第7話 「世界から消えるまで」
『第53代、聖女アレストリア。彼女が最初に失ったのは視覚だった。部屋の中で闇雲に暴れ回り――』
古びた本に書かれた、聖女の記録。
手持ちのランプの明かりを頼りに、ルークは真剣な顔つきで読んでいた。
静まり返った、夜の神殿の書庫。
背の高い木製の本棚に並べられた、たくさんの書物。
その数だけ、聖女たちが存在したという事実が垣間見えた。
ここに訪れる者がいないせいか、埃っぽい空気が立ち込めている。
小さな窓が付いているが、それすら誰も開けていないんだろう。
細長い指で文章を追い、何か得られないかと焦りが募る。
エマを見ていると、心臓に爪が立てられたように苦しくなるのは何故だろう。
彼女が苦しんでいるのは、僕のせいだから?
感覚が喪失していく姿を、見ていられないから……?
『第53代、聖女アレストリア。彼女が次に失ったのは――』
過去の冷たい記録。
『――次に失ったのは聴覚だった。以上』
起きた事象を淡々と報告する文章だった。
聖女たちがどれだけ苦しんで葛藤したのか。
寄り添う事柄は一切書かれていない。
「次に彼女が失うのは……どれなんだろうな」
言葉に出して、また胸がざわめき出す。
観察者として。執行官として。
聖女の近くで、最後の瞬間まで見守るのが自分の役目なのに。
儀式はもう止められない。
世界の平穏を保つために、エマの犠牲は必要だと頭では分かっている。
それでも、微かな疑問が湧き上がってきた。
本当に……犠牲にしていいのか?
見守るだけでいいんだろうか……?
ルークの葛藤を表すように、ランプの光が心もとなく微かに揺れていた。
***
《※エマ視点》
「あのね、ルークが今日ね……」
夜の湯浴み室で、エマは白い頭巾を被った侍女に聖水で洗われていた。
あられもない姿のエマの髪を、淡々とした動作で洗う侍女。
かけ流した水が床を跳ねる音。
髪のこすれ合う感触と音しか感じられないほど、静かだった。
そんな空虚を埋めるために、エマは今日あったことを喋り続けていた。
侍女から反応がなかったとしても。
返事がなくても、全然構わなかった。
静寂の中で不安が押し寄せて――押し潰されてしまいそうだったから。
「でもね……彼、ずるいんだよ……」
彼と繋いでいた掌を見つめ、不満そうに呟く。
あの時を思い出すだけで、エマの顔に熱が帯びていく。
そして、ルークの優しい灰色の瞳が。
心が震えるほど、優しい声が。
繋いだ彼の手の温かさが――頭から離れない。
心臓が未だに激しく高鳴っている。
ルークは、私をどう思ってくれてるのかな。
「……何で私のこと。綺麗だなんて、言ってくれたんだろう……」
そうエマが呟いた途端――髪を洗う、侍女の動きが止まった。
石畳の床に、水滴が小さく跳ねる音がする。
侍女に対して抱いた僅かな違和感に、エマはゆっくり彼女の顔を見上げた。
「ヴェルエラ……どうしたの?」
「……いえ。何でもありません」
顔に付けていた仮面のせいで、エマは彼女の感情を読み取ることは出来なかった。
滑らかな白い陶器のような素材の仮面は、瞳の揺らぎや視線を感じさせない造りになっている。
口元は固く結ばれていて、彼女の気持ちが全く分からなかった。
再開された淡々とした動作。エマは微かに疑問に思いながらも、前を向き直す。
仮面の裏側で。
ヴェルエラがエマを睨みつけていることには気付かずに――
***
翌朝。エマが目を覚ますと、空が明るみ始めた頃だった。
「……無事、今日も朝が来たんだね」
エマは小さな声で呟く。
聖女の私室は白いベッドしか置かれていない、殺風景な部屋だ。
石畳の冷たい壁と床。備え付けられた小さな窓。
正確な時間は分からないけど、
今のところは、まだ目は見えている。
自分が動く、些細な布擦れの音も聞こえる。
そんな小さなことでさえ、確かめてしまう。
「今日は、何がなくなっちゃうのかなッ……」
そう言って、真っ先に浮かんだのはルークの姿だった。
もしも、今日消えるのが……視覚だったら。
彼の柔らかく微笑んだ顔を見ることも、もう視線を交わすことも出来なくなる。
もしも、今日消えるのが聴覚なら……
優しい彼の声が、二度と聞けなくなるんだ。
想像するだけで、胸が苦しい。
そんなことになったら……耐えられない。
どうか。……お願い。
神様、お願いです。
……あと、もう少しだけ。
まだ、私から奪わないでください。
彼との時間を……もう少しだけ。
あとは何もいらないから……。
ベッドから起き上がり、姿勢を正して座る。
胸の前で手を重ね合わせ――目を閉じた。
「……ルティアス様の加護がありますように」
しっかりとした口調で祈りを捧げる。
どうか、神様に届きますように。
彼と残された時間が少ないのは分かってる。
それでも、強く願ってしまう。
この気持ちが、世界から消えるまで――
どうか、彼のそばに居させてください。
***
ここまで本作をお読み頂き、本当にありがとうございます!
第2章の『Day 2 〜崩れ始めた幸せ〜』はここで区切りとさせて頂きます。
『エマ、切ない……!』
『ルーク……もう儀式は止められないの?』
『ヴェルエラ、最後の視線は何!?』などなど。
感想を応援コメントで頂けましたら、大変励みになります。
是非、今後とも宜しくお願い致します!
夜月 透
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