第6話 秘書見習いの覚悟
静かな夜の龍宮。
リビングの灯りは暗く落とされ、広い空間に微かな影を落としていた。
ソファには一人、男が座っていた。
彼の手は額を覆っている。
誰もが尊敬する偉大な指導者。絶対の権力を持つ総統閣下。
しかし、今ここにいるのはただの、一人の疲れた男性だった。
重い沈黙が流れる。
彼の背中はいつもよりも僅かに沈み込み、その姿には明らかに疲労と孤独が滲んでいた。
そんな彼のもとへ、軽い、小さな足音が近づく。
「失礼します、閣下」
囁くような声。
それは、彼にとってまだ「見習い」に過ぎない少女のものだった。
総統がわずかに眉を動かし、顔を上げようとしたその瞬間――
ユキナは、そっと彼の背中に抱きついた。
「――っ」
総統の肩がわずかに強張る。
彼は誰からも畏敬の念を抱かれ、四天秘書でさえも慎重に接する存在だった。
そんな彼に、こんなにも無防備に触れる者は、これまで誰もいなかった。
「……父が疲れているとき……昔……いつも……こうしていました」
ユキナの小さな手が、そっと彼の胸元に添えられる。
その頬が、優しく彼の背中に触れた。
まだ幼さの残る温もり。
それは、ただ甘えるためのものではなく、労わり、寄り添おうとする純粋な想いに満ちていた。
「閣下……お疲れさまです。国のために……国民のために……本当に……ありがとうございます」
彼女の囁きは、どこまでも穏やかで優しかった。
「わたしは……ちゃんと……わかっていますから」
そして、嘘偽りのない、純粋な想いに満ちていた。
閣下は一瞬、息を呑んだ。
しかし、次の瞬間、彼の肩の力が、少しずつ抜けていく。
驚きとともに、彼の中でなにかがほどけていった。
誰にも見せることのなかった疲れと孤独。
それが、ユキナの温もりに包まれ、ほんの少しだけ和らいでいく。
やがて、彼は静かに目を閉じた。
四天秘書の献身とはちがう、純粋で無垢な温かさ。
計算も駆け引きもない、ただそこにいることが支えになる、そんな存在。
心が静まる抱擁。
そんな中――
「――っ⁉︎」
「――えっ⁉︎」
猛スピードで階段を駆け降りてきた四天秘書たちが、呆然と立ち尽くしていた。
「――嘘でしょ?」
「……閣下?」
ラァーラとソニアが、信じられないものを見るように目を見開いた。
サクヤは無言のまま立ち尽くし、チェルシーの口は半開きのまま止まっている。
彼女たちは、理解できなかった。
どんなに考えても、どんなに尽力しても、彼の疲れを拭うことができなかった。
それなのに、今、ユキナの腕の中で、閣下はまるで穏やかな眠りについているかのように目を閉じている。
彼の眉間の皺が、わずかに緩んでいた。
「……え? ……なんで?」
チェルシーの声は、困惑に満ちていた。
「……わたしたち……あんなに考えたのに……」
ラァーラが静かに呟く。
サクヤはなにも言わず、ただじっと、その光景を見つめていた。
四天秘書たちは悟る。
――理屈ではなかったのだ、と。
計算や戦略、完璧な計画や理論ではなく、ただその存在を認めること。
それが、彼にとっての安らぎだったのだ。
そして、それに最初に気づいたのは、彼女たちではなくユキナだった。
ユキナは、四天秘書たちの視線に気づいていた。
しかし、ユキナはなんの誇らしさも、優越感も抱かなかった。
その心には、今、閣下への純粋な「想い」以外、なにもなかった。
「……ユキナちゃん……」
ソニアが、静かにその名前を呼ぶ。
「……へぇ〜。やるじゃなぁ〜い」
ラァーラが唇を歪めながら、どこか悔しそうに笑う。
「……す……すごい!」
チェルシーの目がキラキラと輝く。
サクヤはなにも言わなかった。ただ、静かに立ち尽くしていた。
だが、その瞳の奥には、揺らぐものがあった。
――その夜。
総統閣下が寝室へ戻ったあと、リビングにはユキナと四天秘書だけが残っていた。
