8 少年は大空へ

 心臓が轟いていた。シルフが見せているのか、それともただの妄想か。自分は父の昔の記憶をたどっている。走り出せないと思ったら、勢いよく右足を踏み出して景色が駆けた。体が前方にぐんぐん引かれ、抵抗する間もなく滑走路の先端へと走り出していく。怖い、怖い、怖い、でも。


『やあっ!』


 片足で踏切をしてぐんと体が宙に浮きあがった。風を受けて帆が張る。体が急上昇して地上が遠く離れていく。その時——


『君の言葉に愛はないのかい』

『誰だ、シルフか?』

『君の言葉に真実はないのかい』

『何をいって……うわっ』


 暴風で視界が360度回転する。ぐるぐると凧のように回った後、骨組みが折れて体が変な方向に曲がり視界が不明瞭なままに急速に地上に落下していた。激しく体を打ち付けて、首がぼきりと変な方向に曲がり視界が暗くなっていく。


 気付くと飛行台のスタートラインに立っていてまだ競技も始まっていなかった。司会者が大声でどうぞと繰り返している。そこで我に返った。


(あの日、父さんはシルフに疑われたんだ)


 真実はそうだった。自身が知りようもなかった事柄に触れて心がざわめいている。恨むべきなのだろうか、シルフを? ううん違う。父は精霊とはそういうものだと理解していたはずだ。


「聞こえるかい、シルフ」


 直立の姿勢で目を閉じて念じる。返事はない、でもきっとシルフには聞こえているはずだ。


「父さんはお前たちに愛され幸せだった」


 そう、初めて空を飛べた日からずっと彼らを敬愛していた。常々いっていたではないか。精霊は密かに人を見守りそっと助力するだけの存在なのだよと。小さな恩恵を信じて関わること、助けてもらった幸運に感謝すること、それが父さんの理念だった。


「ダルクを愛した気まぐれでオレを助けてくれるかい?」


 目をかっと開くと両手を広げ足を踏み出してぐんぐんと地を蹴る。半分恐怖を抱えながらそれでも足を止めずに。背負った飛行機械の布がぱんっと張って抵抗が強くなっていく。背中を後ろに引かれそうになりながら足先に力を込める。滑走路はあと8メートル、5メートル、2メートル、そして。胸が止まりそうなほどの刹那に。


「やあああっ」


 右足で踏切ると宙に飛び出した。体が無抵抗に落下していく。怖い、でも姿勢は崩さない。飛べ、飛べ、飛ばせてくれ!

 地上はどんどん近づいていく。自由落下していくなかで速度が鋭角的に引き絞られて恐怖した。その時、優しい声が聞こえた。


「大きく呼吸して」


 瞬間、体がふわっと持ち上げられて重力が消えた。クルトの体が風をはらむ。両腕を広げる巨鳥のように優雅に空を駆けた。


 観衆が声を出すのも忘れて見入っている。人々は圧巻のその光景をしばらく眺めていたが次第に感動が広がり始める。すごいぞ、すごいことが起きている。奇跡だ! 手を空に突き上げて大歓声が沸き起こり口笛が鳴らされる。感動の灘を上空から眺めながらクルトは笑っていた。


「すごいよ、連中呆けてら」


 オーヴィスと仲のいい金持ち連中がぽっかりと口を開けて空を見上げている。彼らはみな今日の飛行に失敗したものたちだった。


(鳥になった心地はどうだい)


 初めて飛んだ日の父の言葉を思い出した。涙をこらえて微笑んだ。


「父さん、オレ幸せだ」


 ありがとう、と心にこめる。それがシルフに伝わっているかは分からないが。




「ほえええ……」


 スタックリドリーは滑走路のスタート位置でクルトの大飛行を唖然として見上げていた。クルトは十五分飛んだあと静かに着陸した。観衆に背中を叩かれ拍手を受けて歓喜の渦の中にいる。優勝はもう決まりきっている。


「すごいや、クルト。シルフの信頼を取り戻したんだな」


 さて、いよいよ自分の番だ。よいしょと花柄の飛行機械を背負って準備する。こんな大飛行のあとじゃお目汚しになりかねないけれど。と考えていたら……


「勘違いするなよ、スタックリドリー。キミは特別だ」

「へ?」

「お前は約束通り、うんと遠くまで連れて行ってやる。怖くって泣いたってもう遅いんだぞ」


 何のことだろう、と思った瞬間に後ろから押されて足がひとりでに回転し始める。


「待て、待ってくれシルフ! 違う、違うんだ! っておわあああ」


 滑走路をばんっと飛び出して体が空へと持っていかれる。高く、高く、天高く。


「おっと、スタートの合図も待たずに勢いよく飛びした挑戦者スタックリドリーですが。彼は一体どこへと向かうのでしょうか。かなりの高度なようですが……」


 と司会も実況の声をなくして呆けた。スタックリドリーの骨身の体は鳥と同じくらいの高度にまで押し上げられる。


「大飛行のあとで何が起きているのか。声は届くかな。おおい、スタックリドリーどこにいくんだい?」


 スタックリドリーは声に見送られるようにして一直線に町の外へと向かおうとしている。通常、飛行機械は町の上空で旋回するものだが、右翼を傾けてもコントロールが効かない。


「シルフの奴め、完全に怒ったな! くそ、下ろせ、下ろせ、高すぎる」


 クルトはあたふたするスタックリドリーに向かって声を上げた。


「リドリー! どこにいくんだい。高度を下ろさないと町を出てしまう!」


 スタックリドリーは十字に体を伸ばし切って姿勢を動かせぬまま、はるか地上に向けて叫んだ。きっとこういう運命だったのだろう。


「さようならクルト、さようならベルティア市。あ~~れ~~」

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