第二章 金色の鳥籠

──山が終わった。


だが、それは決して希望の始まりではなかった。むしろ、命の終わりが背後から追いついてきた気配がした。誰かの息が、静かに、だが確かに絶えようとしている──そんな音が、確かに耳の奥に届いていた。


雪解けの季節。冷たい水が山肌を伝い、ぬかるみを作っていた。岩が剥き出しになった細い山道は、幼い足にはあまりに険しく、やわらかな肌は歩を進めるたびに傷付き、泥が飛び散った。


夜がようやく明け始め、東の空が微かに朱に染まる頃、木々の隙間から射した柔らかな光が、黒々とした森の奥をゆっくりと照らし始める。


その光に向かって、二つの影がよろめくように進んでいた。


否、正しくは──一人の子供が歩き、もう一人はその背に力なく預けられていた。


「しゅにぃ……もうすこし……もうすこしだから、がんばって……」


掠れた声で、狼巴がそう呼びかける。彼はまだ七つの子供。幼さの残る細い肩に、十三歳の少年の体が重くのしかかる。兄の名を呼ぶ声は、今や吐息のように細く、今にも途切れそうだった。


紫夕の体はひどく冷たく、背に伝わる感触はもはや生の温もりではなかった。破れた衣の下、幾つもの傷が露わになり、そこから流れた血はすでに乾いて、肌に黒く固まっていた。顔色は恐ろしいほど白く、唇には血の気がなかった。閉じた瞼の奥で、かすかに震える睫毛だけが、彼がまだ生きていることを示していた。


それだけが、狼巴を前へと歩かせていた。


「しゅにぃ、……あれ、みて……ひと、いるよ……」


森を抜けたその先、開けた視界の中に、舗装された街道が広がっていた。整えられた石畳。その向こう、木立の影から馬車の音が微かに響いてくる。朝の市へ向かうのだろうか──まだ小さな町の、目覚め始めた生活の音が、遠くから届いてくる。


助けを──。


狼巴の喉が震えた。けれど、叫ぼうとしたその声は、空気に溶けることもなく、唇の先で止まった。言葉にならなかった。意識が霞む。気力も限界だった。


ふと、足元から力が抜けた。


崩れるように、彼の膝が地に落ちた。


「……しゅ、に……」


声とも呼吸ともつかない、名残のような音。泥に染まった小さな手が、最後に紫夕の肩を抱き締めようとして、空を掴んだまま止まった。


そして、彼の意識もまた──静かに、深い闇の底へと沈んでいった。





===





目覚めた時、狼巴は白い天井を見ていた。


匂いが違う。湿った木の匂いではなく、香が焚かれた甘い香り。身体に掛けられた布は温かく、肌触りも柔らかい。


「しゅにぃ……?」


声は弱々しかったが、確かに出た。身体を起こそうとするが、頭が痛む。喉も焼けつくように渇いていた。


「おお……お目覚めか」


聞き慣れない低い声が響いた。ゆっくりと顔を上げた先にいたのは、黒漆の羽織に灰銀の紋をあしらった男。一つに結った蒼銀の長髪に、端整な輪郭に落ち着いた物腰。和装の襟元から覗く喉元には、銀で縁取られた硝子の数珠が揺れていた。


「君の名前は?」


狼巴は警戒心と疲労の狭間で、その男の顔を見つめる。美しくもどこか嘘臭い微笑──だが、安心感はあった。


「ろう……ろうは……しゅにぃは、どこ?」


「君の“兄上”も、手当てを受けているよ。かなりの重傷だったが……生きている」


安堵が胸を満たすと同時に、涙がにじんだ。だが、そこに甘えてはいけない。狼巴の心は、あの夜から確かに変わり始めていた。


「あなた……たすけてくれたの?」


「そうとも。偶然とはいえ、この道を通ったのは幸運だった」


男は優雅に立ち上がると、狼巴の額に手を当てる。


「私の名は、槻原 景久(つきはら かげひさ)。この地のささやかな領を預かる者だ。だが、難しく考えることはない。君は今、安全な場所にいる。それだけでいい」


その声は落ち着き払っており、まるで琴の音のように心に染み渡った。






===





紫夕が意識を取り戻したのは、夜が最も深く、静寂に包まれる頃だった。


まぶたの裏に、光が差し込んでくる。痛みとも温もりともつかぬその光に、彼はゆっくりと目を開けた。まず視界に映ったのは、見慣れぬ天井だった。白漆喰のような、淡く乾いた質感。その隅を縁取る木枠には繊細な細工が施されており、明らかに山の庵のような粗末な造りではない。


