第16話 夜明けのアンパンと狼の誓い

【第1回】 夜明けの来訪者と忍び寄る影


 ケモミミ東京、池袋。眠らない街の喧騒がようやく微かな寝息へと変わる、そんな夜明け前の時間帯。東の空がようやく白み始め、アスファルトを濡らす夜露がきらめき始める頃、雑多なビル群の一角に佇むコンビニエンスストア「サンライズマート」の店内には、早くも柔らかな灯りが灯っていた。

 カチャン、カチャン、と小気味よい金属音が、静まり返った店内に響く。牛乳やジュースがぎっしりと詰まった納品用のクレートを、小さな体で健気に運んでいるのは、この店の店長を務める彩花(アヤカ)である。24歳、愛らしいハムスターケモミミの女性である。


 ふわふわとした明るい金色のボブカットは、毛先がくるんと内側にカールしており、彼女が動くたびに楽しげに揺れる。大きなつぶらな黒い瞳は、夜明け前の薄暗がりの中でも、優しさと勤勉さでキラキラと輝いていた。頭の上には、ピンと立った小さな丸いハムスター耳。薄茶色の柔らかな毛で覆われ、時折ピクピクと周囲の音を拾っては、僅かにその向きを変える。客が近づく足音や、商品の落ちる微かな音も、彼女の耳は見逃さない。

 店のトレードマークである緑と白のストライプのエプロンは、彼女の小柄な体に合わせて少し丈が詰められている。その下から覗くのは、短くふさふさとした、これまた薄茶色のハムスターの尾だ。嬉しい時や、集中している時など、感情の動きに合わせて小さく左右に揺れるのが、常連客の間では「癒やされる」と密かな人気だった。

 身長は152cmと、ケモミミの中でも特に小柄な部類に入る。華奢な肩、細い手足は、一見すると頼りなげに見えるかもしれないが、毎日の立ち仕事と商品の品出しで鍛えられた体は、見た目以上の持久力と、しなやかな強さを秘めていた。柔らかな曲線を描く胸元や、きゅっと引き締まったくびれ、そして細いながらも健康的な丸みを帯びた脚は、エプロン姿の奥に、若々しい女性ならではの魅力を隠している。

 いつもニコニコと人懐っこい笑顔を絶やさず、頬には愛らしいえくぼが浮かぶ。店内に漂う、焼きたてのパンの香ばしい匂いと、彼女がこまめに使う消毒液の清潔な香りが混じり合い、この「サンライズマート」独特の、どこか安心できる雰囲気を作り出していた。


「ふぅ、これでよし、と。あとはお弁当とおにぎりの陳列ね」

 彩花は、牛乳を冷蔵ケースに並べ終えると、小さく息をついて額の汗を手の甲で拭った。彼女の日課は、まだ街が眠りから覚める前のこの時間に始まる。商品の検品、陳列、清掃、そして何よりも、彼女が心を込めて焼き上げる手作りアンパンの準備。この店の名物でもあるアンパンは、近隣の住民だけでなく、遠方からわざわざ買い求めに来る客もいるほどの人気商品だった。


(今日のアンパンも、美味しく焼けますように。みんなが笑顔になってくれますように)

 そんなことを考えながら、パン生地を捏ねる作業台へと向かおうとした、その時。

 チリン、と店の入り口に取り付けられた古いドアチャイムが、澄んだ音を立てた。こんな早朝に客が来るのは珍しい。彩花は、少し驚きながらも、いつもの明るい声で「いらっしゃいませー!」と入り口の方へ顔を向けた。


 そこに立っていたのは、見慣れた人影だった。

 漆黒のフード付きマントを目深にかぶり、その顔の大部分は影に隠れている。だが、フードの隙間から覗く、月光を吸い込んだかのように冷たく輝く灰色の長髪と、鋭く尖った狼の耳は、一度見たら忘れられない強烈な印象を与えた。琥珀(コハク)そう呼ばれている少女だった。

 彼女は、この数ヶ月、ほとんど毎日のように、決まってこの明け方の時間に「サンライズマート」を訪れる。そして、いつも同じもの――彩花特製のアンパン一つと、瓶入りの牛乳一本――だけを買っていくのだ。


「あ……琥珀さん。おはようございます」

 彩花は自然と頬を緩ませて声をかけた。初めて彼女が店に来た時は、そのミステリアスで近寄りがたい雰囲気に少し緊張したものだが、毎朝顔を合わせるうちに、彩花は琥珀に対して、他の客とは少し違う、特別な親近感のようなものを抱くようになっていた。無口で、感情を表に出すことはほとんどない琥珀だが、彩花の焼いたアンパンを食べる時の彼女の横顔は、ほんの僅かに、本当に僅かにだが、強張りが解けているように見えるのだ。それが、彩花にとっては密かな喜びであり、この早朝の仕事の小さな楽しみの一つにもなっていた。


