第三章 鳥籠を破る者たち(漆)



静寂が、夜の帳を濃くしていた。


月も雲に隠れた今宵、紫夕の影は、屋敷の瓦を音もなく渡っていた。

背負うものは一振りの刃と、景久から託された“次の名”。


標的は、北の有力商家の嫡男。景久の裏取引を阻んだ咎により、今夜中に“消す”べき存在。


紫夕の呼吸は浅く、静かだった。

汗も、焦りも、心に浮かぶことはない。


ただ、その胸の奥底に、一輪だけ灯る灯がある。



──きみが笑っていた。


夜の離れで、眠る狼巴の顔。

小さな手。ふと触れた頬のぬくもり。

胸元で呼吸を預けてくるあの確かな重さ。


それは、紫夕にとって“人間である証”だった。

だからこそ、鬼にもなれる。


刃の先で誰かの命を終わらせる時も、顔を歪めることはない。

哀れみも、怒りも、持ち込まない。



標的は、奥の間で書を読んでいた。


障子を開ける音すらなかった。

紫夕は、影よりも影のようにその背後に現れた。


「あ……」


一言だけ、声が漏れた。


その瞬間、喉元に鋭く、しかし無音の刃が走った。


血は飛ばなかった。

紫夕は即座に術を繰り、傷口を焼き、衣を整え、痕跡を消した。


“いたはずの者”は、“いなかったこと”にされた。



屋根を伝い、紫夕は夜の空気を胸に吸い込んだ。

薄く冷たい風が、首元の襟を撫でていく。


(……終わったよ。景久様)


心の中で、そう呟いた。

けれど声に出すことはなかった。


その足で帰るのは、景久のもとではなかった。


紫夕はまっすぐ、離れの屋敷へと向かっていた。


人ひとりを葬ったあととは思えぬほど、紫夕の心は静かだった。

罪悪感も、背徳も、感情の類はとっくに削ぎ落としている。


──ただ、風の冷たさだけが“現実”だった。


その手は、冷えきっているはずなのに、どこか“熱”を帯びていた。


(……あの子に、この手で触れるのか)


その一瞬だけ、紫夕は立ち止まった。


狼巴が待つ離れの屋敷は、もう目と鼻の先だった。

けれど、足が止まったのは、

そこにいる“無垢”を、穢してしまいそうな気がしたからだ。



──殺めたばかりの手。


拭い切れぬ血の記憶。

術で清めたとしても、この手が誰かの命を奪ったという事実は、消えない。



あの子はきっと、今日も布団の中で丸くなって、障子の向こうの気配を、じっと待っているのだろう。



迷いが、影に濃く滲んだ。



庭の隅にある小さな手水鉢に、紫夕はそっと指先を落とした。


水は、秋の夜風を抱いてひどく冷たかった。


両の手を浸す。


こするでもなく、すくうでもなく、

ただその冷たさで、手の中の“記憶”を洗い流すように。


──ざば、と小さく水音が立つ。


指先の感覚が戻ると同時に、

紫夕はそっと自分の胸に手を当てた。


(……俺は、まだ“兄”でいられるのか)


その問いに、答えはない。


障子の外から、灯が見える。


狼巴は、まだ起きていたのだろうか。

きっと、兄の帰りを待っていたのだ。


紫夕は、手を伸ばす。


戸を開ける前の、一瞬。


──自分の手に、他人の血が付いていないことを確認する。


「ただいま、狼巴」


布団の上で目を擦っていた狼巴が、ぱっと顔を上げた。


「しゆにい……っ!」


その声に、胸が締め付けられた。


何も知らず、何も問わず。

ただ、兄の帰りを信じて待っていた、その笑顔。



紫夕は、にじむ感情を飲み込みながら微笑んだ。


「ごめん、遅くなったね。寒くなかったかい?」


「ううん、大丈夫。……しゆにいも、寒くなかった?」


「少しだけね。けど……きみの声を聞いたら、あったかくなったよ」



狼巴が、小さく手を伸ばした。


その瞬間。


紫夕は、ほんのわずか、指を引いた。


──人を、殺めた手。


だが、狼巴の小さな手は、ためらいなく兄の手を握った。


「……しゆにいの手、冷たいね」


「……ごめん。少しだけ、外にいたから」


その手を包み返す。

震えは、なかった。

温もりも、冷たさも、そこにはただ“確かさ”があった。


(……俺は、やっぱり、きみの兄でいたい)