薬草の香りが鼻をかすめた。それは純粋な癒しの香りではなく、沈香や伽羅を混ぜたような、妙に意図的で人工的な匂いだった。まるで、誰かの手で意識を封じられ、ようやく“目覚めさせられた”ような、そんな後味の悪い感覚が全身に残る。


目の奥がじんと熱い。脳の中心が微かに脈打つ。額には冷たい汗が滲んでいた。


「……っ、ろうは……」


声にならない、かすれた吐息。唇は乾き、喉はひりついていた。呼んだつもりだった──けれど、誰も応えなかった。


返事の代わりに、静まり返った室内に響いたのは、障子の向こうから漏れ聞こえてきた笑い声だった。澄んだ鈴のような声。軽やかで、楽しげで、まるで今が宴の最中であるかのような音色。さらに、複数の足音が畳を踏みしめる微かな音とともに続く。




紫夕は体を起こそうとした。しかし、動かそうとした腕は石のように重く、肩の関節は軋むような痛みを訴えた。脚も感覚が鈍く、思うようには動かない。まるで体全体が重りに引きずられているようだった。無理に力を込めれば、頭がぐらりと揺れ、視界が一瞬白く染まる。


「……どこだ、ここは……」


口の中で呟いた言葉もまた、自分の耳にすら届かぬほど小さかった。


だが紫夕は、直感で理解していた。


ここはただの部屋ではない。


たとえ畳が敷かれ、寝具が整えられ、香が焚かれていようとも──これは、檻だ。飾られた牢である。


そして、何より恐ろしいのは。


狼巴の気配が、どこにも感じられなかったことだった。


どこにもいない。隣にいない。手が届く距離にいない。気配が、温もりが、存在そのものが、この空間からまるで断ち切られている。


──引き離された。


そう確信するのに、言葉も証拠も必要なかった。


静かに唇を噛み締めたその瞬間、紫夕の胸にはひどく冷たい感情が広がっていた。怒りでも悲しみでもない。ただ、空白。そこにあるべきものが、ぽっかりと抜け落ちたような、耐え難い空虚が広がっていく。


まだ何も見えぬ夜の奥で、彼の心だけが──凍えたように震えていた。



===


朝──


静かな陽光が障子越しに差し込み、館はまるで深い眠りからそっと目を覚ますように、静穏のうちにその輪郭を取り戻していった。遠くで聞こえる鳥のさえずりと、庭先の水の音。整えられた空間に満ちるのは、穏やかだが、どこか張りつめた静けさだった。


薄桃色に縁取られた障子、檜の香りがほのかに漂う清らかな空間。記憶の断片がぼんやりと浮かび上がり、次第に現実に馴染んでいく中で、狼巴の横に控えていたのは──見慣れぬ女だった。


年の頃は、まだ二十代の前半だろうか。漆黒に近い濃紺の和装を美しく着こなし、腰まで伸びた髪を一つに結い上げている。所作は一分の隙もなく整っており、手にした湯桶を音もなく床に置く姿には、長年仕込まれた礼節が滲んでいた。


「お目覚めですね。お加減はいかがでしょうか?」


優しく穏やかな声音。けれど、その抑揚には、どこか事務的な距離感があった。


狼巴は一瞬、夢の続きかと錯覚した。だが、自分が見知らぬ部屋の柔らかな布団の上にいる現実が、体の節々の痛みとともに明瞭になっていく。


「……あ、あの……しゅにぃは……紫夕は……?」


声はうまく出なかった。喉の奥がひりつき、感情が溢れるのを押しとどめるように、声が震えた。


それに対して、女は変わらぬ微笑を保ちながら、静かに答えた。


「紫夕様もすでにお目覚めでございます。ただ──今は、別のお部屋でお過ごしになっております。旦那様のご配慮により、おふたりにはそれぞれ特別なお部屋があてがわれております」


「……会えないの……?」


狼巴の声には、幼さと不安が滲んでいた。小さな指が、布団の端をぎゅっと握りしめる。


その問いに、女はほんの一瞬だけ、表情を曇らせた。眉がわずかに寄る。だが、すぐにそれを打ち消すように、再び笑みを形づくり、深々と頭を下げた。


「……紫夕様は傷が深いため…。しばらくは、療養に専念されるよう、との旦那様のお言葉でございます。どうか、ご安心くださいませ。旦那様は、おふたりをとても大切に思っておられます」


その言葉は丁寧だった。滑らかで、礼を尽くしていた。けれど、それはどこか──まるで上から塗り固められた金箔のようだった。ところどころで剥がれかけ、何かがうっすらと透けて見える。


狼巴の胸に、ざらりとした違和感が広がる。紫夕が目を覚ましたというのに、どうして顔すら見せてくれないのか。療養のため? 特別な部屋? それは本当に、彼のためなのか?