 琥珀は、彩花の挨拶に小さく頷くと、いつものように無言でパンの棚へと向かい、焼き立てのアンパンの中から一つを手に取った。そして、冷蔵ケースから牛乳瓶を取り出すと、静かにカウンターへと歩み寄る。


「……いつもの」

 低く、掠れた、硝子細工のように繊細な声。それが、琥珀が発する数少ない言葉だった。


「はい、いつものですね。今日のアンパンも、とっても美味しく焼けましたよ」

 彩花は、にっこりと笑いながらレジを打つ。琥珀は、カウンターの上に数枚の硬貨を置いた。その無駄のない、洗練された仕草の一つ一つに、彩花はどこか人間離れした美しさのようなものを感じていた。


(琥珀さん、今日も来てくれてよかった……)

 ふと、彩花の脳裏に、数ヶ月前の出来事が蘇った。それは、この「サンライズマート」のすぐ近くの路地裏で、閉店間際に泥酔した大型犬ケモミミの男たち数人に絡まれ、危うい状況に陥りかけた時のことだった。恐怖で声も出せず、抵抗もできずにいた彩花の前に、どこからともなく現れたのが琥珀だったのだ。

 彼女は、驚くほど冷静に、そしてあっという間に屈強な男たちを打ちのめしてしまった。その時の琥珀の動きは、まるで訓練された獣のようにしなやかで、一切の無駄がなく、そして恐ろしいほどに正確だった。彩花は、ただ呆然と、その光景を見つめていることしかできなかった。

 助けてもらった後、お礼を言おうとした彩花に、琥珀は何も答えず、ただ一瞥をくれただけで闇の中へと消えていった。その時の、マントの裾から一瞬だけ見えた、カッターナイフの冷たい光を、彩花は今でも鮮明に覚えている。


 それ以来、琥珀は「サンライズマート」の常連となった。あの事件について、二人の間でお互いに口にすることは一切ない。だが、彩花は知っていた。琥珀は、ただの無口な少女ではない。何か特別な、そしておそらくは危険な背景を抱えた存在なのだと。

 それでも、彩花は琥珀を怖れてはいなかった。むしろ、あの夜、絶体絶命のピンチから自分を救ってくれた恩人として、心のどこかで深く感謝し、信頼していたのだ。


「琥珀さん、あのね、前にね、お店の近くで酔っ払いの人に絡まれちゃったことがあったんです。すっごく怖くて、どうしようもなかったんだけど……その時、琥珀さんみたいな、強くて静かな人がさっと助けてくれたらなって、ちょっと思っちゃった。あ、もちろん、琥珀さんがそうだとか、そういう意味じゃなくて! ただ、なんていうか……あの時、すごく心細かったから……」

 そこまで言って、彩花はハッとして口をつぐんだ。つい、昔のことを思い出して余計なことを口走ってしまったかもしれない。琥珀は、きっとこういう世間話は好まないだろう。

 だが、琥珀は何も言わず、ただじっと彩花の顔を見つめている。その昏い瞳の奥の色は、相変わらず読み取れない。しかし、ほんの僅かに、その視線が和らいだような気がしたのは、彩花の思い過ごしだっただろうか。


「……気をつけることだ」

 ぽつり、と琥珀が呟いた。それは、彩花が琥珀から聞いた、いつもの「アンパンと牛乳」以外の、初めての言葉だったかもしれない。


「は、はいっ!」

 彩花は、思わず背筋を伸ばして返事をする。琥珀は、受け取ったアンパンと牛乳をマントの内側にしまうと、小さく会釈だけして、再び音もなく店を出て行った。

 チリン、とドアチャイムが鳴る。その後には、いつもの静寂が戻ってきた。

 彩花は、琥珀が消えたドアの方をしばらく見つめていたが、やがてふっと微笑むと、再び仕事へと戻った。


(琥珀さん、毎日来てくれる……なんか、嬉しいな……。それに、少しだけだけど、お話しできた……)

 小さなハムスターの尾が、嬉しそうに左右に揺れていた。その時の彩花は、このささやかな日常が、間もなく打ち破られることになるなど、想像もしていなかった。


 彩花が「サンライズマート」の店長として、朝早くから夜遅くまで身を粉にして働くのには理由があった。彼女には、年の離れた16歳になる弟、悠真(ユウマ)がいる。彩花と同じ金色の髪と大きな黒い瞳を持つ、可愛らしいハムスターケモミミの少年だ。

 彼らの母親は、彩花がまだ幼い頃に病気で亡くなり、父親も数年前に蒸発同然に家を出て行ってしまった。それ以来、彩花はたった一人で悠真を育て、コンビニのアルバイトを掛け持ちしながら、必死で生計を立ててきた。今のこの「サンライズマート」も、亡き母親が細々と営んでいた小さな食料品店を、彩花が必死の努力でコンビニエンスストアとして再建したものだった。

