第21話 夜明けのアンパンと狼の誓い
【第6回】 狼の爪痕
池袋西口から伸びる薄暗い路地を抜け、さらに入り組んだ工業地帯の奥深く。そこには、まるで街の喧騒から取り残されたかのように、巨大な廃倉庫群が、夜の闇にその黒々とした巨体を沈ませていた。その中の一つ、ひときわ大きく、そして不気味なオーラを放つ第七倉庫こそが、不良グループ「ブラッククロウ」のアジトだった。
ワンコインキラー・琥珀は、情報屋・美緒から送られてきたアジトの見取り図と、メンバーの配置情報を頭の中で完璧に反芻しながら、音もなくその敷地内へと侵入していた。月明かりすらない新月の夜。彼女の漆黒のマントは、周囲の闇と完全に同化し、その存在を誰にも気づかせない。狼ケモミミ特有の鋭敏な五感は、倉庫内部から漏れ聞こえてくる微かな物音、複数のケモミミの体臭、そして濃厚な暴力と悪意の匂いを、正確に捉えていた。
(……彩花の弟、悠真の気配は、この奥か)
琥珀は、まずアジトの外周を巡回していた見張り役の二人組へとターゲットを定める。彼らは、寒さを紛らわすためか、安物の酒を呷りながら下品な冗談を言い合っており、警戒という言葉からは程遠い有様だった。
琥珀は、風のようにその背後へと忍び寄ると、一人がタバコに火をつけようと顔を上げた瞬間を狙った。右手に握られたカッターナイフが、闇を切り裂く。一人目の喉元から鮮血が噴き出し、声も上げられずに崩れ落ちる。もう一人が異変に気づき振り返った時には、既に琥珀の左手が彼の口を塞ぎ、右手のナイフがその心臓を一突きにしていた。二つの命が、ほんの数秒のうちに、音もなく消え去る。琥珀は、その死体に一瞥もくれることなく、倉庫の内部へと続く、錆びついた通用口のドアノブへと静かに手をかけた。
通用口を抜けると、そこは薄暗い通路が奥へと続いていた。壁にはスプレーで下品な落書きがなされ、床にはゴミが散乱している。琥珀は、息を殺し、狼のようにしなやかな足取りで通路を進んでいく。やがて、前方から複数の話し声と、けたたましい音楽が聞こえてきた。アジトの中心部が近いのだろう。
角を曲がった瞬間、数人のブラッククロウのメンバーが、酒を飲みながらカードゲームに興じている姿が目に入った。彼らは、まさかこんな場所に侵入者が現れるとは夢にも思っていなかったのか、完全に油断しきっている。
琥珀は、その油断を見逃さない。床に転がっていた空き缶を、音もなく通路の奥へと蹴り飛ばす。カラン、コロン、という金属音が響き、不良たちの注意が一瞬そちらへと向いた。その刹那。
琥珀は、壁を蹴って宙を舞い、カードゲームに興じていた不良たちの頭上を飛び越えるようにして、その集団のど真ん中へと降り立った。
「なっ……!?」
「てめぇ、誰だぁっ!」
突然の襲撃に、不良たちは驚愕の声を上げる。だが、琥珀は彼らに反撃の暇を与えない。着地と同時に、両手に握られた二本のカッターナイフが、まるで意思を持った獣のように踊り狂う。
血飛沫が舞い、肉を切り裂く鈍い音が響き、ケモノたちの断末魔の叫びが、倉庫の鉄骨の天井にこだまする。ある者は喉を掻き切られ、ある者は心臓を貫かれ、またある者は両目を潰されて床を転げ回る。琥珀の動きは、あまりにも速く、正確で、そして一切の躊躇がない。それは、もはや戦闘というよりも、一方的な殺戮、あるいは熟練した狩人が獲物を仕留める様に近かった。