「……すごいよ、ユキナちゃん!」
チェルシーが感嘆の声を上げる。
「私たち、あんなに考えたのにねぇ〜。ユキナは、ただ抱きしめるっていう単純な行動で、閣下を癒してしまったわぁ〜」
ラァーラが肩をすくめる。
「……そうですわね。ユキナちゃん。あなたのやり方は、わたくしたちの発想にはありませんでしたわ」
ソニアが、しみじみと呟く。
「……閣下は……ひとりにしてほしいって言っても……強がってるだけなんです。弱い姿を……見せたくないから」
ユキナは、静かに口を開いた。
「……」
サクヤがじっと彼女を見つめる。
「わたしの父が……いつもそうでした」
その言葉に、四天秘書たちは耳を傾ける。
ユキナの父。
貧困母子家庭出身の、内務省エリート官僚。
責任を背負い、家でも決して弱音を吐かなかった男。
家族の柱。
「父は……どんなに疲れていても……わたしと母には『大丈夫』って言っていました。……でも……わたしはわかっていました。本当は『大丈夫なんかじゃない』って。心が悲鳴をあげていたことを。だから……子供のわたしはいつも父をそっと抱きしめていました。……なにも言わずに。……ただ……わたしがそばにいることを伝えるために。『大丈夫だよ、ここにいるよ』って、伝えるために。絶対に、ひとりにさせないために」
「……なるほどねぇ〜」
ラァーラが頷く。
「たぶん……閣下も同じなんです。お姉さまたちの前ですら……強がろうとしている」
「なぜ、そう思うの?」
サクヤが真剣に問う。
「閣下が『男性』だからです」
ユキナの答えには一瞬の迷いもなかった。
「っ!」
その言葉に、四天秘書たちははっと息を呑んだ。
彼女たちは、閣下を「日之国総統」として見ていた。
でも、彼はそれ以前に一人の「男性」でもあった。
男としてのプライド。
決して弱さを見せてはいけないという社会的プレッシャー。
そしてなにより――孤独。
それを、ユキナは理論や理屈ではなく、本能的に理解していたのかもしれない。
「……そっか」
チェルシーが納得するように頷く。
「……私たち、そこまで考えてなかったわねぇ〜」
ラァーラが苦笑する。
「……もっと、閣下の気持ちを考えないといけないですわね」
ソニアが静かに言った。
沈黙が落ちる。
その中で、サクヤが静かに立ち上がった。
彼女は誰とも目を合わせず、ただ窓の外を見つめたまま、静かに呟いた。
「――ときには……理論よりも直感のほうが正しいこともある……」
それは、ユキナへの賛辞だった。
ユキナは驚いたようにサクヤを見上げる。
サクヤの中で、確実になにかが、揺らいでいた。
静かな夜。
ユキナはベッドの上で膝を抱えていた。月明かりがカーテンの隙間から差し込み、部屋の中をぼんやりと照らしている。
ふと、枕元のスマホを手に取る。
考えるよりも早く、指が父親の番号を押していた。
数コールの後、重みのある低い声が電話の向こうから響いた。
『――ユキナか』
「お父さま!」
わずかな沈黙の後、彼女は言葉を続けた。
「聞いてください! 今日、閣下をハグで癒しました!」
『――は?』
「ほら、お父さまが疲れているとき、いつもわたしがしていたでしょう⁉︎ それと同じように――」
『――それで?』
「――えっ?」
『その後、どうなった? そこが肝心だ』
「いや……そのあとは……別に……」
受話器の向こうで、父がため息をついたのがはっきりと聞こえた。
『――ユキナ。おまえはもっと、自分の今いる状況の幸運を実感しなさい』
彼の声には冷静な威圧感があった。彼はいつも理論的で、感情を表に出さない。
『おまえが今いる場所は、普通なら一生手に入らない場所だぞ。龍宮にいるのは絶好の『機会』だ。無駄にするな』
「――っ」
ユキナは息を呑んだ。
父の言葉は彼女の胸を強く圧迫するようだった。
「……どうすれば?」
『決まっているだろう』
父は言い放った。
