『魂の継承:あるいは同性愛規範について』
冒頭
アテナイの牢は、夜明け前の最も暗い気配に沈んでいた。湿った石壁、遠い松明の光。だが中央に集う弟子たちの間には、死を退けるような熱があった。
鉄格子の向こうでクリトンが看守に銀貨を滑らせる。おかげで、毒杯の刻まで、私たちは師と語れる――。
鎖から解かれたソクラテスは、いつものように裸足のまま、粗末な寝台に腰掛けている。その顔に、死を前にした男の絶望はない。あるのは、ただ、目の前の若者たちの魂に向けられた、深く、そして穏やかな眼差しだけだった。
「――パイドン」
ソクラテスは、うつむきがちな若き弟子の名を、静かに呼んだ。
「君たちの顔は、まるで古い家を打ち壊したはいいが、新しい家の建て方を知らず、雨風に晒されている建築家のようだ。異性愛規範という古い家の軛からは解き放たれたはずなのに、その目に宿るのは解放の喜びではない。君たちは、自由という名の荒野に立ち、そこがただ安易な快楽へと至る道しかないことを、恐れているのだね?」
パイドンと呼ばれた青年は、顔を上げた。その目には、深い苦悩の色が浮かんでいる。「はい、ソクラテス。恐れています。なぜなら、私たちは、あの裁判で、自分たちの信じてきた価値がいかに脆い砂上の楼閣であったかを、師ご自身の手によって思い知らされたからです。対等性も、多様性も、純粋な愛も、そのことごとくが師の問いの前で崩れ去りました。それらはすべて異性愛社会の言説空間で捏造された『同性愛の素晴らしさ』に過ぎなかったのです。その結果、我々は、異性愛規範の軛から自由になったと同時に、拠って立つべき全ての足場を失ってしまいました。今、我々がいるのは、何の道標もない、ただの荒野です。そして、その荒野で、仲間たちが刹那的な快楽に溺れていくのを見るにつけ、いつか自分もその流れに呑み込まれてしまうのではないかという恐怖に苛まれるのです。その果てにあるのが、あなたがかつて論じた『空虚さ』だけであることが、はっきりと分かってしまうのです」
ソクラテスの隣に座るクリトンが、パイドンの言葉を引き継ぎ、重々しく口を挟んだ。「その通りだ。何が善く、何が悪いのか。何が気高く、何が卑しいのか。その基準がなければ、我々の愛は、ただの獣の交わりと、何ら変わるまい。同性愛者の実態がそのようなものであれば、我々は社会の中でどう見られる? 無秩序な欲望の集まりだと、再び蔑まれるだけではないのか? 我々の尊厳を守るためにも、我々自身で、確固たる規範を打ち立てねばならんのだ」
「確固たる規範、か」ソクラテスは、その言葉を、まるで初めて聞くかのように、口の中で転がした。
「皆も、クリトンの意見に賛成かね?」
周囲の若者たちは、力強く頷いた。そうだ、我々には規範が必要なのだ、と。その声なき声が、薄暗い牢獄に響いた。古い規範を「解体」した今、我々がすべきことは、新たな規範の「構築」なのだ、と。
皆の顔に、新たな使命感に燃える、高揚の色が浮かぶ。そうだ、我々には我々のための法が必要なのだ、と、牢獄の重い空気の中で、一つの希望の炎が燃え上がったかのようだった。もはや荒野に迷う旅人ではない。我々は、新たな都市の、最初の立法者なのだ。だが、その熱気を冷ますかのように、壁際に座っていたケベスが、苦渋に満ちた声で、呟いた。
「……しかし、ソクラテス。そこにこそ、私たちの、最も深いジレンマがあるのではないですか?」
皆の視線が、彼に集まる。正義感の強い青年ケベスは、顔を上げて続けた。
「規範、ですって? ソクラテス、それは、あるべき姿を定めることで、同時に、そこから外れる者たちを『逸脱者』として断罪する、冷たい刃ではありませんか! 私たちは、異性愛規範という牢獄の中で、『異常』の焼印を押され、あれほど苦しんできた。その私たちが、今度は、自分たちの手で、新たな牢獄を築き、適合できない仲間たちに、同じ焼印を押すというのですか? それは、かつての奴隷が、自由になった途端、新たな奴隷を求めるのと同じ、最も救い難い行為ではありませんか!」
その言葉は、冷たい水のように、若者たちの熱狂に浴びせられた。
そうだ。厳格な規範を打ち立てれば、必ず、そこからこぼれ落ちる者たちが生まれる。かといって、誰も排除しない、緩く、甘い規範に、果たして人々を導く力などあるだろうか。
高揚は、一瞬にして、重い沈黙へと変わった。
ソクラテスは、ケベスの言葉を、静かに、そしてどこか満足げに聞いていた。彼は、沈黙する弟子たちの顔を一人一人見渡し、そして、ゆっくりと口を開いた。
「……ようやく、見えてきたようだね。諸君」
その声は、牢獄の湿気を切り裂くかのように、凛と響いた。
「我々が挑もうとしている仕事の、その本当の、そして途方もない困難さが。一つの規範では、必ず誰かが排除される。だからこそ、我々が目指すべきは、唯一絶対の規範の樹立ではない。複数の、多様な規範を築き上げることだ。ある規範には適合できぬ者も、別の規範には、自らが輝ける場所を見つけられる。そのような、誰一人としてこぼれ落ちることのない、規範の星座を創造するのだ。……よろしい。それこそが、我々の進むべき道だ。議論を始めよう。私たちの、最後の対話を。同性愛者のための、煌めく規範の星座を、この手で築き上げるために」
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