ソクラテス愛好会

清水啓哉

ソクラテス × アルキビアデス(上)

 前置き


 プラトンの『饗宴』は世界最古の恋愛論です。

『饗宴』の中で登場人物たちは、恋愛についての持論を語ります。そのとき彼らが恋人として念頭に置いているのは主に少年や青年たちです。古代ギリシアにおいて、成熟した大人の男性と、まだ成人前の青年や少年との間には、教育的・道徳的指導を含む特別な関係が成立していました。ソクラテスをはじめとした知識人たちの間には、「男同士の関係」こそが最も高貴な恋愛の姿だ、という価値観があったのです。


『饗宴』には、アルキビアデスという、「才色兼備、名門の出、世俗的な名誉」を兼ね備えた最強の青年が登場します。そして、その彼がよりにもよって「容貌は冴えず、貧乏で風変わりなオッサン」のソクラテスに惹かれてしまい、しかも振られるという、ユーモラスな展開が語られます。

 この展開に着想を得て、オッサンがモテまくる世界線を描いてみることにしました。




 1.廃墟の街の最強美青年


 廃墟と化した都市・アテネシティでは、不良グループ同士が絶え間ない抗争を繰り返していた。彼らが奪い合うのは「特Aランクのオッサン」たち。

 なぜオッサンが貴重なのか──その理由を知る者はもういない。ただ確かなのは、この世界で“オッサンの有無”こそがグループの勢力を左右するという事実だけだ。特Aオッサンを奪われたグループは求心力を失って瓦解する。


 荒れ果てた街路を今日も不良たちが走り、オッサンたちは追われるように逃げ回る。そんな混沌とした世界に、単独で闘い抜く青年が一人いた。


「アルキビアデス」──最強の美青年。


 徒党を組む必要などない。圧倒的な力と美貌を兼ね備えた彼は、これまでに六人もの特Aオッサンを奪い取り、いくつものグループを壊滅させてきた。

 そんな彼を巡ってまことしやかな噂が街に流れている。

 ───夜は奪ったオッサンたちと淫らに愉しんでるそうだ。あいつは、オッサンたちに自分を犯すよう命令し、失神するまでヤリまくるんだ。綺麗な顔して、とんでもねぇ、淫獣だよ。

 ───奴の尻の穴はまるでブラックホールだな。どんなイチモツにも満足しねえ。このアテネ・シティを丸ごと呑み込むつもりさ。


 だが、アルキビアデスの眼差しはいつもどこか虚ろだった。




 2.不良グループの抗争


 ある夕刻。街はずれの廃ビルで、新たな抗争が勃発していた。

 一人の特Aランクのオッサンを巡り、ふたつの大きな不良グループが衝突。オッサンは「やめてくれぇ……! オジサンもう体力の限界だよ!」と必死に逃げようとするが、両方のグループから取り押さえられそうになる。


「そのオッサンはウチらのもんだ!」

「バカ言え、先に目ェ付けたのはこっちだ!」


 両陣営が乱戦状態に陥った、そのとき──突然、ビルの階下から静かな足音が響く。

 現れたのは、美青年・アルキビアデス。狂ったオッサン蒐集家である彼が、新たな獲物を求めて、今回の抗争に割って入ろうというのだ。


「そいつを渡してもらう。お前らに拒否権はない」


 わずかな言葉とともに、アルキビアデスは鮮やかな身のこなしで二つのグループを蹴散らしていく。ボス格の青年同士が立ちふさがるも、あっという間に撃退され、オッサンはアルキビアデスに拘束されてしまう。


 敗れたボスは悔しさのあまり地面を叩く。オッサンは「家に帰らせてくれぇ! 見たいテレビがあるんだあ!」と懇願する。だが、アルキビアデスは無慈悲にも一言も返さない。そして泣き叫ぶオッサンを連れ去っていく。


「またアルキビアデスが奪っていった……」 残された不良たちは口々に不満や不安を呟く。

「クソ……、ひでぇオッサン日照りだ!」

「もう何か月も、モブおっさんのアレすら口にしてねぇ……」

「俺たち、これからどうなっちまうんだ……」

 オッサンを奪われたグループは、やがて瓦解の道をたどる。いつかは自分たちも──。そんな暗い恐怖が、街を支配していた。




 3.アルキビアデスの失恋


 アルキビアデスは街で最強の美青年と謳われている。しかしその胸中には、誰にも言えない痛みがあった。

 かつてまだ幼かった頃、彼はとあるオッサンと出会った。その男は“ソクラテス”と名乗り、貧乏で風変わりな変人だった。

 なのに、アルキビアデスはソクラテスに心を奪われた。ソクラテスの知的誠実さが眩しく、その発言には黄金の価値があるように感じられた。少年だった彼は“最初の体験はこの人以外あり得ない”と思い詰めるほど、一途な愛を抱いたのだ。

 そんなアルキビアデスをからかうようにソクラテスは言った。

「君は愛くるしい見た目で大層おモテになるようだ。だが、私だけは君の見た目ではなく魂を愛している。だから、君を本当に愛しているのは私だけさ」

 耳元でささやかれ、まだ幼いアルキビアデスは頬を紅潮させ、押し黙るのだった。


 しかし──

 大きく成長し、名実ともに最高の美青年に育ったアルキビアデスが意を決してソクラテスを誘ってみると、相手は振り向いてくれなかった。

「君はまだ若い。まるで弟のようだよ」

 あの夜、アルキビアデスが勇気を振り絞って体を密着させても、ソクラテスは手を伸ばさなかった。

 天上から落とされたような羞恥と失恋に、アルキビアデスは心を壊されてしまう。


 それ以来、アルキビアデスは闇の道を歩き始めた。

 ソクラテスに抱きしめてもらえない寂しさを埋めるため、彼は執拗にオッサンを手に入れ、夜な夜な己の欲望を満たす。それでも心は満たされず、次々にグループの特Aオッサンを奪いながら、凶暴化していった。



