我ら、総統に捧ぐ。

Unknown1209

前編 秘書見習いの章

第1話 龍宮と四天秘書

黒鉄の門の前で、少女はそっと息を吸い込んだ。小さなバッグを握る指先が、かすかに震える。風が吹き抜け、スカートの裾をやわらかく揺らした。


黒曜石のような艶を持つ髪は片側に流され、美しく結われている。長いまつげの下、大きな瞳がそっと門を見上げる。どこか不安げに、けれど、確かに強い意志を秘めていた。少女の仕草ひとつにさえ、幼い頃から培われた品の良さがにじんでいる。


彼女の纏う制服は、誰の目にも格式あるものだとわかる、上質な灰色のジャケットと品のあるプリーツスカート。慎ましく結ばれた水色のリボンが、その清楚な魅力を引き立てていた。


門の向こうから足音が聞こえてくる。ゆっくりと扉が開き、威厳を纏った総統親衛隊員が姿を現す。そして、敬意を込めた声音で告げた。


「お待ちしておりました、ユキナ様。総統閣下のご許可をいただいております。中へどうぞ」


「は、はい……!」


少女は背筋を伸ばし、少しぎこちなく頷く。彼女の声には緊張がにじんでいた。


ゆっくりと、門が開く。重厚な金属音が響き、総統官邸「龍宮」の内部への道が広がっていく。


ユキナは、小さな一歩を踏み出した。


門をくぐった瞬間、思わず息を呑んだ。


そこには、日之国ひのくにの伝統的東洋庭園と西洋式の噴水が美しく調和した庭が広がっていた。丁寧に剪定せんていされた松、風流な石灯籠、透き通るように流れる水の音。すべてが洗練され、格式と静寂を併せ持っていた。


(す……すごい……!)


ユキナは思わず視線を巡らせた。


石畳の小道を進むと、草木のほのかな香りが漂ってくる。ここにいるだけで、身の引き締まるような感覚に包まれた。


(わたし……本当にこの場所にふさわしいのかな?)


不安がふっと胸をよぎる。


だが、ふりかえると、すでに龍宮の正門は静かに閉じていた。


もう、後戻りはできない。


ユキナは小さく拳を握った。


(大丈夫! わたしは、総統閣下の愛人候補生! この場所にふさわしい人間になるんだ! お父さまとお母さまの期待に応えるために!)


「こちらです」


彼女は総統親衛隊員に導かれ、庭を進んでいった。




広い庭の奥深くまで案内されたユキナは、総統官邸「龍宮」の居住棟の前に辿り着いた。


目の前には、龍宮にふさわしい堂々たる扉。その重厚さに圧倒されながらも、彼女は小さく息を整えた。


だが、インターホンに指を伸ばそうとした瞬間、その手が一瞬止まる。


(……本当に、わたしがここに来てもよかったのかな……?)


少女は不安に駆られたが、すぐにそれを振り払った。


(……いや、迷うな! もう決めたことだ!)