倉庫の奥から、異変に気づいたさらに多くの不良たちが、武器を手に駆けつけてくる。鉄パイプ、金属バット、ナイフ、そして中にはクロスボウや改造エアガンといった飛び道具を持つ者までいる。総勢、十数名。彼らは、琥珀を取り囲むようにしてじりじりと間合いを詰めてきた。
「このアマ……! よくも俺たちの仲間を……!」
「袋叩きにして、八つ裂きにしてやるぜ!」
怒声と共に、不良たちが一斉に琥珀へと襲いかかってくる。だが、琥珀は冷静だった。彼女は、積み上げられたコンテナや、天井から吊り下がった鎖などを巧みに利用し、まるで重力を無視するかのような三次元的な動きで、敵の攻撃をことごとく回避していく。そして、一瞬の隙を突いては、確実に一人、また一人と、その命を刈り取っていくのだ。
狼ケモミミの跳躍力でコンテナの上に飛び上がったかと思えば、次の瞬間には天井の梁から逆さまにぶら下がり、真下の敵の首筋を切り裂く。狭い通路に誘い込んでは、壁を蹴って反転し、追ってきた複数の敵をまとめて薙ぎ払う。その戦いぶりは、まさに死の舞踏。美しく、そして恐ろしいほどに効率的だった。
不良たちは、次々と数を減らしていく仲間たちの姿に、徐々に恐怖の色を濃くしていく。彼らの獣としての本能が、目の前の小柄な少女が、自分たちとは格の違う、真の捕食者であることを告げていた。
この時点で、アジトの奥にいるはずのリーダー、龍也と、副リーダーの隼人は、まだその姿を見せていない。彼らは、この惨状をどこかから冷静に観察しているのか、それとも、琥珀を誘い込むための罠を準備しているのか……。
下っ端の不良たちをほぼ殲滅し終えた琥珀の体からは、返り血と、そして彼女自身の汗が混じり合った、鉄と獣の匂いが濃密に立ち昇っていた。だが、彼女の呼吸は少しも乱れておらず、その昏い双眸は、依然として冷徹な光を宿したままだ。
アジトの最深部へと続く、巨大な鉄の扉。その向こう側から、ひときゅう強いプレッシャーと、濃密な殺気が感じられた。琥珀は、カッターナイフの血糊をマントの裾で拭うと、静かにその扉を開けた。
そこは、倉庫の中でも一段と広い、ドーム状の空間だった。中央には、スポットライトのように一筋の光が落ち、その下に、まるで舞台の主役のように、一人の男が立っていた。
豹ケモミミの龍也。その金色の瞳は、床に転がる部下たちの死体を冷ややかに見下ろし、そして、扉を開けて入ってきた琥珀の姿を捉えると、獰猛な肉食獣のように細められた。
「……てめぇ、狼の小娘……知ってんぞ。俺らのナワバリでチョロチョロしているワンコインキラーとか噂されている女だろ。思ったよりも手間取らせてくれたじゃねえか。だが、ここまでだ」
龍也の低い声が、ドーム状の空間に響き渡る。その全身からは、下っ端の不良たちとは比較にならないほどの、圧倒的な威圧感と、純粋な暴力への渇望が放たれていた。彼の両手には、鋭く研ぎ澄まされた豹の爪が、まるで鋼の刃のように伸びている。
琥珀は、何も答えずに、ただ静かにカッターナイフを構えた。これまでの相手とは明らかに違う。この男は、本物の強敵だ。
次の瞬間、龍也の姿が消えた。いや、消えたのではない。人間の目では追いきれないほどの、豹ケモミミ特有の爆発的な瞬発力で、琥珀の懐へと一気に踏み込んできたのだ!
「死ねやぁっ!!」
獣の咆哮と共に、龍也の鋭い爪が、琥珀の顔面を薙ぎ払わんと迫る。琥珀は、それを紙一重で身を屈めて回避するが、頬にかすかな熱を感じた。数本の髪が、はらりと床に舞い落ちる。
(速い……! そして、重い……!)