そう願った時、

紫夕の手から、ようやく“血の気配”が消えていった。



その夜もまた、兄は弟のそばにいた。


刃としての冷たさを洗い流し、

ただひとりの“兄”としての姿を取り戻していた。


──わずかな灯のもとで。






---





香炉から立ちのぼる煙が、景久の私室に白くたなびいていた。

窓の障子はわずかに開き、風が紙をそっと揺らす。

紫夕は、いつもと変わらぬ静けさで景久の前に膝を折っていた。


「今宵は、君に少し違う話をしよう」


景久は、文台に手をかけ、机上の巻物をひとつ広げた。

そこには、ある名家とその周辺勢力図。

その中に、赤い印がいくつも打たれている。


「暗殺でも、破壊でもない。今回、君には“交渉”に出てもらう」


紫夕の眉がわずかに動いた。


「……俺に、交渉を?」


「そうだ。君の存在を、使う」


景久は巻物から目を上げ、紫夕の双眸を見つめた。


氷のようなその瞳が、ほんの一瞬だけ、光を反射した。


「君の姿は、威圧しない。美しく、静かで、信を置かせる。だが同時に、その奥に潜む“影”の匂いが、相手に恐怖を植えつける」


景久は言葉を選びながら、楽しむように語る。


「そんな人間は、滅多にいない。──いや、君しかいない」


紫夕は、返答をしなかった。

景久はそれを肯定と受け取り、静かに椅子から立ち上がる。


「この国の外には、いずれ我々の利を阻む者たちが現れる。彼らを、言葉と影で制し、我らにひれ伏させること。それが、今回の任だ」



紫夕は、静かに問う。


「……失敗したら?」


「その時は、“影”として君に振る舞ってもらう。交渉に赴いた君が、暗殺者であったと知られることなく、相手を処理してもらう」


景久は、笑みを浮かべた。


「言葉と刃、両方を持つ君だからこそ、与えられる役割だ」



紫夕は、わずかに目を伏せた。


この役目は、忍としての技だけでは果たせない。

景久の“顔”の一部として、人と対面し、言葉を使い、感情を演じる必要がある。


(人としての“仮面”を、被るのか)


だが、それが狼巴の安寧に繋がるのなら。

迷う理由は、ひとつもなかった。


「仰せの通りに」


景久は、歩み寄り、紫夕の髪に手を添える。


「君が私のために動く姿を見るだけで、私は悦びを覚える。君の凛とした顔、冷たい瞳、それでいて弟を思う微かなぬくもり……すべてが、私のものだ」


その言葉にも、紫夕は揺れなかった。

ただ静かに、主を見上げていた。


影として。

駒として。


──そして、狼巴の兄として。



---




降りしきる夜雨の音が、軒先を絶え間なく打っていた。


紫夕は、景久の命により単身、南の領主・伊倉の館へと向かっていた。

外郭同盟の締結、あるいは懐柔――そのための“使者”として。


伊倉家は、古くより血統と権威を誇る旧家である。景久と異なり、表の礼儀と体裁を重んじる彼らにとって、今回の“使者”が武官でも官僚でもなく、一介の青年であることは、侮蔑の対象ですらあった。


だが、紫夕が現れた瞬間、空気が一変した。



その姿は、飾り気のない装束に身を包み、

言葉少なく、礼を過たず、澄んだ瞳を持っていた。


刺すように冷たい双眸、無駄のない身のこなし。

そして、どこか“ただ者ではない”空気が、伊倉の家臣たちを圧倒していた。



「……なるほど。貴殿が、槻原殿の“使い”か」


当主・伊倉重尚は、あからさまな嘲笑を向けることはなかったが、その言葉の裏には警戒と興味が入り混じっていた。


紫夕は、姿勢を崩さずに低く礼をする。


「伊倉殿のご高名は、日頃より伺っております。本日は、ご信義と未来の安寧について、主の名を預かり参上いたしました」


言葉は、静かだった。

されど、揺るぎない芯があった。


重尚は、興味を抱かざるを得なかった。



交渉は、静かに始まった。


紫夕は、景久から託された文書を広げ、

対外の交易路、防衛線、互恵関係の維持について淡々と説明していく。


敵意も、媚びもない。

ただ、必要な言葉だけを、静かに置いてゆく。



──だが、紫夕の内には、初めての感覚が芽生えていた。


(……俺は、今、何者としてここにいる?)