意を決して、指を押し込む。


ピンポーン――


鳴り響く電子音。


数秒の沈黙。


心臓が高鳴る。


やがて、扉の奥から快活な足音が近づいてきた。


ドアノブが回され、重い扉が開く。


目の前に立っていたのは、茶色いボブカットの元気そうな美少女だった。


「あれ、もしかしてユキナちゃん⁉︎」


明るい声とともに、弾むような笑顔が飛び込んでくる。


ユキナは思わず背筋を伸ばした。


「はい! あ、あの、はじめまして!」


緊張のあまり、少し噛んでしまう。


しかし、彼女はそんなユキナをじっと見つめ、そして、ニッと笑った。


「いやー、想像よりずっとかわいいじゃん! わたしはチェルシー! よろしくね、ユキナちゃん!」


太陽のようなエネルギーを放つ彼女の笑顔に、ユキナの緊張がほんの少し和らいでいく。


「は、はい……! よろしくお願いします!」


「よーし、じゃあ歓迎会といきますか!」


チェルシーはユキナをぐっと引き寄せた。


「えっ、歓迎会……⁉︎」


突然の展開に、ユキナは戸惑う。


「ま、軽いもんだよ! ほら、入って入って!」


チェルシーに背中を押されるようにして、ユキナは龍宮の居住棟へと足を踏み入れた。


リビングは広々としており、高級な調度品が整然と並んでいる。暖かみのある間接照明が、上品な空間を柔らかく照らし出していた。その場にいるだけで、厳格な格式を感じる。


ここが、総統閣下の住まい。


「さーて、紹介しましょっか! みんなー、ユキナちゃん到着だよー!」


チェルシーが明るい声を響かせる。


ユキナの視線の先、ソファに座っていた三人の美女が、ゆっくりとこちらに目を向けた。


彼女たちこそ、総統閣下の専属秘書――通称「四天秘書」。龍宮で最も重要な女性たちであり、その美貌は国民に広く知られている。


そして彼女たちは秘書であるだけではなく、実は総統閣下の「愛人」でもあった。


ユキナは息を整え、背筋を伸ばし、深くお辞儀をした。


「本日より、お世話になります! 皇華こうか女学院高校1年生の近江おうみユキナと申します。よろしくお願いします!」


沈黙。


重苦しい空気が流れる。


「……自己紹介はいいわ」


最初に口を開いたのは、一番端に座る、黒いハイポニーテールのクールな女性だった。


その表情は二十歳前後という若さに似合わず厳格な裁判官のようだ。彼女は腕を組み、冷ややかな眼差しでユキナを見つめていた。その鋭い視線は、まるで審判を下すかのように、ユキナを見極めようとしている。


「っ……!」


ユキナは圧倒され、一瞬、息を呑んだ。


「私たちにとって重要なのは、あなたが本当に閣下にふさわしいかどうかよ」


女性は、淡々と告げる。その口調には、微塵の感情もない。


「あなたは愛人候補生。私たち『四天秘書』とはちがう。ここは国家の中枢よ。ただのお嬢様が来ていい場所ではないの」


その冷酷な言葉に、ユキナは唇をかみしめた。


怖い。


けれど、ここで怯えてはいけない。


彼女は、ここに来るべくして来たのだから。


「あなたは、総統閣下になにを捧げられるの?」


ピシリと空気が張り詰める。


その沈黙を破ったのは――


「まあまあ、サクヤ」


優雅な声が響いた。


見ると、黒髪ロングの清楚な女性がティーカップを傾けながら微笑んでいた。


彼女の雰囲気は、まるで女王のように気品に満ちている。


「わたくしはソニアよ。ユキナちゃん、緊張しなくていいの。わたくしたちはみんな姉妹のようなものなのですから」


「そ、そうでしょうか……?」


ソニアと名乗ったその女性は、優しく微笑む。


「ええ、もちろんですわ。これからゆっくり慣れていけばいいの」


彼女の言葉に、ユキナは少しだけ肩の力を抜いた。


だが、次の瞬間――


「ふふっ。やっぱり、初々しい子っていいわねぇ〜」


艶やかな声が響く。


ユキナが顔を上げると、長い脚を組み替えながら見つめてくる女性と目が合った。色っぽい微笑みと黒いセミロングが特徴的だ。そして、まるで獲物を値踏みするかのような視線。


「ねえ、ユキナぁ〜? 総統閣下の『愛人』になるって、どういうことかちゃんとわかってるぅ〜?」


「……っ!」


ユキナの顔が一気に赤く染まる。


「ほら、顔赤ぁ〜い! ほんとに純粋ねぇ〜……♪」


妖美なその女性は、クスクスと笑った。


「ラァーラ、あんまりからかうのはよしなよ!」


チェルシーが苦笑いしながら止めに入る。


「だってぇ〜、かわいいんだもぉ〜ん。ねぇ〜? これから先輩として、色々教えてあげなきゃねぇ〜?」


ユキナは視線をそらし、ますます顔を赤くする。


「あ、あの……その、よろしくお願いします……!」


彼女がなんとか絞り出した言葉に、ソニアがくすっと微笑む。


「ふふ、これからが楽しみですわね。賑やかになりそう」


その隣で、サクヤはなおも腕を組んだまま、鋭い視線をユキナに向けた。


「では、研修期間を正式に始める前に、あなたがここにいる理由を、しっかり聞かせてもらおうかしら?」


サクヤの冷静な声が響く。ハイポニーテールに束ねた黒髪をなびかせ、腕を組みながら静かにユキナを見据えている。


ユキナは喉の奥で小さく息をのみ、背筋を伸ばした。


ここで怯えてはいけない。


彼女はしっかりと四天秘書の四人を見据え、はっきりと答えた。


「わたしは、総統閣下を心から敬愛しています! そして、両親も官僚として閣下に仕えていて、わたしは閣下のそばでお仕えすることが運命だと思っています! 父と母もそう言っていました!」