 悠真は、そんな姉の苦労を知ってか知らずか、昔は素直で優しい子だった。だが、中学を卒業し、高校に入学する頃からだろうか。いわゆる反抗期というやつなのか、悠真は徐々に彩花に対して反抗的な態度を取るようになり、夜遊びを繰り返したり、学校をサボりがちになったりしていた。

 彩花は、悠真のことを心から愛している。彼が道を踏み外さないように、母親代わりとして、そして唯一の家族として、厳しく接することもあれば、優しく諭すこともあった。だが、悠真の心は、まるで固く閉ざされた貝のように、なかなか彩花に開かれることはなかった。


(悠真……今頃、どこで何をしているのかしら……。お願いだから、悪い道にだけは進まないで……)

 最近の悠真の荒れた生活ぶりを思うと、彩花の胸は不安で押し潰されそうになる。特に、ここ数日、悠真は家に帰ってきていなかった。スマートフォンのメッセージにも返信はなく、電話にも出ない。

 彼の友人たちに聞いて回ったところ、悠真が最近、「ブラッククロウ」と名乗る、池袋を拠点とするケモミミの不良グループと頻繁に接触しているという、不穏な噂を耳にした。ブラッククロウは、恐喝や暴行、さらには薬物の売買にまで手を染めていると噂される、非常に危険な集団だ。


(まさか、悠真がそんな連中と……。信じたくない……でも……)

 彩花は、悠真がそんな危険なグループに関わっているとは到底思えなかったが、万が一のことを考えると、夜も眠れないほどの不安に襲われた。もし、悠真が本当にブラッククロウに利用されていたり、何か事件に巻き込まれたりしていたら……。

 自分が悠真を守らなければ。その一心だけが、彩花を突き動かしていた。彼女にとって、悠真は亡き母親が残してくれた、たった一つの大切な宝物なのだから。



 悠真が家に帰らなくなって、三日が経った夜。彩花のスマートフォンに、非通知設定の番号から一本の電話がかかってきた。恐る恐る電話に出ると、スピーカーの向こうから聞こえてきたのは、低く、威圧的な男の声だった。


「お前が、悠真の姉か?」

「……! はい、そうですが……悠真は、悠真はどこにいるんですか!?」


 彩花の声が、不安と怒りで震える。


「弟は、俺たち“ブラッククロウ”が預かっている。まあ、少しばかり生意気だったんで、灸を据えてやってるだけだ。命が惜しければ、てめえ一人で、今すぐ池袋西口の先の、第七倉庫まで来い。警察に連絡したり、誰か他の奴を連れてきたりしたら、どうなるか……分かってるよな?」

 一方的にそれだけ告げると、電話は乱暴に切られた。


(ブラッククロウ……やっぱり……!)

 彩花の全身から、血の気が引いていくのが分かった。悠真は、やはりあの危険なグループに捕らえられているのだ。そして、彼らは自分を呼び出してきた。一体、何が目的なのか。金か、それとも……。

 恐怖で全身が震え、立っているのもやっとだった。警察に連絡すべきか。いや、でも、もしそんなことをして、悠真の身に何かあったら……。彩花の頭の中は混乱し、正常な判断力を失いかけていた。

 だが、弟を助けられるのは自分しかいない。その思いだけが、彼女を突き動かした。

 彩花は店のレジから有り金全てをかき集め、それを小さなバッグに詰め込むと、誰にも告げずに一人、「サンライズマート」を飛び出した。向かう先は、池袋西口の先の、第七倉庫。そこが、ブラッククロウのアジトだという。

 夜の池袋は、昼間の喧騒とはまた違う、どこか危険な空気を孕んでいた。彩花は、人通りの少ない裏路地を選び、パーカーのフードを目深にかぶって、ひたすら指定された場所へと足を急がせる。道中、すれ違うケモミミたちの鋭い視線や、路地裏から聞こえてくる不気味な物音が、彼女の恐怖をさらに煽った。


(怖い……でも、行かなきゃ……悠真が待ってる……私が、助けなきゃ……)

 心の中で何度も自分に言い聞かせ、震える脚を叱咤する。愛する弟のためなら、どんな危険な場所へでも飛び込んでいく。それが、彩花の揺るがぬ決意だった。

 やがて、目的の第七倉庫らしき、古びて巨大な建物が、闇の中にその不気味な姿を現した。周囲には人気がなく、ただ、錆びたシャッターの隙間から、微かに明かりが漏れているだけだった。

 彩花は、ゴクリと唾を飲み込み、意を決して、そのシャッターの隙間から、倉庫の中へと足を踏み入れた。

 その先に待ち受ける運命も知らずに――。

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