龍也の攻撃は、一撃一撃が致命傷になりかねないほどの威力と速度を秘めていた。琥珀は、防御に徹しながらも、必死で反撃の機会を窺う。カッターナイフの刃が、龍也の鋼のような筋肉に阻まれ、なかなか深手を負わせることができない。逆に、龍也の爪は、琥珀のマントを切り裂き、その下の薄い衣服を掠め、白い肌に赤い筋を何本も刻んでいく。
息詰まるような攻防。金属と爪がぶつかり合う甲高い音、獣の唸り声、そして荒い呼吸だけが、ドーム内に響き渡る。琥珀の額にも、いつしか汗が滲んでいた。これほどの強敵との戦いは、彼女にとっても久しぶりのことだった。
だが、琥珀の瞳の奥の光は、少しも揺らがない。彼女は、龍也の攻撃パターンを冷静に分析し、そのわずかな隙を見つけ出そうと集中していた。
そして、数十合にも及ぶ打ち合いの末、ついにその瞬間が訪れる。龍也が、渾身の力を込めて振り下ろしてきた右手の爪を、琥珀はカッターナイフの柄で受け止め、そのまま体ごと回転させるようにして受け流した。体勢を崩した龍也の脇腹が、一瞬だけがら空きになる。
(……もらった!)
琥珀のカッターナイフが、閃光のように龍也の脇腹へと突き込まれる。確かな手応え。龍也の顔が、苦痛に歪んだ。
だが、その時だった。
「グフフフ……油断したなぁ、狼さんよぉ……!」
龍也の背後、天井の梁の暗がりから、まるで蛇のように音もなく忍び寄ってきた影があった。副リーダーの隼人だ。彼は、琥珀と龍也の死闘を、ずっと息を潜めて観察し、琥珀が最大の隙を見せる瞬間を、ただひたすらに待ち続けていたのだ。
隼人の手には、バチバチと青白い火花を散らす、強力なスタンガンが握られていた。
琥珀が、龍也に深手を負わせ、勝利を確信しかけた、まさにその一瞬。隼人の持つスタンガンの先端が、琥珀の無防備な背中、その脊髄の直上へと、容赦なく押し当てられた!
「ぐっ……あ……ぁ……っ!?」
凄まじい衝撃と、全身の神経を焼き尽くすかのような激痛が、琥珀の体を貫いた。狼の耳が、苦痛に激しく痙攣し、その鋭敏な五感が、一瞬にして麻痺していく。視界がぐにゃりと歪み、体の自由が急速に奪われていくのが分かった。カッターナイフが、力なく手から滑り落ち、床にカランと乾いた音を立てる。
(しまっ……た……! この、蛇野郎……!)
意識が、急速に闇の底へと引きずり込まれていく。最後に琥珀の目に映ったのは、脇腹を押さえながらも、勝利を確信して歪んだ笑みを浮かべる龍也の顔と、その隣で、スタンガンを片手に、蛇のように粘つく舌なめずりをする隼人の姿だった。
「グハハハハ! やったぜ、隼人! このクソ生意気な狼アマを、ようやく捕まえてやった!」
龍也の勝ち誇ったような咆哮が、遠のいていく意識の中で、不快に反響する。
そして、琥珀の意識は、完全にブラックアウトした。
どれほどの時間が経ったのだろうか。
次に琥珀が意識を取り戻した時、彼女の体は、冷たく硬いコンクリートの床の上に無様に転がされていた。手足は、太い鉄の鎖で厳重に拘束され、少しでも身じろぎしようものなら、鎖が肌に食い込んで激痛が走る。
そして何よりも……彼女は、完全に裸に剥かれていた。あの漆黒のマントも、隠密行動に適した黒い衣服も、全てが奪い去られ、その白い肌は、薄汚れた倉庫の薄暗い照明の下に、屈辱的に晒されている。狼の耳と尾は、力の抜けたようにだらりと垂れ下がり、その姿は、もはや誇り高き夜の狩人ではなく、ただ無力な獣のそれに近かった。
周囲には、龍也と隼人、そして生き残った数人のブラッククロウのメンバーたちが、下卑た笑みを浮かべ、品定めでもするかのように、彼女の裸体をねめ回している。その視線の一つ一つが、まるで汚れた手で全身を撫で回されているかのような、耐え難い屈辱を琥珀に与えていた。
(……ここまで、か……)
琥珀の心に、初めて、諦めにも似た感情がよぎった。だが、それも一瞬のこと。すぐに、その昏い双眸の奥に、より一層冷たく、そして激しい怒りの炎が、再び燃え上がった。
たとえこの身が朽ちようとも、この魂だけは、決してこいつらに屈するものか――。
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