すると、チェルシーが目を輝かせながら前のめりになる。


「そっかー! じゃあ、ずっと小さい頃から閣下のこと知ってたの⁉︎」


「はい! 幼い頃から、父と母が閣下のお話をしてくれていました! 閣下は腐敗した旧体制を打倒された、とても偉大な方です!」


「きっと、ご両親にとっても閣下はだいじなお方なのですわね」


ソニアが微笑む。


ユキナは元気よく頷いた。


「はい! だから、わたしも閣下のお側で閣下に仕えたいと思っています! 父と母もわたしを応援してくれています!」


「ふぅ〜ん。つまり、親に言われたからここに来たってことぉ〜?」


ラァーラが挑発するように微笑む。


その言葉に、ユキナは思わず拳を握りしめた。


「ちっ……ちがいます!」


「本当に?」


サクヤの冷静な声が響く。


その言葉には、試すような響きがあった。


ユキナは一瞬言葉に詰まりそうになったが、強い意志を込めて告げた。


「わたしは、閣下のお側で、色々な面でお力になれる存在になりたいです! 四天秘書の皆さんみたいに!」


即答するユキナに、ラァーラが楽しそうに目を細める。


「へぇ〜。でも、今のユキナってぇ〜、なぁ〜んにもできないただのお嬢様じゃなぁ〜い?」


「そ、それは……! ……はい……まだまだ未熟です! でも、絶対に成長します!」


チェルシーが手を叩きながら笑う。


「うんうん! なんか、楽しみになってきたなぁ!」


しかし、ラァーラが妖艶な笑みを浮かべながら脚を組み替え、挑発するように言った。


「でもぉ〜、愛人として閣下に仕えるっていうことはぁ〜」


彼女はわざとらしく間を置き、ゆっくりと続けた。


「将来的に、『そういうこと』をするってことよぉ〜。できるのぉ〜?」


「っ……!」


ユキナの顔が一瞬で真っ赤に染まった。


動揺を隠せず、口を開こうとしても、言葉が喉に詰まる。


ソニアは変わらぬ優雅な微笑みを浮かべてティーカップを傾ける。


サクヤは無言のまま、じっとユキナの反応を観察していた。


「そ……それは……!」


ようやく声を絞り出すも、上手く言葉にならない。


「ほらぁ〜、顔真っ赤ぁ〜。やっぱりぃ〜、まだまだお子ちゃまねぇ〜? まだ誰ともしたことないんでしょ〜?」


ラァーラはくすっと笑いながら、楽しげに言った。


「ラァーラ、ちょっと意地悪じゃない?」


チェルシーが口を挟む。


「だってぇ〜、だいじなことじゃなぁ〜い? 『愛人』って、そういう意味でしょう〜?」


ユキナは震える手をギュッと握りしめた。


そして、視線を逸らすことなく、しっかりとした声で告げる。


「今はまだ……未熟かもしれません! でも……わたしは、敬愛する総統閣下のために生きると決めました! なんでも受け入れてみせます!」


彼女は家を出る前、父と母の前でそう誓ったのだ。


最愛の両親の期待を裏切るわけにはいかない。


しかし、サクヤが鋭い視線を向ける。


「閣下を敬愛しているのは結構。でも、それだけでは足りないわ。それでは一般国民や党員となにも変わらない。『総統閣下の愛人』であることは、それ以上の意味を持つのよ」


サクヤの言葉が鋭く突き刺さる。


「私たちは、閣下のために『なにをさしだしてもかまわない』という覚悟でここにいるの。実際に名前を捨て、過去を捨て、ここにいる」


ソニアが静かにティーカップを置き、チェルシーはユキナの反応をじっと見つめる。


ラァーラは微笑みながらも、どこか楽しげにユキナを観察していた。


「わ……わたしも……その覚悟があります!」


ユキナはまっすぐな瞳で答えた。


「なら、閣下があなたになにを求めてもそれを受け入れられるの?」


「っ……!」


ユキナの心臓が跳ね上がる。


「たとえば――」


サクヤはゆっくりと足を組み替え、冷静な視線のまま言った。


「閣下が『今夜、俺の寝室に来い』と言ったら?」


「っ……!」


ユキナは戸惑い、顔がさらに赤くなる。


ラァーラが楽しげに笑う。


「さっすがサクヤ、えげつないわねぇ〜」


「ちょ、ちょっとサクヤ! いくらなんでもユキナちゃんは、まだ――」


チェルシーが慌てたように声を上げるが、サクヤは淡々と答える。


「これはもしもの話よ。でも、閣下になにを求められても受け入れると言ったのは、ユキナ自身よ」


ユキナは歯を食いしばる。


「……!」


「答えなさい。閣下があなたを求めたとしたら、あなたはどうするの?」


サクヤの言葉に、ユキナの喉が渇く。心臓がドクンと鳴る。


(答えなきゃ……!)