『今すぐ閣下の部屋へ行き、閣下に身を捧げなさい。閣下をその身に刻むんだ』
その言葉に、ユキナの喉がびくりと震えた。
「――お、お父さま……それは……」
『ユキナ、おまえは乙女だ。四天秘書ですら、閣下に初めてを捧げた者は少ない。清純で美しいおまえがその身を捧げれば、閣下も喜ぶ』
父の言葉が鋭く突き刺さる。
ユキナは拳をぎゅっと握りしめた。
『――ユキナ。おまえは四天秘書をも凌駕する存在になりうる。閣下の妻になれる可能性だってある。だから精一杯、閣下のために尽くせ。今までのおまえの人生は、この瞬間のためにあった』
「っ……!」
『いいか、ユキナ。俺と夏子の将来もかかっている。おまえの行動に、俺たちの未来がかかっているんだ』
心臓が速くなる。思考が追いつかない。
『がんばってこい、ユキナ。役目を果たせ。おまえならできる。おまえは、父さんの子だ』
その声は強く、揺るぎないものだった。
「……はい」
ユキナは震える声で応えた。
『ユキナ。おまえにしかできない。おまえは、一族の誇りだ。それを決して忘れるな』
その言葉が最後に響き、電話は切れた。
ユキナはしばらくスマホを握りしめたまま、動けなかった。
「――本当に……わたしにできるの?」
彼女は立ち上がり、恐る恐る、クローゼットの扉を開く。
中にかかっているのは、父が選び、母が用意した「とっておき」のナイトガウン。
上質なシルクが月明かりを受けて輝いていた。
その下にある、慎ましくも繊細なレースの下着。
まだ、一度も着たことのない下着。
震える指で、それをそっと取り出した。
「――っ……! ……やらなきゃ! ……やらなきゃ! ……お父さまとお母さまが……見てるんだもん!」
深く息を吸う。
もう、迷っている暇はなかった。
ユキナは、覚悟を決めた。
ユキナは、扉の前で小さく息を吸った。
深夜の静けさが、心臓の鼓動をより大きく感じさせる。
(本当に……これでいいの?)
体に纏ったのは、父と母が選んだ、とっておきのシルクのナイトガウン。その下には、細やかなレースの装飾が施された、純潔を守る白い下着。慎ましくも、それを纏うことで彼女は意識せざるを得なかった。今夜、自分がなにをしようとしているのかを。
『今までのおまえの人生は、この瞬間のためにあった』
『おまえの行動に、俺たちの未来がかかっているんだ』
父の言葉を頭の中で繰り返す。
繰り返す。
繰り返す。
何度も。
何度も。
自分がぶれないように。
恐怖を塗りつぶすために。
疑う心を殺すために。
「――っ」
ユキナは躊躇いを押し殺し、震える指で扉をノックした。
コン、コン……
数秒の静寂の後、低く冷静な声が中から響く。
「――サクヤか。入れ」
その一言に、ユキナの肩がピクリと震えた。
彼女は扉をゆっくりと押し開ける。
そこは、まるで別世界のようだった。
重厚な木製のデスク、整理整頓された書類の山、書棚に並ぶ膨大な本。そして、その中央に座る――閣下。
彼は広い机に向かい、淡々とキーボードを叩いていた。青白い光が画面から漏れ、彼の横顔を照らしている。
――まるで、過去の父の姿と重なるようだった。
(お父さまも……いつもこうだった……)
若い頃の父もまた、夜遅くまで資料を作り、デスクに向かい続けていた。
幼かったユキナは、それを見ながら「お仕事ばかりしないで!」と何度も言った。
あのときの父は、微笑むことなく、「あと少しだ」とだけ答えた。
「ユキナです。失礼します」
「……そうか」
ユキナは、小さく息を呑む。
「閣下……お休みにならないと」
ユキナはそっと告げた。
しかし、閣下は画面から目を離さないまま、淡々と答える。
「あと少しだ」
――まるで、父と同じ。
そう思うと、胸が締めつけられた。
「――っ」
ユキナは、手のひらを強く握りしめた。
そして、意を決して一歩踏み出す。
「……閣下」
それでも彼はふりむかない。
