた。


 その光は、ルークが抱いている小さな希望を表すように心許なく揺れている。



「ああ、綺麗に咲いているよ」


「そっか。あのお花の匂い……すごく好きだったな」



 エマを横たわらせる場所を探して、いつものガゼボに向かう。


 よく彼女が寝そべっていたピンク色のソファー。


 そこに優しく寝かせると、エマは小さな声で呟いた。



「あのね、私たち……ここで会ったのが初めてじゃないの」


「え?」



 エマと神殿以外で会ったことがある……?


 その言葉に驚いて答えられないでいると、エマは笑って言った。




「ふふ、きっとルークは覚えてないだろうけど……。一年前、紙灯籠ルーチェが空を飛んでいたあの日。――私たち、街で会ってたんだよ」



 一年前。紙灯籠が空を飛んだ日は、聖女が選ばれる前年の祈祷祭のことだ。


 あの日に出会っていたなんて……どうして今まで忘れてしまっていたんだろう。



***



 『この国の平和が続きますように』――


 祈祷祭にはそういう意味が込められているが、ルークは祭りに興味はなかった。



「わぁー!」


「ルティアス様に届きますように!」



 人間の子供から、大人まで。


 晴れた空に紙灯籠ルーチェを飛ばして、その度にあちこちで歓声が上がっている。




 人々の喧騒や、煉瓦の家が連なる街の雰囲気も落ち着かない。


 儀式に関わる者として参加を命じられていたが、早くも帰りたい気持ちが募っていた。




「ここは……何処だったか」


 街の賑わいから離れた街路。背の高い建物に囲まれた路地裏で、ローブを深く纏ったルークは辺りを見渡す。


 黄色の外壁が続いている。誰かが植えているであろう、草花の鉢植え。


 空を見上げると、たくさんの紙灯籠が建物の隙間を横切って飛んでいくのが見えた。


 あれは魔法ではなく、ただ願いを象徴したもの。


 人の想いには……何の効力もないのに。


 そう思っていた――



 グッ……


「……ッ!」



 後ろから、ローブを引っ張られた気がする。


 振り返ってみると、知らない人間の子供にローブを掴まれていた。



「……離せ」


「ふッ……うぇーんッ……お母さぁんッ……」


「……ッ!?」



 涙を拭いながら泣き声をあげる子供に、思わず狼狽うろたえてしまう。


 この子供は、どこから現れた……?


 胸が少しザラザラとするが、人間の扱い方がよく分からない。


 しかも、腰に頭が届く大きさしかない子供と関わったことなど、ルークは今まで一度もなかった。


 そこに駆け寄ってくる、軽い足音がする。



「どうしたの?」


 教会の鐘が響いたような、透き通った若い女の声。


 気付けば、麻色の紙袋を持った若い娘が立っていた。


 風に揺れるヘーゼル色の髪。真っ直ぐと見つめてくる、紫色の瞳。


 焦げ茶色の膝丈ワンピースに、白いエプロンを身に纏った娘。



「もしかして、迷子?」


「……あ、ああ……」



 平然と話しかけてきて、娘は躊躇うことなく近付いてくる。


 面を食らったルークが顔を伏せると、泣いている子供に話しかける娘の声がした。


 彼女は扱いに慣れている様子だった。すぐさま泣きやんだ子供の様子で、すぐに分かる。



「一緒にお母さんを探しに行こう?」


「ありがとう、お姉ちゃん!」



 まるで、魔法をかけたようだった。


 見た目は普通の人間のはずなのに……。




「あなたは大丈夫? 道に迷っているなら、一緒に街の中心まで連れて行きますよ?」


 フードの中を覗き込んできた、彼女の瞳と目が合う。


 僅かに目を見開いて、息を呑んだ娘。



 その見慣れた反応に、ルークは少しだけ心が沈んだ。


 おそらく僕の姿が異質で気味が悪いから、彼女は言葉を失ったんだろう。



 娘の問いに答えることなく、足早にその場から立ち去るために歩き出した。


 居場所なんて何処にもないって、そんなことは分かっていたはずだったのに。



 「……あ! あなたにも、ルティアス様の加護がありますように!」

 