ユキナはぐっと拳を握り、震える声を抑えた。


(どうしよう……⁉︎)


そのとき、玄関の方向から足音が響いた。


重厚な扉が静かに開く音。


四天秘書たちが一斉にそちらを向く。


ユキナも反射的に背筋を伸ばし、視線を向けた。


そこに立っていたのは、一人の男性。


五十代前半ほどだろうか。黒のスーツを纏い、整った黒髪は乱れ一つなく、老いを一切感じさせない。鍛えられた引き締まった体。そして、猛禽類のように鋭い目と深く刻まれた眉間の皺。強烈な威圧感をまとい、彼の姿は堂々としていた。


「……ただいま」


低く、重みのある声が静かに響く。


「おかえりなさいませ、閣下」


ソニアがすっと立ち上がり、優雅に微笑む。


「おかえり、閣下! おしごと、お疲れさま!」


チェルシーが明るく手をふる。


「ふふっ、お帰りなさぁ〜い」


ラァーラは色っぽく微笑み、ソファに寄りかかりながら視線を送る。


「お疲れさまです、閣下」


サクヤは冷静な表情を崩さず、それでもどこか安堵の色が浮かんでいるように見えた。


――総統。


彼こそ現在、日之国ひのくにの全権を握る最高指導者であり、唯一の合法的政党である国民統合党の党首。そして、国防軍を構成する陸軍、海軍、航空宇宙軍の三軍全軍の大元帥だ。この国の絶対的支配者にして、唯一の正当な国家元首。言わば、神無き時代の「人皇じんのう」。


ユキナの心臓が激しく鳴り始める。


彼こそが、最愛の両親が心から敬愛する指導者。


彼女は一歩前に進み、慌てて頭を下げた。


「あ、あの……! お、お帰りなさいませ、閣下!」


総統閣下はユキナをじっと見つめる。


その目が、一瞬だけ細められた。


ユキナはまるで全身を見透かされるような感覚に陥る。


「……おまえが、ユキナか」


鋭い声音に、ユキナはびくりと肩を震わせた。


「は、はいっ!」


背筋を伸ばし、緊張で声がわずかに裏返る。


「聞いている。おまえが、俺に仕える意志を持ってここに来たとな」


「……はい!」


真剣な表情で頷く。


再び、閣下は短い沈黙を挟んだ。


静かにユキナを見つめる。


威圧感が、肌に直接突き刺さる。


呼吸することすら忘れそうになる。


「……まだ、未熟だな」


その一言が、ユキナの胸を抉った。


ぐっと拳を握る。


悔しさが込み上げる。


「だが、今のところ、悪くない」


ユキナは、はっと顔を上げた。


「っ……!」


「わー! ユキナちゃん、一瞬で認められたじゃん!」


チェルシーが陽気に声を弾ませる。


「ふふっ、『今のところ』だけどねぇ〜?」


ラァーラがいたずらっぽく微笑んだ。


「おまえがここにいる意味を、これから理解していくことだ」


そう告げると、総統閣下は静かに上着を脱いだ。


サクヤがすっと近づき、それを受け取ってたたむ。


「閣下、お疲れでしょう。お飲みものをお持ちいたしましょうか?」


ソニアが静かに尋ねる。


「ああ、頼む」


「かしこまりましたわ」


ソニアが優雅に立ち上がり、キッチンへと向かう。


「ねぇねぇ閣下! 今日のおしごと、どうだった⁉︎」


チェルシーが興味津々に問いかけた。


「……話すほどのことではない」


閣下はソファに深く腰を下ろし、静かに息を吐く。


その声には疲れがにじんでいた。


「ふふっ、お疲れのようねぇ〜?」


ラァーラがそっと寄り添い、肩に手を置く。


「少し……休ませてもらう」


「ごゆっくり」


サクヤがそっと述べた。


ユキナは、そんな四天秘書たちのやりとりをじっと見つめていた。


彼女たちは自然に、そして完璧に総統閣下を支えていた。


どの動きも、迷いがない。


自分も、こうなれるのだろうか?


そんな思いが胸をよぎる。


ふと、閣下の視線がユキナに向けられた。


「……ユキナ」


「は、はいっ!」


反射的に背筋を伸ばす。


「おまえも、ここで学ぶがいい」


その言葉に、ユキナの胸が震えた。


「……! はい!」


彼女は力強く頷く。


閣下は目を閉じ、静かにリビングの空気に馴染む。


彼の表情は、わずかに柔らいでいた。


「閣下、お飲みものですわ」


ソニアが静かに差し出す。


「ああ、すまない」


閣下はそれを受け取り、口をつける。


「さーて、じゃあこれからユキナちゃんも『お勉強』しなきゃね!」


チェルシーがユキナの肩を叩く。


「ふふっ、これからが楽しみねぇ〜」


ラァーラがくすっと笑う。


「では、正式に『研修期間』を開始するわ。ユキナ、全力を尽くしなさい」


サクヤの鋭い声が、ユキナの胸に突き刺さる。


「はい!」


ユキナはぎゅっと拳を握った。


(ここからが、本当の始まり!)


彼女は誓った。


閣下に全力で仕え、必ず両親の期待に応えてみせる、と。

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