刀を抜かず、人を斬らず、言葉だけを武器に、相手と渡り合っている。

景久の影ではなく、外交の代弁者として。


その“仮面”を被る自分が、どこか“薄く”、まるで影の裏側に立っているようだった。



数刻後、交渉は予定通りの進展を見せた。


重尚は、正式な回答を保留したものの、明らかに“紫夕という存在”に興味を抱いていた。


「貴殿、ただの使者ではあるまいな。

何者だ?」


紫夕は、微笑んだ。


「俺は、主命を預かる身です。それ以上でも、それ以下でもありません」


その瞬間、重尚の眉がぴくりと動いた。


それは微笑みの中に恐怖の端を、伊倉家の人々に残していった。




館を後にする頃、紫夕の袖には、わずかに汗が滲んでいた。

術でも戦でもない。

言葉という仮面を纏っていた数刻は、彼にとって異質な世界だった。


帰路の道すがら、紫夕はふと、狼巴の声を思い出した。


「しゆにい、なんか遠くに行っちゃいそう」


その言葉が、今になってじんと胸を刺した。



主のために、人を殺し、笑い、言葉を使い、仮面を重ねる。


──それでも、自分の芯に残っている“あの子の手”だけは、忘れないように。


紫夕は、夜風を吸い込んだ。





紫夕が伊倉家との交渉を成功裏に終えた頃──主・槻原景久の支配領域は、確実にその輪郭を変え始めていた。



まず、政治面。


景久は中央評議において、他の有力領主とは一線を画す発言力を持つようになっていた。

根拠は二つ。


ひとつは、絶えず“予想外の事故”に見舞われる政敵の失脚。

ふたつは、絶妙なタイミングで現れる“補完策”の提案と、代替案となる人物の推薦。


つまり、混乱の中で景久だけが常に“解”を持っていたのだ。


「槻原公こそが調停者であり、安定をもたらす男である」

それが、もはや誰も否定できない“事実”となっていた。



そして軍事面。


景久はあくまで「戦を好まぬ男」であり続けた。

だが、必要最小限の戦力整備を怠ることはなかった。


特筆すべきは、密かに設けられた“影部隊”の存在である。


正規軍ではなく、任命記録にも残らぬ“影の兵”。

彼らは夜襲・潜入・間諜を専門とする戦闘集団だった。


その兵たちは、一切の名乗りを上げず、戦旗を持たず、ただ景久の望む“結果”だけを残して去った。


「影の部隊」──

そう呼ばれるその兵団は、いつしか地方の軍勢の間で“神隠しの使者”と畏れられるようになった。



景久の館には、表の軍学者・経済官僚・外交使節が日夜出入りし、同時に裏では紫夕が処理を重ねていた。


紫夕の名は表には出ない。

だが景久の“力”として語られる影には、常に彼の輪郭があった。




人の器というものは、どこまで広がり得るのだろう。

景久は、ふと考えを巡らせた。


紫夕──あの少年に出会ってから、私はその問いを幾度となく反芻している。

はじめは、ただの贄であった。

光沢をもつ肌、影の中で育まれた均整の取れた肉体、そしてあの、誰も映さぬ氷の瞳。


傍らに置くに足る“物”として。

美を所有する悦びを味わうために。


そう思っていた。


だが、その認識はあまりに浅かった。



私は、彼を学ばせた。


礼法から始まり、数理、兵学、政治、書簡の手ほどきまで。

人が十年かけて学ぶものを、一年で彼は身につけた。

過程を愚直にこなすのではない。

核心を掴むのが、異様に早い。


彼は、ただ“教えを聞く”のではなく、

その根幹にある“理”を抽出し、自らの肉体と技に溶け込ませてゆく。


まるで氷が水に溶けるように。

否、水が氷に凝るように──冷え、沈み、やがて形を成す。



私は、彼を戦場へ送った。


表には出ない影の軍。名を持たぬ小隊。

潜伏、襲撃、攪乱、斥候、内応──

紫夕は、一つひとつの任務を、ほとんど傷一つ負わずに戻ってくる。


その刃は冷たく、よく研がれていた。



だが、真に恐ろしいのは──

彼が、ただ任務をこなす“忍”であることに、微塵も執着していない点だ。


人であろうと、影であろうと、主命に従うなら何にでもなれる。

それが、紫夕の中に在る“静けさ”だ。


この柔らかく沈黙に包まれた刃を、

私は、己の覇道の象徴として掲げるに至った。



私は彼に触れる。

それは快楽でも愛情でもない。

ただ“主が影を支配している”という事実を、世界に示すため。


肌を合わせることは、時に儀礼としての意味を持つ。

私が彼の背に手を添えるたび、彼は静かに首を傾げ、まるで文を受け取るように、その所作を受け入れる。


情はない。

だが、その在り方に、私はある種の“神聖”を感じる。



紫夕という器を、私は手にした。

けれど、その深さを測りかねている。


若さ。

それだけが、彼の不完全な部分である。


あの年齢で、すでに国家を操る才を持ち、

人の心を見透かし、兵を動かし、刃を振るう。

にもかかわらず、彼はまだ“少年”の域を出ぬ。


──そのことが、私にささやかな“畏れ”を抱かせる。



夜、私の寝所に彼が来る。


肌を寄せるわけではない。

まるで式のように、ひとつ所作を終え、共に褥に沈む。


その行為に、私は“安心”を得る。


私の下にある、という確信。

彼が私の意志に従って動き、息をし、眠るという実感。


それがなければ──

私は、あの氷のような瞳に、呑まれてしまいそうになるのだ。



紫夕。


おまえの瞳には、私すら映さぬ冷たさがある。


それが、私の中で恐れとなる。

だが同時に、覇者としての悦びでもある。


どれほど優れた者であっても、

主命を受け、従い、支配される存在である限り──私の中に収まっているという証明なのだから。



おまえの美は、永劫凍土の如く。

おまえの才は、剣より鋭い。

そしてその心は、雪の下の泉のように、誰にも知られぬまま、眠る。



私はその泉の縁に、ただ静かに座ることを許された存在なのだ。

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