ユキナは、目を伏せ、震える指でナイトガウンの前をそっと解いた。
シルクの生地がふわりと肩から滑り落ちる。
柔らかな布が床に落ちる音が、部屋の静寂の中に溶ける。
彼女の肌に触れるのは、薄く繊細なレースだけ。
夜の冷たい空気が素肌を触り、微かな鳥肌が立つ。
胸元を押さえながら、彼女は声を絞り出した。
「っ…………閣下……わたしを……見て……ください……」
その言葉で、総統の指がぴたりと止まった。
部屋に静寂が広がる。
その背中が、ゆっくりとふりかえった。
夜よりも漆黒な総統の瞳が、静かにユキナを見つめる。
「……わたしは……閣下にすべてを捧げる覚悟ができております。……どうか……わたしを受け入れて……」
ユキナの声は震えていた。
覚悟していたつもりだった。
けれど、言葉にするだけで、体の奥が熱くなり、足元がふらつく。
「わたしの
シルクのナイトガウンが床に落ちたまま、ユキナは両手を握りしめる。
胸元に触れるレースの感触が、鮮明に感じられた。
「……閣下に初めてを捧げるために……男性も……恋愛も……すべて避けてきました……」
彼女の言葉は、今にも消えてしまいそうなほど小さい。
だが、それでもたしかに、自分の意志でここに立っている。
「……わたしの心と
勇気をふりしぼり、彼を見上げる。
その瞬間、総統の瞳が鋭く細められた。
ユキナは息をのむ。
――彼が、動いた。
ゆっくりと、だが確実に。
総統は椅子を静かに押し、立ち上がると、彼女に歩み寄った。
夜の闇よりも深い瞳が、まっすぐユキナを見据える。
「――っ!」
そして、問いかけた。
「……親に言われて、来たのか?」
ユキナの心臓が跳ねる。
一瞬、彼の眼差しが見透かすようで、思わず肩をすくめそうになった。
「ち……ちがいます!」
必死に否定する。
その言葉を聞いた瞬間、総統は微かに目を伏せた。
そして、次の瞬間。
ユキナの肩に、ふわりと温もりが落ちた。
――シルクのナイトガウン。
「えっ……?」
驚く間もなく、男はそのまま少女の肩へと優しく布をかける。
大きな手が、そっとガウンを整えた。
「手が……震えているな」
言われて初めて、ユキナは自分の指先が小刻みに震えているのに気づいた。
それを、彼は黙って見つめる。
そして、次の瞬間――
「――無理を、しているだろう?」
その言葉とともに、彼の手がユキナの頭に触れた。
――温かい。
撫でられる感触が、信じられないほど優しくて、涙が出そうになる。
「おまえは、優しいな」
彼の声が、静かに響く。
「えっ……?」
「おまえが18になったとき……それでも俺を慕っていれば――」
彼の指が、一瞬、ユキナの頬に触れた。
「――おまえを、愛してやろう」
心臓が、破裂しそうだった。
呼吸が、うまくできない。
なのに、総統は続ける。
「そのときは、俺がおまえを女にしてやる」
ユキナの顔が、一気に熱を持つ。
あまりにも、直接的な言葉だった。
なにか言おうとするが、喉が震えて声にならない。
「今は、気持ちだけで十分だ」
そして、彼はわずかに微笑んだ。
もう、限界だった。
「――っ⁉︎」
ユキナは、頬まで真っ赤に染め、バッとガウンを握りしめると、勢いよく身を翻した。
「し、し、し、失礼しましたっ!」
そのまま扉を開け、駆け出す。
顔が熱い。
心臓がうるさい。
(走れ、走れ、走れ!)
彼の前から、一秒でも早く逃げなければ。
夜の廊下。
自室に戻るまでの間も、ユキナの顔の赤みは消えなかった。
部屋の扉を閉めた瞬間、彼女はベッドに倒れ込む。
(ど、ど、ど、どうしよう……っ⁉︎)
消えてしまいたくなるくらい恥ずかしかった。
総統の言葉が、何度も頭の中で反響する。
それでも……どこか嬉しくて……胸がいっぱいだった。
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