 遠くから誰かの声が聞こえた気がする。


 しかし、その場から離れることにしか考えていなくて、振り返ることなく闇雲に進み続けた。



***



 あの日に出会った娘がエマだったなんて。


 去り際に君の名前を聞いていたら、もっと早く気付けたかもしれないのに。



「私……あの日からずっと忘れられなかったんだ。ルークと目が合った瞬間、あまりに綺麗で声が出なくて……神様みたいって思った」


「……そんな風に思ってくれたんだ」



 あの頃の自分は、まだ知らなかった。


 見た目で判断をしない人間がいることを。



「……名前だけでも聞いたら良かったって、何度も後悔した。でも、またルークと会えて思ったの。これは神様からの、最後の贈り物なんだって」


 

 そう言って微笑む彼女を、ルークはもう一度だけ抱きしめた。


 神様からの贈り物。


 それはきっと、僕ではない。


 

「エマ……」



 神からの贈り物は――君だよ。

 

 君がいるだけでこの世界が明るくなる。


 僕の闇を照らしてくれた光。


 今度は……僕が君の希望になる番だ。





「……そろそろ始めようか」


「うん、わかった……」



 エマから体を離し、彼女の髪を撫でた。


 石畳の冷たい床の上。親指の皮膚を噛み千切り、大きな赤い円と文字を刻む。


 古代から伝わっている、ラオル文字の術式。


 赤黒く染まる床は、他者から見れば生々しくおぞましいものに映るだろう。


 しかし、ルークは刻みながら思ったのだ。



 古代魔法は恐ろしいだけじゃない。


 これは、願いや想いの強さの色なんだ、と。




 指が石畳に擦れる度に痛みが走る。それでも、エマが背負った痛みに比べたら耐えられた。



 血文字を描く音だけが、穏やかな空気の庭園で異質に響いている。



「――ルーク」


「……ん?」


「あなたと出会えて幸せだったよ。本当にありがとう」


「……まるで遺言みたいだな。今から助けようとしてるのに」


「ごめんね。……どうしても言いたかったの」



 その声を噛み締めるように鼓膜で拾いながら、エマと自らを囲うほどの巨大な魔法陣を描き上げた。


 ソファーの前で膝をつき、両手で印を結ぶ。


 詠唱を始める直前。ふと彼女に視線がいく。



 静かに胸を上下させて、懸命に今を生きているエマの姿を。


 失敗すれば――もう二度と見られなくなるかもしれない。


 刻み付けるように見つめていると、エマが口角を上げて呟いた。



「……大好きなルークに、ルティアス様の加護がありますように」



 響いた言葉に、胸が温かくなる。


 ただ純粋に祈りを返したくなった。



「……エマに、ルティアスの加護があらんことを」



 加護の言葉を復唱してから、ルークは魔法の詠唱を始める。


 口から流れるように溢れ出していく、契約の言葉。


 それは、聖女の儀式の時とは違う。


 紅色の光文字が宙を浮かんでいく。


 床に描いた魔法陣が発光して、幾重にも天に重なった。



 何重にもかけられた魔法。空気が震える。


 願った数だけ、赤い魔法陣が宙に増えた。



 ――この世界から、彼女を救えますように。



 二人を包む光が強さが増していく中で、ルークの脳裏に浮かんでいたのは……



 ただただ、笑顔を浮かべるエマの顔だった。



***



「…………」



 見たこともない、石造りの天井。


 気付けば、殺風景な部屋のベッドに寝かされていた。


 備え付けられた窓から差し込む光は明るく、眩しくて思わず目をこする。



 ガチャッ――



「お前さん! 目が覚めたのかッ!!」


 木製の扉が開かれて、赤毛の男が足早に入ってくる。


 焦ったような、安心しているような表情。


 ……何をそんなに慌てているんだろう。



「なかなかあの子の食事を取りに来ないから、神徒が不審がってな。庭園に行ってみたら、お前らは倒れてるし……何をやってるんだよ、ほんとッ……」


「あ、あの……」


 まくしたてるような彼の声に戸惑いながら、疑問を口に出す。




「あなたは……どちら様、ですか?」



 目の前にいる男は、その問いに微動だに動かなくなった。


 信じられないと。見開いた瞳を真っ直ぐに向けてくる。



「ルーク……お前ッ……もしかして、記憶を失っちまったのか……?」




「……ルークって、誰?」




 世界が軋む音がする。


 ……自分の名前さえ、もう分からない。



 ルークはこの日――全ての記憶を喪失した。


 



 



 

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