ふと、視線が部屋の隅に移る。見張りの気配はない。だが、妙に完璧に整えられたこの空間が、かえって不自然に思えた。障子は閉じられ、窓も開け放たれていない。光はあっても、風が通らない。──外の空気が、感じられなかった。


狼巴の心には、確かな影が差し始めていた。

疑念──そして、取り残されたような深い孤独。

その小さな胸を占めるのは、まだ名もない恐れだった。





===





紫夕は傷の痛みに目を覚ました。

朝の光を浴びると、そこはあまりに整いすぎた座敷だった。


白漆喰の壁は磨かれたように滑らかで、陽光の加減で仄かに金泥の模様が浮かび上がる。雲や花、あるいは天女の衣を思わせる流麗な文様は、見る者の目を和ませるために描かれているのだろう。しかし、その柔らかな美しさが、逆に紫夕の胸を重くした。


部屋の隅々までが清浄に保たれていた。畳には埃ひとつなく、香の香りが空間を満たしている。気品ある設え──だが、どこか異様だった。美しさが過剰で、整いすぎていた。


枕元には、いくつかの物が並べられていた。湯が注がれた漆器、焚かれた香炉、そして、見たことのない小瓶に入った琥珀色の液体。


それは仄かに甘く、どこか懐かしい香りを漂わせていた。女中が「お薬です」と言って渡したそれを、紫夕は警戒しつつも唇に含んだ。


──瞬間。


意識がふわりと揺れた。


思考がにじみ、重力が曖昧になる。骨の内側から何かがじわじわと滲み出し、ゆっくりと熱を帯びていくような、不自然な感覚。体が少しずつ浮き、そして沈んでいくような心地。


「……これ、は……」


これは、単なる薬ではない。癒しや治療のためだけのものではない。意識を曖昧にし、体の感覚を鈍らせる──そのためのものだ。そう直感したが、言葉にするには遅かった。


思わず立ち上がろうとしたが、体が言うことをきかない。


扉に手をかける。だが、開かない。内鍵はない。外からしか開かない造りだった。部屋に備え付けられた障子窓には、細かい木製の格子がはめ込まれている。決して荒くはない。むしろ装飾のように美しく作られているが、逃げ道がないことを示すには十分だった。


──この部屋は、外に出ることを想定していない。


病室ではない。療養の間でもない。これは、あくまでも「囲う」ための場所だ。


そして、何よりも不快だったのは、外から聞こえてくる“音”だった。


足音。笑い声。高い笑い声と低い囁き、談笑、何かのやり取り。それらはどれも穏やかで、楽しげで、むしろ明るすぎるほどだった。だが、その明るさが皮肉だった。まるで、真実から目を逸らさせるために用意された仮面のように、表情だけが浮かんで見える。


──誰が、どこで、何をしているのか。


考えようとすればするほど、紫夕の胸に冷たいものが流れ込んできた。


ここは普通の邸ではない。


表向きには、静謐と礼節に満ちた迎賓の館。客をもてなし、療養と称して休息を与える。──だが、それは表だけだ。


裏では、欲望と支配が絡み合っている。


この館は、美という名の装飾をまとった“檻”だ。


紫夕は、理解していた。


ここは、“欲”が正面から花開く場所だ。人の名を借り、情を借り、甘やかな言葉と装飾で塗り固められた、抜け出せぬ金の鳥籠。


呼吸を整えようとしても、胸の奥がざわついて、うまく息が吸えなかった。


──狼巴は、どこにいるのだろう。


その名を胸中で呼んだ瞬間、かすかに浮かんだのは、あの子のぬくもり。小さな背中を抱えた、あの夜の記憶。


それすらも、今は幻のように思えるほど、ここは現実から切り離されていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る