 4.世界の崩壊と最後の特Aオッサン


 オッサンが減っていくにつれ、不良グループ同士の抗争は激化する。みな、最後まで特Aオッサンを保持しようと血眼だ。

 特Aオッサンの奪い合いがあまりにも過激化し、街は無法地帯と化していく。ついには大規模な連合が結成され、「これ以上アルキビアデスに好き勝手させてなるものか」と、最後の特Aオッサンを守るため決起した。


 決戦の地となった廃墟の中央広場で、アルキビアデスと各グループの連合軍が激突。

 最強の美青年に対して集団で立ち向かう彼ら。当初、アルキビアデスの常人離れした戦闘能力に絶望的かと思われたが、不良たちは何度倒れても起き上がり、立ち向かっていく。「オッサンを返せ!」、「オッサンに会いたい!」。不良たちのオッサンへの熱い想いがアルキビアデスを追い詰め、ついに膝をつかせる。

「アルキビアデス……ここで終わりだ!」

 連合軍の一員が止めを刺そうとしたその刹那、最後に残った特Aオッサンが制止する。


「アルキビアデスよ。僕を手に入れても、君は満足できないだろう? 本当に求めているのは、いつも裸足のあの人じゃないのかな?」

「なぜ、それを……」

 決して靴を履こうとしなかったソクラテス(なぜなんだろう?)、その姿が脳裏に浮かび、アルキビアデスは一瞬動揺し、そして泣き崩れる。




 5.ソクラテスとの再会


 傷心のアルキビアデスは、ソクラテスがいるという噂を耳にする。どうやら、とある友人の家で祝賀会が開かれており、そこに招待されているらしい。

 失恋の記憶を振り払えずにいたアルキビアデスは、「ダメもとで、もう一度……」と決意し、わざと酔っぱらったふりをして恥ずかしさをごまかし、その会に踏み込んだ。


 部屋の奥にいたのは、相変わらず風変わりで、一見頼りなさそうなオッサン──ソクラテス。

 しかし、彼の周囲には不思議な空気が漂い、多くの参加者がソクラテスの話に耳を傾けている。ゆるい祝賀会の雰囲気がさらにソクラテスの言葉を柔らかく包んでいた。


 アルキビアデスは酔ってよろめいた振りをし、ソクラテスに寄りかかる。

「オッサン、ちょっとオレの話を聞いてくれないか? あんたに用があるんだよ」

 周りが好奇の目で見守る中、ソクラテスは静かに微笑む。

「君か……久しぶりだね。ずいぶん荒れていたみたいだが、大丈夫かい?」


 アルキビアデスは言葉に詰まる。久々に間近で見るソクラテスの姿は、相変わらず冴えない格好だけど、胸が締めつけられるほど懐かしくて愛おしい。

「今さら心配する振りなんかしやがって……。オレはあんたが振り向いてくれなくて、ずっとずっと……」

 震える声で、アルキビアデスは長年の想いを吐き出す。怯えを隠すように荒々しく振る舞ってきたが、本当の自分はただソクラテスに愛されたかっただけなのだ。


 ソクラテスはアルキビアデスの手をとり、穏やかに微笑む。

「あの夜、君に触れなかったのは、君があまりにも美しく、大切で……どう接していいのかわからなくなったからなんだ。僕も君を愛していたよ。けれど、恐れていたんだ。君の美しさに飲み込まれるのをね」


 アルキビアデスの目から涙が溢れる。長年のわだかまりがほどけていくようだった。

 祝賀会の参加者たちは、息をのむ。二人の視線が重なり、やがてソクラテスとアルキビアデスは微かな笑みとともに口づけを交わした。

 その瞬間、周囲からは大きな拍手と歓声が巻き起こる。




 6.そして、ふたりは……


 人々に祝福され、ソクラテスとアルキビアデスはしっかりと互いを抱きしめる。

 二人はようやく想いを通わせたのだ──はたから見ても「熟しきったオッサン」と「最強の美青年」というギリシア的理想を具現化したペアだった。二人に見とれる人々は、自然と目を潤ませ、官能的なため息をつくのだった。


 その夜、ふたりは互いの愛を確かめ合う。

 寝椅子に座った青年からはいつもの虚勢が消えていた。素直な心持ちで、しなだれかかる青年の身体をオッサンは力強く抱きしめた。抱擁と愛撫の中で、青年はふと思った、普段のオッサンの情けない態度は、大人が子供とじゃれあいでわざと負けてあげるのに似てるのかもな、と。


 夜が明ける頃には、街での抗争はなりを潜め始める。アルキビアデスから解放された特Aオッサンたちは、一部を除き、もといたグループに帰っていった。バトルの元凶だったアルキビアデスをみんなが許すかどうかはわからない。だが、少なくとも今は、多くの者が再会したオッサンと愛し合うのに忙しいようだ。街は一時の安寧を謳歌していた。


 そこには、ソクラテスという不思議なオッサンと、彼を心から慕ってやまないアルキビアデスの姿がある。

「あなたが望むなら、オレ、なんだってできる気がするよ」

 アルキビアデスは照れくさそうに言い、ソクラテスは微笑み、優しくキスをする。


 荒廃したアテネシティの朝日が、二人を優しく包み込んだ。

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